狂い犬



「それじゃ、先に行ってるわ」
そう言って駆け出して行く彼女の晴れやかな笑みは、少し前まで見られなかったものだ。
見られたとしてもとても稀で、僕はそれを見られるだけでとても嬉しかった。
胸の中が暖かく、穏やかな気持ちになれた。
それなのに今は、彼女の笑みを見るのが、少し、苦しい。
でもそれを出さないように抑えて、僕はぎこちない笑みと共に、
「はい」
と答えて彼女を見送った。
彼女がどこへ行ったのかと言うと、駅前の喫茶店だ。
そこで、少し離れた公立校の友人たちと待ち合わせるのももう何度目のことだろう。
僕が遅れて行くのは、少しばかり頼まれ事があるからで、彼女も、
「店で待ってるから」
と言ってくれているのに、どうしてだろう。
彼女との間におかしな温度差があるように思えるとますます僕はいき苦しくなった。
ぱたぱたと明るく楽しそうな彼女の足音が遠ざかると、教室の中でもちょっとしたざわめきが起きる。
ほっとしたような、呆れているような、複雑なそれを聞かないことにする。
苦しさをため息の形で吐き出し、僕はのろのろと荷物をまとめ、教室を出た。
向かう先は、生徒会室だ。
やけに立派な重たい扉を押し開けると、シニカルな笑みに迎えられた。
「やっと来やがったか」
「…やっとも何も、大人しく来たじゃないですか。何かご不満でも? …会長」
嫌味たらしく、苛立ちも露わに言うと、会長はニヤニヤ笑いながら、長机いっぱいにひろげられた書類に視線を戻した。
「全く……計算の確認くらい、会計の人間がやるべき仕事じゃないんですか?」
「そいつが今寝込んでるから困ってるって言ってんだろ。それとも、インフルエンザで出席停止の奴にやらせろとでも言うつもりか?」
「ああ、それもいいんじゃありませんか。どうせ暇でしょう」
「暇もクソもあるか。40度近い高熱が出てうんうん唸ってるらしいぞ」
「それでどうして僕にお鉢が回って来るんだか」
「そりゃ、お前が一番頼みやすいからに決まってんだろ。出来てちょっとのまだ扱い辛い生徒会の連中よりは、遠縁でも親戚の方が頼みやすい」
「その程度の感覚はあなたも持ち合わせてたんですね」
呆れて呟けば、会長は喉を鳴らして笑った。
「俺をなんだと思ってんだ?」
「非常に面倒な人だと思ってますよ。この二重人格者」
軽く罵ったところで、この人に堪えるはずがない。
一層愉快そうに唇を歪め、
「二重人格とはよく言うぜ。お前こそ人のことは言えんだろ。それに、人前でお行儀よくしておく、ってのは誰しもやることじゃねえか?」
「あなたのは度が過ぎてます」
「お前のもな」
クツクツと嫌な音を立てながら、会長は電卓を叩く。
早く終らせて帰りたいからだろう。
計算書に目を通し検算するスピードは非常に早く、かといって手を抜いている様子もない。
僕は諦観と共に自分の分に手を伸ばす。
このところ、こういう作業につき合わされっぱなしだ。
おかげで目は疲れるし肩はこるし、何より彼女といられる時間が少なくなるのも腹立たしい。
むすっとしたまま黙って作業を続けること一時間で僕はペンと電卓を置いた。
「約束の時間ですからこれで」
「本当にお前は薄情だな」
眉を寄せて唸るように言った会長に、僕は薄い笑みを返す。
「あなたほどじゃありませんよ」
「そーかい」
鼻で笑うような音を立てた会長は、眼鏡を外して眉間を揉みつつ、
「また明日も頼んだぞ、古泉」
と言った。
断固として拒否したいところだが、色々な事情があってそうもいかないのがまた厄介だ。
僕はむっすりと黙ったままドアを閉めた。
嫌でも明日も来なければならないのだろうと思うと本当に嫌になる。
それでも、彼女に会えれば気持ちが晴れた。
喫茶店でなにやら楽しそうに話しこんでいた彼女たちのテーブルに近づくと、僕以外のメンバーは揃っていたことがよく分かった。
彼女は大きな声で今度の休日の計画を話し、隣りに座った朝比奈さんに抱きついたりしていた。
読書をしながら控え目に頷く長門さんはどこか恥かしそうにはしゃぐ涼宮さんを見ている。
そうして一人きりの男性として美少女達と同席していた彼はというと、僕が来て少しばかりほっとしたような顔をした。
「来たか」
「お待たせしました」
作り笑顔を浮かべてそう答えながら、空いていた彼の隣りに腰を下ろす。
「今度は何をするんですか?」
と涼宮さんに聞くと、
「もうすぐ春休みでしょ。でも、いざ春休みとなるとあちこち混雑するじゃない。その前に何かやりたいと思って今みんなで相談してるところなのよ」
