『明日、有希とみくるちゃんと一緒に買い物に行くわよ』 ――と、ハルヒから電話が掛かってきたのは、金曜日の夜のことだった。 「明日?」 『そう。どうせ暇なんでしょ?』 そりゃ、予定は入ってないが…なんで買い物なんだ? 『あんたバカ? あんたのための買い物に決まってるでしょ』 「俺のための買い物って……まさかとは思うが、」 と俺は声を潜めた。 自分の部屋とはいえ、妹がいつ入ってくるかも分からんからな。 「…女装のための、か?」 『当たり前でしょ』 当たり前って言うな。 『どうしてよ? あんただって、気に入ったんでしょ?』 「それは…そうだが……」 思わず語尾を濁す俺の心情になど、ハルヒはちっとも配慮を見せず、 『なら、いいでしょ。あんたがあたしたちの着せたい服を着てくれるんだったら、あたしたちもお金出すけど、そうじゃないんだったらあんたに買わせるからね。ちゃんとお金用意してきなさいよ』 そう言ったハルヒは待ち合わせの場所と時間を一方的に指定して、電話を切った。 服を買うのはいいが……女物の服って、いったいいくらするんだ? 俺はため息を吐きながら、財布の中身を確かめることになった。 しかし、どうして古泉は誘わなかったんだ? 俺がそんな疑問を口にすると、準備万端整えて駅前で待っていたハルヒは呆れ返った顔をして俺を見た。 「どうせなら驚かせてあげたいでしょ」 「ああ、なるほど」 古泉の驚く顔はなかなか見られない上に、面白いからな。 「納得したんだったら、早速準備しないとね」 とハルヒはニヤリと笑い、俺を公衆トイレの身障者用スペースに連れ込んだのだった。 当然、朝比奈さんと長門も一緒だ。 「今日の服はこれよっ!」 高らかに叫んだハルヒの声はトイレの外にも響いたんじゃなかろうか。 声と同じくらい高らかに掲げられたのは、男ではとてもじゃないが着れないような、Tシャツみたいな形をしたブラウスにレースのリボンが付けられたものだった。 「下も一応用意してきたけど、今はいてるジーパンに合わせたんでよさそうね」 と言うハルヒに、俺は怖々尋ねた。 「…そのブラウスのデザインは、胸がないとまずい気がするんだが?」 「そうね。でも、心配は要らないわ。ちゃんと用意してあるから」 自信満々に言い放ったハルヒに、なんでこんなにも面白がっているのかが分かり、頭がくらくらした。 ハルヒが取り出したそれは、女性特有の膨らんだ胸を模したもので、いわゆるパッドと呼ばれるものだった。 どうせ服で隠れるんだから別の色でもいいだろうに、ご丁寧に肌色をしているあたり、妙に生々しい。 「ちゃんと乳首の色まで再現されてるのとかもあるんだけど、それは高いからとりあえずこれよ」 そんなもん、あったところで要らん。 そもそも詰め物なんて適当な布でも突っ込んどけばいいんじゃないのか? 「それじゃつまらないでしょ。文句言ってないでちゃっちゃと脱ぎなさい!」 痴女まがいの台詞を恥ずかしげもなく放つのが、SOS団の団長である。 当然、平団員であり目下のところ朝比奈さんに並ぶほどオモチャにされている俺の抵抗など許すはずがない。 それどころか、俺が躊躇う暇さえ与えず、強引に俺の服を脱がせちまった。 朝比奈さんは慌てて背中を向けたが、長門は気にしていないらしい。 …頼むから、少しは気にしてくれ。 これだけで疲労感に打ちのめされそうになっている俺に、ハルヒは取り出したブラジャーを付けさせる。 もちろん、パッドも忘れずに。 俺は抵抗する気力もない。 ガンジー無抵抗主義だということにしておいてやってくれ。 「ハルヒ、ひとつ聞きたいんだが」 「何よ」 パッドがちゃんと収まっていることを確認しているハルヒに、俺は聞いた。 「…どこで買ってきたんだ?」 「ネット通販。女装グッズって結構売ってるのね」 知るか、そんなこと。 「あんたのサイズはこの前測っておいたから、ネット通販でもいいと思ったのよ。でも、あんたくらい細かったら普通に店で売ってるのを買っても大丈夫かもね」 俺にどの面下げて買いに行けって言うんだ? 「ばかね。そのために今からちゃんと女装するんでしょ」 そう笑ったハルヒは、俺の頭からさっきのブラウスを被せると、 「有希、後はお願いね」 と長門にバトンを渡した。 