こんこん、とドアがノックされた。 いつもなら、朝比奈さんが愛らしく、 「はぁい」 と言いながら開けに行くところなのだが、今日はそうならなかった。 ニヤッと笑いながら、ハルヒが俺に目配せする。 俺はため息を吐きながら、ドアへと向かった。 せめて訪問者が部外者ではないことを祈りながら。 「はい、どうぞ」 言いながら俺がドアを開けると、そこには古泉が立っていた。 よかった、セーフだ。 だが古泉はぽかんとした顔で俺を見つめ、それからぱっと赤くなった。 おお、相変わらずいいリアクションだ。 「な、何をやってるんですか!?」 「何って……メイドコス?」 俺が言うと、ハルヒが、 「疑問形にしなくていいでしょ。ちゃんとメイド服着てるんだから!」 と文句をつけた。 つまり、俺は今メイド服を着ているわけなのだが、そのデザインは朝比奈さんのそれとはいささか違っていた。 スカートはすらっとしたラインの、広がりのないロングスカートだし、エプロンもフリルやレースが少ないデザインだ。 ただし、袖は肩の辺りで膨らんでいるし、頭にはちゃんとヘッドドレスも載っている。 色は黒と白で、そこはかとなくゴスロリっぽくも見える。 ついでにと掛けさせられたのは、シャープなラインを描く、どこかのキャリアウーマンが掛けてそうな伊達眼鏡だ。 ……一体どこからどうやって用意したんだろうな。 「どう? 古泉くん。この衣装、有希が作ってきたのよ」 「は、はぁ…。凄いですね…」 まだ冷静になりきれない様子の古泉に、俺は笑いながら、 「化粧も今日は長門がしてくれたんだ。いつもと少し違って、なかなか迫力があるだろ」 目を強調してあるからな。 俺が言うと、古泉は困ったように笑いながら、小さくため息を吐いた。 「本当に、女装がお気に召したんですね」 「別にいいだろ」 誰かに迷惑を掛けてるわけでもないし、ハルヒも長門も楽しんでるんだから。 「あたしも楽しいです」 と朝比奈さんも言ってくださった。 「ありがとうございます」 そう笑顔で返すと、朝比奈さんが天使のような微笑を返してくれる。 これもひとつの役得と言うものだろうか。 そんなことを思っていた俺を見つめながら、古泉が呟いた。 「その服装なら、髪は長い方が似合いそうですね」 「お前もそう思うのか」 俺が言うと、ハルヒが、 「だめよ古泉くん。こういう男の子ですって感じの髪型でありながら女の子らしいメイド服を着てるところが萌えなんだから!」 それはお前個人の趣味であり、またそれが一般的なものかと言われると判断に悩むのだが、俺たちはハルヒが強気に物を言う時にそれを打ち消す術を知らん。 よって古泉は曖昧な笑みを浮かべ、いつもいつもそうするように、 「涼宮さんが仰るのであれば、そうなのでしょう」 とお追従だ。 全く、ご苦労なことだな。 ため息を吐いた俺は、壁に立てかけておいたほうきを取り、それにもたれながら、軽く手を組んだ。 その上に顎を乗せると、何故かハルヒが、 「キョン、あんたも分かってるじゃない」 と目を輝かせたが、一体何の話だ。 「そのポーズ、凄くいいわ! 写真撮ってもいいわよね!?」 「写真って…」 「心配しなくても、ホームページに貼り付けたりはしないから。ね!」 俺は掃除の続きをしたかったんだが、 「そんなのあとあと!」 と言うハルヒに押し切られ、撮影会に雪崩れ込んでしまった。 そもそもなんで俺がこんな格好をしていたかというと、俺はただ単に掃除をしようとしていたのだ。 気がつくと、部屋の中に要るんだか要らないんだかも分からないものがごちゃごちゃとうずたかく積み上げられ、日々の簡単な掃除じゃ追いつかないような始末になっていたからな。 だから、掃除をしようとしていたところで、 「掃除するんだったら丁度いいコスチュームがあるわよ」 というハルヒの言葉で、引っ張り出されたのがこのメイド服だったわけだ。 そんなものをいつの間に用意していたんだとか、掃除をするだけのことになんでわざわざ実用性に乏しい服に着替えなければならないんだとか、言いたいことはいくつもあった。 だが、それを言わずに大人しく着替えたのは、誘惑に負けたからだとしか言いようがない。 ……スカートも、着てみたかったんだよ。 