と彼女は上機嫌に答えてくれた。
隣りからはぼそりと、
「悠長に聞いてないでこいつを止めてくれ」
なんて呟きが聞こえたような気もするけれど、聞かなかったことにする。
「何をやることになりそうです?」
そう尋ねると、彼女は少しためらいを見せた。
なんだろう、と僕が首を傾げる前に、彼女が口を開く程度の短い間だったけれど、それは確かにあった。
おまけに、彼女が言ったのは、
「まだ決まらないわ。結構迷うのよね」
というどうにも歯切れの悪いもので、なんだろう、自分だけのけ者にでもされてしまったような感じがした。
明るく笑うようになり、様々な計画を立て、しかも実行するようになった彼女。
それは、以前のいつも面白くなさそうで、むっつりしていた彼女からすると大きな変化だ。
その変化をもたらしたのは……と僕はこっそり隣りに目を向ける。
彼は「あの人」じゃない。
でも「あの人」と同じ人だ。
どういうことなのか、詳しく説明するのはとても難しい。
僕たち当事者にも、あの時何が起きたのかということはまるで分かっていないのだ。
ただ、僕たちの前で一人の人が姿を消し、そうしてまるで無から有が生まれるように、目に見えない細かな粒子が集まって形を作るように、全く同じ姿形をした、けれど違う人が現れるのを見てしまった以上、あれを夢だと誤魔化す気にもなれない。
現れ方こそ不可思議だったものの、今いるこの人はただの人だということも分かっている。
「あの人」とは違うということも分かっている。
でも、少しばかり恨めしく思わずにはいられなかった。
「あの人」は簡単に彼女を変えてしまった。
僕には出来なかったこと。
出来るとも思えなかったこと。
それを簡単にしてしまえたくせに、あの人は僕たちではない人たちを選んだんだろうと思うと、悔しいのか寂しいのか分からなくなる。
彼以上に「あの人」とは違う僕にはどうしたって「あの人」にはなれない。
なれないのに、なりたいと思った。
彼女を変えられた「あの人」に。
彼女を惹きつけた「あの人」に。
「…古泉?」
うっかり考え込んでしまっていた僕を不審そうに彼が見ていた。
見れば、彼女たちは既に立ち上がって店を出て行こうとしている。
「す、すみません」
慌てて立ち上がり、伝票を手に取ると、
「いい」
という短い一言と共にそれをひったくるようにして取り上げられた。
「いえ、一番遅くなったのは僕ですから……」
「注文したコーヒーすらろくに飲まなかった奴が何言ってんだ」
呆れたように言って、彼は伝票に目を通す。
「あいつ、遠慮なく頼みやがって……」
そう文句を言いながらも彼の声は優しい。
「お前も、これくらい遠慮をなくしてみたらどうだ?」
なんて笑う唇も。
何かを見透かされそうな瞳さえ、優しい色をしていた。
「え…?」
「いつも一番安いコーヒーだけだろ。疲れてる時くらい、甘い物を食ってもいいんじゃないか?」
そう言って彼は僕の背中を軽くぽんと叩き、
「あまり思い詰めるなよ」
と言った。
彼に何かが分かっているとは思わないし、彼だって分かっているとは思っていないのだろう。
それでも、僕が何かしら悩みを抱えていることくらいは知られてしまったらしい。
恥かしさや少しの悔しさで目をそらし、それでも僕はなんとか短く、
「…はい」
と返した。
彼はちょっと眉を寄せたけれどもそれ以上は何も言わずにおいてくれた。
店を出ると彼女が仁王立ちをして待っていたけれど、
「遅いわよ!」
と言ってどんどん歩きだしてしまう。
結局何をどうするのかということも分からない。
彼女は少し唇を尖らせて、
「古泉くん、疲れてるなら休んだら?」
と軽く振り向いて言ってくれたのは、優しさだろうか。
それとも、なんて後ろ向きの考えに囚われそうになる。
僕はぎゅっと自分の手をきつく握って、
「いえ、大丈夫です」
と笑顔で返す。
途端に彼女は眉を寄せて、ぷいっと背を向けてしまった。
僕は何か失敗してしまったんだろうか。
彼女に近づきたいと思うのに、距離はどんどん開いていくようにしか思えなかった。
あの日から彼女はまるで羽の生え揃った鳥のようで、おっかなびっくりながらも飛び出していってしまう。
今はまだ、帰ってきてくれると思えないでもないけれど、彼女が飛ぶことに慣れたら、きっともう帰ってきてはくれないだろう。
そう思うだけで、不安で堪らなくなるばかりか、もっと抑えがたい何かが湧き上がるように思えた。
滅入るような重苦しい気持ちを抱えたまま、僕は帰途につき、翌日になってもまだ、どうにも晴れやかな気持ちになれないでいた。