化粧は長門の役目になったらしい。 「キョンも、ちゃんと見ときなさいよ。自分で出来るようになりたいでしょ?」 それはそうかもしれないが、自分では到底長門やハルヒのようには出来ない気がする。 「…大丈夫」 と言ったのは長門だった。 「言ってくれれば、いつでも私がする」 ……長門、お前も結構気に入ってるんだな。 準備万端整えて、俺たちはトイレから出た。 相変わらず、女装した状態で表に出るというのは緊張するものだが、それでも前回少しも怪しまれなかったこともあって、いくらか気分は楽だった。 「それで、何を買いに行くんだ?」 俺が聞くと、ハルヒは指を折りながら、 「化粧品は今使ってるのを貸してあげるからいいとして、服は欲しいでしょ? 当然下着も。靴も、女物の方がいいだろうし、アクセサリーなんかも必要よね」 「…帽子もいるんじゃないか?」 「なんで?」 「これだけ髪が短いんだから、隠した方がいいだろ」 「近頃はベリーショートにしてる女の子もいるから、あたしは今のままでも別にいいと思うけど、あんたがそう言うんだったら帽子も見てもいいわ」 そう言ったハルヒに連れていかれたのは、少しばかりしゃれた古着屋だった。 しゃれてはいても古着だ。 値段はかなり安くて、俺が普段着る服を買いに来てもいいかも知れないと思うくらいだった。 どうやら、俺の財布の具合に一応配慮してくれたらしい。 と、そんなことを思った俺は早計だったね。 ハルヒがこの店を選んだ理由は単純に、種類が豊富だからというだけだったらしい。 とっかえひっかえ服を着せられたことについて、あえて詳細に語る必要はないだろう。 ハルヒも長門も、……朝比奈さんまで、楽しんだと言うだけだ。 自分が着せ替え人形か何かにされたような錯覚に陥りつつあった俺だが、ハルヒたちによって選ばれた服の中から一応の選択をさせてもらえることにはほっとした。 言われるままに買わされるだけかと思ってたからな。 選んだのは、手持ちのTシャツと合わせやすそうな白のパーカーと、赤いチェックのミニスカート、それから頭を隠すための女物の黒い帽子だった。 何でミニスカなんてものを選んだのかと聞かれたら、他のも全部ミニだったからとしか言いようがない。 俺は、男の身で足をさらすようなことはしたくない、むしろ周囲への害にしかならんと主張したのだが、ハルヒはあっさりと、 「大丈夫よ。あんた、脚きれいだし」 と一蹴してくれた。 そんなところを褒められても嬉しくない、と言ってやりたいところなのだが、女装を楽しんでしまっている分際では、なんとも言いがたい。 「後は普通のお店でニーソックスとかストッキング買いましょ」 「なんでわざわざニーソックスなんだ」 「ミニスカにニーソックスは宇宙の黄金律だからよ! 絶対領域は何者にも犯されちゃいけないの!」 そう言い放ったハルヒに、長門が小さく頷いていたのを、俺は見てしまった。 ……本当に宇宙の黄金律になっていたらどうなるんだ。 黒いニーソックスとストッキング、それからついでとばかりに安目のイヤリングを買わされた。 「ピアスも指輪も男の人でもしますけど、イヤリングをしてる男の人ってそういないでしょ? だから、イヤリングの方がいいんじゃないかと思ったんです」 という朝比奈さんのご推薦付きで。 耳にそれなりの重量のあるものがぶら下がって、ちゃらちゃら音を立てている状況というのは生まれて初めてで、どうにも落ち着かないのだが、それを言い出せるはずもなく、俺は大人しくそれを買ったというわけだ。 「指輪は今度古泉くんに買ってもらいなさいよ?」 悪戯っぽく笑いながらそう言ったハルヒに、俺は顔を顰めた。 言葉の意味を問い返す必要こそないものの、俺になんと答えろって言うんだ。 黙り込んだ俺にハルヒは声を上げて笑い、 「それじゃあ次は靴よ」 と俺を引っ張って歩きだした。 セール品の黒いパンプスを買ったのは、最初に女装した時着せられたあの黒いスーツに合わせるためだ。 ついでにと買わされた、茶色のショートブーツをその場で履かされて、慣れないヒールの高さによろけそうになる。 「よくこんなもんで歩けるな」 俺が言うと、 「足が痛くなったら元の靴に履きなおしなさいよ。