ああ、どんどん取り返しのつかない領域に足を踏み込んでいるような気がする。 「それは多分、あなたの気のせいではないでしょうね」 レフ板を大人しく掲げていた古泉が、苦笑混じりに言った。 「それで、ご感想は?」 「……ひらひらしてて面白い」 見てろよ、と言いながら俺はくるっと回ってみせた。 ふくらみの少ないスカートなのだが、それでもふわっと広がる。 「可愛らしいですね」 「だろう?」 ハルヒのセンスだけは褒めてやってもいいかも知れない。 「いえ、服ではなくて――あなたが」 そう小さく口の端を吊り上げた古泉に、 「お前な……」 呆れながら呟くしかない。 なんと言ってやるべきだ? 恥ずかしげもなく臭い台詞を吐くなと言ってやればいいのか? 何にせよ、勘弁してもらいたい。 ほら、ハルヒもニヤニヤ笑ってるじゃねぇか。 「別にあたしたちのことは気にしなくてもいいわよ。顔を赤くしてるキョンも可愛いし」 そう言ったハルヒは遠慮の欠片もなくシャッターを切った。 結局、掃除を始められたのは三十分以上も後になってからだった。 この格好で部室の外に出るのは流石にまずいだろうと、古泉に水汲みを頼んだのだが、嫌な顔もせずに二つ返事で出て行った。 ……便利だ。 朝比奈さんは、俺のやる気に触発されたのか、いそいそとお茶の道具の手入れに勤しんでおられる。 後は長門とハルヒだが、ハルヒは俺の言うことなんざ聞かないだろう。 「長門、本の整理……は必要ないかも知れんが、虫干しくらいはしておいた方がいいんじゃないか?」 と俺が長門に言うと、長門は、 「正確には虫干しではない。虫干しとは本来夏の土用の頃に行うもの」 名称はどうでもいいんだが、 「とにかく、たまには風を通した方がいいだろ」 頷いた長門と共に、机の上に本を並べ立てると、結構な量だった。 本棚にすっきりと収まっているとそうは思えないんだが、案外多かったんだな。 「長門、お前これ全部読んだのか?」 えらく難しそうな理系の本まであるんだが。 「そう」 長門が読むのはSFや洋書ばかりではないと思ってはいたが、そんなところまで読んでいたか。 「なあ、これは全部元からここにあった本だったんだよな?」 「そう」 「じゃあ、勝手に処分したりするわけにも行かないか」 読まない本をずっと置いておくのも無駄だと思うんだが、飾りだと思って諦めよう。 それとも、箱にでも詰めて隅に追いやろうか。 そうすれば長門が気に入っている本を並べることも出来るだろう。 「いい。今のままで十分」 「そうか?」 「そう」 長門がそういうならそうなんだろう。 本を広げた後は、空になった本棚の掃除だ。 隅の方にはやはり埃がかなりたまっている。 ざっと埃を叩き落としたところで、古泉が水の入ったバケツを携えて戻ってきた。 「ご苦労さん」 と声を掛け、部屋の隅に下ろすように言ってやると、 「本格的な大掃除になりそうですね。僕は何をしたらいいでしょうか」 「とりあえず、本棚の上の方を拭いてくれるか? 俺だと手が届かんから」 「いいですよ」 素晴らしいまでにイエスマンだな。 文句ひとつ言いやしねえ。 絶対に拒まれないと分かっていると、何でも言える気がしてくる。 これだからハルヒも好き放題にわがままを言えるのかも知れない。 そんなことを思いながら、古泉が立っている椅子が倒れないように押さえていると、ハルヒが、 「古泉くん、キョンと逆の方がいいんじゃないの?」 と古泉に言った。 「どうしてですか?」 問い返した古泉同様に首を傾げた俺に、悪代官か何かのような笑みを浮かべたハルヒは、 「キョンが上に上がった方が、スカートの中を覗きやすいでしょ」 お前はどこのスケベ親父だ。 あと、そう簡単に覗けるような長さじゃないだろ。 「下らんことを言ってる暇があったら、お前も私物の整理をしろ」 「何よ、キョンも少しくらいサービスしたっていいんじゃないの?」 サービスって何だ、全く。 馬鹿なことを言うんじゃない、と顔を顰めていると、古泉が苦笑しながら椅子から下りた。 「拭き終りましたよ」 「ああ、ありがとな」 古泉は俺が言わないうちから雑巾をバケツの中で洗った。 それだけで真っ黒になる水を捨てに行くのも率先してやってくれる。 思ったよりもまめなやつだ。 もしかすると部屋もきっちりと綺麗にしているのかもしれない。 