それでも表面上はなんでもないような顔をして、一日を過ごした。
彼女にも気付かれなかったと思うのに、彼女はなんだか不審そうに僕を見ていた。
「古泉くん…」
「はい?」
「………」
「…あの…涼宮さん?」
なんだろうか、と首を傾げる僕に、彼女は唇を尖らせて、
「…なんでもないわ」
「……そうですか」
納得は出来ないものの、彼女がそう言うならと黙り込んだ僕を、彼女はじっと見つめていた。
その理由を問いかけるのは怖かった。
もしこれで、彼女に好意を示した過去の誰かと同じように、彼女に嫌われ、捨てられたらと思うと何もいえなくなってしまうくらい、僕は臆病でどうしようもなかった。
深いため息を吐いた僕に、
「うぜぇ」
と吐き捨てたのは当然、遠慮の欠片もない会長だった。
イライラとしながらその手がポケットを探ろうとするが、
「匂いをうつされたくないんで、煙草はやめてください」
と睨み据えると、会長は軽く肩をすくめて、
「お前も吸ってみたらどうだ? すっきりするかも知れねえぞ」
「喫煙を勧める生徒会長なんて最低ですね。無駄口叩いてないでさっさと手を動かしたらどうなんです」
「休憩くらいさせろっつうの」
そう言いながら会長はペンを置き、伸びをする。
そうしておいて、
「ああそうだ、」
と何事か思い出したように、
「お前がつるんでる、頭の賑やかな女がいるだろ」
「……誰のことですか」
「涼宮…っつったか?」
「………彼女のことをそんな風に言ってもらいたくはないですね」
は、と乾いた笑いを漏らした会長は嘲笑うような調子で、
「まさか本気なのか? やめとけ。厄介ごとを背負い込むことになっちまうぞ。お前はこれ以上余計なものを背負う余裕なんてねえだろ」
「煩い」
短く、けれど鋭く言うと、会長の顔が心なしか引きつった。
でも、もう遅い。
「彼女のことを厄介ごとだなんて言われたくない。僕自身が面倒だってことはよく分かってる。これがなければ前の学校から転校することもなかっただろう。けど僕は、もう後悔なんてしてない」
何気ないような動きで手を動かすだけで事足りる。
会長の顔から眼鏡が吹っ飛び、床に落ちてカチャリと小さな音を立てる。
「古泉…っ」
「黙れ」
自分では静かに喋っているつもりだったけれど、もう既に喚くようになっていたかも知れない。
それさえ、自分ではよく分からなかった。
頭の中が熱くて、目の前は白いのか赤いのか分からない色に染まって目の裏が痛かった。
「もうこうなったら抑えられないんだから、精々逃げるなり抵抗するなりしろよ」
呻いているのか怒鳴っているのか分からない。
「ほら」
長机をなぎ倒し、乗り越えて会長に迫る。
逃げかけて引けた腰をすくうようにして蹴り飛ばし、床へ転がせば、後はもうどうにだって出来る。
「煩いなぁ…」
黙らせるために顎を蹴り上げ、そのまま足裏で押さえつける。
「がっ…あ……!」
「煩いって言ってんだから黙れよ」
「……っ…」
「彼女と関わるのはやめろって? 冗談だろ。彼女といることで、確かに奇異な目で見られるかもしれないし、あれこれ言われる可能性はあるかも知れない。でも、それ以上に彼女といることに意味があるって分かるだろ」
「…ぅ……」
大分静かになった会長の顎から足を外すと、会長は激しく咳き込んだ。
それに構わず、
「転校してきてからこれまで、僕が大人しくしてこられたのは、彼女がいてくれたからだって、まさか分かってないわけじゃないだろうに」
咳き込むのが煩くて、今度はその激しく動く胸の骨の上に足を置いた。
「さて、この後どうしようか。じわじわ体重をかけるか、それとも思い切り蹴り飛ばすか、踏みつけるか…」
と呟いた時だった。
「古泉くん、やめなさいっ!」
と鋭い声がして動きが止まった。
嘘だと思った。
幻聴だと。
でも、彼女は確かにそこに立っていた。
いつの間にか開かれていたドアの前に凛々しく立つ彼女を、他の誰かと見間違えるはずがない。
「ど…うして……」
心底狼狽する僕に、彼女は簡単に答えてくれた。
「古泉くんの様子がちょっとおかしかったから、気になって戻ってきただけよ。そうしたら、物凄い音がするからびっくりしたじゃない」
彼女に見られてしまった。
もう駄目だ。
今度こそ彼女に嫌われ、見捨てられる。
そう思ったのに、彼女は何故か明るく笑っていた。
「もう、古泉くんはあたしがいないとダメなのね」
その言葉に、言葉はもう出ず、ただ涙がぽつりとこぼれ落ちた。