慣れたら、出かけてる間くらい平気になると思うけど」 そうは言われても、歩き辛い。 ぎこちなく歩く俺の手を長門が取り、 「重心をもう少し後ろに取った方がいい」 「後ろって……こうか?」 おっかなびっくりになりながら、少し体を反らすと、少しバランスが安定した。 「そう。……手は、このままでいい?」 「ああ、悪いが少し貸しておいてくれ。このまま放されるとすっ転びそうだ」 「…分かった」 長門に手を借りた状態で、頼りない足元を気にしながら歩いていると、行き先を気にする余裕などない。 よって俺は、自分がどこに誘導されているのか、そこに着くまで全く気にしていなかったのだ。 「……な、んだ、ここは」 「わかってるくせに何言ってんのよ。ほら、入り口で止まってたら邪魔でしょ。さっさと入りなさいっ!」 どんっ、と突き飛ばされ、よろけながら入ったそこは……要するに、女性用下着の専門店で、……はっきり言って、目に毒だ。 「わぁ、これ可愛いです」 にこにこ微笑む朝比奈さんが持っているのは、白いレースがあしらわれたピンクのブラだし、 「だめよみくるちゃん、キョンにはこっちの方が似合うわっ!」 と言ったハルヒが持ってるのは、レースも生地も黒いものだ。 長門は長門で、 「……古泉一樹の好みは、こういったもの」 と、どこ情報だか分からないことを口にしながら、白いブラをそっとつまんでいる。 「キョン、あんたはどれがいい?」 頼むから、俺に聞くな。 「あんたのなんだからあんたが選ばなきゃだめでしょ。見せる相手もいるんだったら、ちゃんと選びなさい」 「見せる相手って…」 思わず絶句する俺に、ハルヒはきょとんとした顔をして、 「まさか見せないつもりじゃないでしょうね」 「見せる見せないの問題じゃないだろ!」 大体お前はもう少し恥じらいというものを、と説教モードに入りかけた俺を、ハルヒは、 「顔、赤くなってるわよ」 の一言で黙らせた。 「別に、付き合ってるんだったら恥ずかしがらなくてもいいんじゃないの?」 「付き合ってるも何も…そう言えるような関係じゃ、ない」 好きだと言われたし、俺もそれに肯定の返事を寄越したようなもんだが、断定はしていないし、そういう意味で付き合えといった記憶も言われた記憶もない。 「心配しなくても、」 呆れたように言いながらも、ハルヒは俺の肩を優しくぽんと叩いた。 「古泉くんにはちゃんと通じてるわよ。どうしても気になるんだったら、今度聞いてみればいいでしょ。ただし、呆れられる覚悟くらいはしておきなさいよ」 なんでここまで優しいんだ、と感動しかけた俺は間抜けだ。 「分かったら、さっさと選びなさい!」 ハルヒの目的なんてものはとっくの昔に分かりきってたはずだってのに、そう満面の笑みで言われるまで、すっかり忘れてたんだからな。 消去法で選んだのは、一番大人しいデザインだった長門推薦のものだったことだけを付け足しておく。 すべての買い物が終了した時には、俺の財布はすっかり軽くなり、そのかわりに、手にした荷物はそこそこの重さと大きさになっていた。 服や靴みたいなかさばるものが多かったせいも大きいんだが、流石に目立つ。 これを家に持って帰れば、不審がられること間違いなしだろう。 さて、どうしたものかな、と考え込んだ俺に、 「私の部屋に置けばいい」 と長門が言った。 「長門?」 「そうすれば、問題はない。使う時には私の部屋で着替えれば、見つかり辛くなる。私なら、化粧も手伝える」 「……いいのか?」 「いい」 まあ、悪ければ言わないだろうし、何より長門がどことなく嬉しそうにしているんだ。 ここは甘えさせてもらった方がいいだろう。 「じゃあ、頼む」 頷いた長門に、礼を言ったところで、俺ははたと気がついた。 長門の部屋で着替えをしたりするということはつまり、あれか。 俺がいつ女装したか、いつまで出かけていたか、なんてことがハルヒまで筒抜けになるってことじゃないのか? そのハルヒはすでに長門になにやら耳打ちしている。 長門、何を言われてるのか知らないが、軽々しく頷いて犯罪の片棒を担ぐようなことにはなるなよ。 俺は思わずため息を吐いたが、一日振り回された疲労感からするとそれはどうにも重みの足りないもので、どうしようもなかった。 |