少し見てみたい気がするな、と思ったのも危険な兆候だろうか。 古泉の部屋を見るってことは即ち、古泉の部屋に行くってことだろう。 俺はぶるぶると頭を振って余計な思考を追い出すと、 「ハルヒ、要らない物を処分するぞ!」 と軽く怒鳴ってやった。 それから下校時間近くまで掃除をした結果、部室の中はすっきりと綺麗になった。 いくらか埃っぽくなった空気を追い出そうと部屋の窓を開け、ドアを開く。 ついでに廊下に出て正面の窓を開けると、清々しい風が吹きぬけた。 なかなかいい気分だ。 ――などと、俺が悠長なことを考えた時だった。 二つ隣りの部室のドアが開き、不幸属性でも備えているのか、毎度毎度酷い目に遭うコンピュータ研究部部長、通称部長氏が出てきた。 部長氏は俺を見るなりぎょっとした様子で硬直した。 何だこの反応は、と思ったところで、俺は自分の格好を思い出した。 はっきり言おう。 スカートのふわふわと頼りない感覚にもすっかり慣れて、そんなものを着ていることすら忘れ去っていたんだ。 どうしたものか、と俺まで硬直したところで、階段を上ってくる足音がした。 これ以上人に見られるのはまずい、と俺が思ったところで、階段から姿を見せたのは、幸いにもゴミ捨てに行っていた古泉だった。 古泉は俺を見るなり驚いた様子で目を見開いたが、そこは流石に緊急事態慣れしているだけのことはあったらしい。 「な、何をやってるんですか、あなたは!」 若干慌てる様子を見せながらも、俺の腕を引っ掴み、部室の中に引っ張り込んでくれた。 ばたん、とドアが閉まったことでやっと我に返った俺は、 「す、すまん。…助かった」 何とかそう言ったのだが、古泉は本気で怒っているようで、 「何を考えているんですか」 と俺を睨みつけた。 呆れている様子も見て取れる。 「すまん。つい、うっかり……」 「うっかりで人に見られてどうするんです。大々的にカミングアウトするつもりなんですか?」 そんなつもりは全く以ってないが、そう言われたところで反論は出来ない。 うかつ過ぎたことは事実だし、やってしまったものは今更取り返しのつけようもないからな。 「本当に……何をやっているんです。部長氏が黙っていてくれればいいですが、もしあなただと見抜かれた上、あなたが女装をしていたと言触らされたらどうするんです」 全くだ。 返す言葉もない。 ひたすら俯いて黙っていると、 「…聞いてるんですか?」 という言葉と共に、強引に首を上向かされた。 至近距離で見つめてくる古泉の目が怖いくらいに真剣で、びくりと体が竦んだ。 言葉も出せず、ただ小さく頷くと、 「それなら、返事くらいしてもいいでしょう」 苛立たしげに言われてしまった。 本気で怒らせた、と思うと同時に、嫌われたらどうしようと思っちまったのは、なんでだ。 俺はそんなに古泉のことが好きだったのか? そんなまさか、と否定することも出来ない。 初めて女装したあの時。 古泉が俺に見惚れてくれて、俺だと分かってるくせに女扱いしてくれたばかりか、危なくなったら助けるなんてことさえしてくれたから、俺は女装が気に入ってしまったのかも知れないと、今更ながらに思った。 滔々と説教を垂れる古泉の言葉も、半分以上が素通りしていく。 ただ、怖くて、不安で、そんな自分がおかしいと思いながらも止められない。 女装してると、頭の中まで女になってしまうとでも言うんだろうか。 気がつくと、視界がぐにゃりと歪み、体がかすかに震えていた。 泣きそうだ、と思った時にはもう遅い。 ぼろ、と涙が目の端から零れ落ちた。 「な、なんで泣くんですか!?」 慌てる古泉の声も、 「きょ、キョンくん!?」 驚く朝比奈さんの声も、涙を止める役には立たない。 眼鏡を浮かせるようにしながら両手で目を覆い、子供のようにしゃくり上げて、 「…ごめ、なさい……」 と謝るのが精一杯で、そう言った後はまた元のように泣き続ける俺に、古泉が途方に暮れるような顔をしたのだけが見えた。 「古泉くん、」 聞こえてきたのはハルヒの、呆れたような面白がっているような声だった。 「あたしたちは帰るけど、古泉くんが泣かせたんだから、ちゃんと責任取りなさいよ」 そう言ったハルヒが、優しく俺の肩を抱きしめ、 「キョン、もしもあのばか部長があんたの女装について何か言って来たら、遠慮なくあたしのせいだって言いなさいよ? 元はといえばあたしのせいなんだし、あんたが部屋を出た時にうっかり止めなかったのもあたしなんだから」 優しすぎるハルヒの言葉に、礼を言うことも反論することも出来なくて、ただこくこくと頷くと、長門の声がした。 「私も……ごめんなさい」 いい、と首を振ると、そっと頭を撫でられた。 「あたしも、うっかりしちゃって、ごめんなさいっ。キョンくん…元気、出してくださいね? 古泉くんも、キョンくんを心配してるだけなんですから」 朝比奈さんがそう言って、そうして、三人は部屋を出て行った。 今日は朝比奈さんはメイド服に着替えていなかったため、それこそあっと言う間だ。 ふたりっきりになってしまった部屋の中に、俺の情けない泣き声ばかりが響く。 それから、どれほど経った頃だろうか。 気まず過ぎる空気に耐えかねたのか、古泉が、 「すいません。言い過ぎました」 と俺に頭を下げた。 古泉が悪いんじゃない、と首を振っても、古泉は表情を曇らせたままだった。 笑うのは無理でも、せめて泣きやめれば、と思うのだが、涙はまだ止まってくれない。 滅多に泣かないせいだろうか。 涙の止め方まで忘れたかのように、涙は流れ続ける。 「…すいません」 もう一度言った古泉に、 「お前、が…っ、悪い、んじゃ、…ひっく……ない、から…」 それだけ言うのも苦しかった。 だから、 「でも…」 とまだ謝ろうとする古泉には答えず、ただその胸にしがみついた。 きゅっとブレザーを握り締めると、古泉が小さく息を呑んだのが聞こえた。 その腕がぎこちなく動き、俺の体をそっと抱きしめてきた。 「泣かないで…ください」 戸惑うような、それでも優しい声と、その暖かさに、少しずつ興奮が収まっていく。 涙が止まり、やっと落ち着いた、と思っても、俺は顔を上げられなかった。 古泉の体温が心地好すぎて。 俺は古泉と同じ男だ。 それなのに、古泉が物凄く頼れる存在のように思えた。 それはつまり、自分を頼りなく、無力なものだと感じたのだと言い換えてもいいだろうに、そうはならず、そうして守ってもらえることが嬉しかった。 「……ごめん」 名残惜しく思いながら体を離すと、 「僕の方こそ、すみませんでした。あなたの無防備さに驚いて……それに、ライバルが増えるのが、怖かったんです」 「ライバルって、なんだよ」 俺が問うと、古泉は一瞬口を開きかけたが、すぐにその口を閉じ、 「いえ、なんでもありません。僕の思い過ごしかもしれませんし、何より、それを言うことであなたが彼を意識しても面白くありませんからね」 とよく分からないことを言った。 俺は首を傾げたが、古泉の制服に汚れを見つけたせいで、疑問を忘れた。 「す、すまん」 「え?」 「制服に、化粧とかつけちまった…」 黒い口紅が特に落ち難そうで申し訳ない。 「大丈夫ですよ、これくらいなら」 と笑った古泉は、 「それより、そろそろ帰りませんか?」 と話を逸らした。 その優しさが嬉しい。 「……そうだな」 小さく笑って頷き、メイク落としをどこに仕舞ったんだったかと考えかけた俺は、一瞬にして赤面した。 「どうしたんです?」 訝る古泉に、 「いや、だって、その…」 あれだけ泣いて、しかも古泉の制服に化粧をつけちまったということは、 「今、化粧が崩れて最悪の状態ってことじゃねぇか。恥ずかしい…!」 思わず顔を手で覆うと、古泉が小さく含み笑いを漏らしたのが聞こえた。 「本当に、女の子みたいで可愛い人ですね。心配しなくても大丈夫ですよ。少々化粧が崩れても、また、たとえ化粧をしてなくても、あなたは他の誰より綺麗に見えますから」 恥ずかしげの欠片もない古泉の言葉に、俺は余計に顔を赤くしたのだった。 数日後、たまたま廊下で顔を合わせた部長氏は、何故だか赤い顔をしながら、いささか挙動不審に、 「新しい団員でも入ったのかい?」 とかなんとか、俺に聞いてきた。 あのメイドが誰か、本気で分かっていないらしい。 俺は適当にとぼけておいたが、あの人は一体何を考えて、あんなことを聞いてきたんだろうな? 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