不器用なほど器用な君に



好きな人がいる。
とても大切な人。
何より愛しい人。
その人はとても凛としていて美しく、何者にも冒されない強さがある。
それゆえに近づき難くもあり、隣りにいてもなお、どこか高嶺の花を想うような気持ちになってしまうけれど、それでも僕は彼女が好きだ。
彼女のためならなんだってしたいとさえ思う。
そんな強い感情を、僕は彼女を好きになって初めて知った。
彼女に好きだと告げたとしても、彼女にそうした過去の男のようにすぐに飽きられてしまうのではないかと思うと怖くて、他のつまらない男と同じに見られてしまうのではないかと思うと不安で、一言好きと告げるだけなんていう簡単なことも僕は出来ない。
せめて彼女にとって必要な人間になりたいと思っていたはずなのに、気がつけばただの財布代わりに扱き使われるちょっと便利なだけの男になり下がりつつあるような気もする。
それじゃ足りないと思いながら、でもどうしたらいいのか分からないまま、どうしようもなくなっていたのに、その状況は唐突に変わった。
「古泉くん、」
見たこともないような笑顔で呼ばれ、僕は驚けばいいのか喜べばいいのか分からない気持ちになりながら、
「なんでしょうか?」
「今から付き合ってもらえる?」
そう言われ、勿論頷く。
「僕でよければ」
「古泉くんじゃないと困るわ」
呟くように言った彼女は僕の手を取り、強引に教室を出た。
そのままぐいぐいと廊下を歩いて引っ張って行く。
今は既に放課後で、それなりに人もいるんだけれど、僕がそうやって引っ立てられて行くのを稀有に思う人はいないようだった。
こういうことも少なからずあることだから。
それにしても、今日はどこに行くんだろうと思いながら、艶やかで美しい黒髪が彼女のきびきびとした動きに合わせて翻る様に見惚れている間に、彼女は人気のない屋上まで僕を連れて行った。
「話があるの」
というのは別に言われなくても分かったけれど、どういう話だろうか。
首を捻りながら彼女の話し始めるのを待つ。
彼女は気のせいかきらきらした目で僕を見上げながら、
「ずっと思ってたんだけどね、もう、あたしに奢ってくれたりしなくていいから」
「……は?」
いきなりなんだろうか。
それに、ずっと思ってたって?
「…ご迷惑だったでしょうか?」
恐る恐る尋ねた僕に、彼女は首を振った。
「ううん、迷惑なんかじゃなかったわよ。ありがたかったわ」
一々過去形であることに心臓がざわめく。
恐れていた事態が実現してしまうということなんだろうか。
「別に、奢ってもらうのは嫌いじゃないのよ。助かるし、誰かに奢ってもらうとコーヒーだって格別の味わいがすると思うわ。そんな風に甘えみたいなのを見せられるのも悪くない関係だと思うしね」
でもね、と彼女は困ったような顔をして僕を見つめた。
「あたし、ずっと前から思ってたのよ。彼女だからって男に甘えて、なんでもかんでも買ってもらうような女ってちょっと見苦しいなって。荷物を持ってくれるのも、奢ってもらえるのも、そりゃ、それだけの信頼があるとか気持ちがあるとかなのかも知れないけど、あたしはそういうより掛かりっぱなしみたいなのって嫌なの」
だから、と言った彼女の顔が気のせいかほんのり赤く染まって見えた。
それにしても、彼女らしくない話振りだと思った。
どこか回りくどくて、本題が分からない。
彼女はいつもストレートに話すのに。
戸惑っていると、彼女は呆れたようにため息を吐いた。
「ねえ、古泉くん、分からないの?」
「すみません、少々混乱しておりまして…」
「簡単な帰納法ですっきりすると思うわよ」
ぶつぶつと愚痴るように呟いた彼女は、物分りの悪い僕を叱るように、
「あたしは、古泉くんにはもう奢ってもらわなくていいって言ったのよ?」
「そう…ですね」
そうはっきり言われるとずきりと胸が痛む。
僕は彼女にとって必要な人間になれず、たとえ経済面でも、財布の代わりとしてでも、彼女に必要とされないのかと思うと悲しくて、見っとも無いけど泣いてしまいそうだ。
それくらい、僕は彼女が好きなんだと思うと、自分でも呆れたくなった。
そんな僕の暗い顔を見上げて、彼女は難しく眉を寄せ、
「それで、こうも言ったわ。あたしは、彼氏に奢ってもらいたくないって」
「ええ」
「……そこから導き出される結論は?」
僕を見据える視線は鋭くて、数学の授業中、難解な問題を当てられた時よりも緊張する。
でも、彼女の顔がさっきよりますます赤くなっていて……って…あれ?
彼女は、僕には、もう奢らなくていいと言った。
それと同時に、彼氏に奢ってもらいたくはないとも。
それは、つまり……。
「…いや、でもそんな都合のいいことが起こるはずが……」
「何ぶつぶつ言ってんのよ」
怒ったように言ってるけれど、でもそれは、半年と少し程度の付き合いしかない僕にも、照れ隠しだと分かるようなそれだ。
「……涼宮さん」
「ああ、そうやって呼ぶのもやめてくれる?」
意を決して、導き出されたあまりにも都合のいい考えを口にしようとした僕の覚悟を圧し折るように、涼宮さんはそう言った。
「え?」
「古泉くんに、涼宮さんなんて呼ばれても、嬉しくないの」
「す……すみません…」
そんなに嫌われていたんだろうか、と思う僕に、彼女はもうひとつ深いため息を吐いた。
「……古泉くんのばか。鈍感」
拗ねた子供のように呟いて、もう一度僕を睨み上げる。
「あたしはちゃんと言ったわよ」
「え……?」
「もうっ、分かりなさいよ! それか、もっと自信持ったらいいじゃない」
怒鳴るように言っておいて、彼女は僕に抱きついてきた。
「えっ、あ、あの…っ!?」
「…付き合って、って言ったでしょ」
「……は…?」
「教室で」
「…ええと…はい、確かに言われましたけど……だから、ここに来たんじゃ……」
「違うって言ったら、ちゃんと分かるの?」
「……あの、涼宮さ…」
「聞こえない」
怒った声に遮られた。
「古泉くんだって、聞こえてないんでしょ」
僕は怖々手を伸ばし、彼女の細い肩に触れた。
それを振り解かれることはなかったが、だからと言って楽観視することは出来なかった。
だって、こんなことが起こるはずがない。
こんな、夢みたいなことが。
「……きっと、夢ですね。あなたが僕にそんなことを言ってくださるなんて……」
「夢だと思うなら、頬を抓ってあげるわよ」
「……お願いします」
「…ほら」
ぎゅっと抓まれた頬は確かに痛い。
でも、彼女は消え失せたりせず、僕の腕の中に大人しく納まっている。
「…なんとお呼びしたらいいんでしょうか」
「好きにしなさいよ」
「……では、」
心臓が壊れそうだと思いながら僕は空気を吸い込み、そっと囁いた。
「…ハルヒ」
先日、いきなり現れた人物がそう彼女を呼ぶたび、どんなに胸が痛んだことか。
苦しくて、悔しくて、妬ましくて、自分の中にそんなにも強い負の感情があるなんて思わなかった。
今日は、違う。
自分でそう呼ぶと、それだけで嬉しくて、そのくせ怖くて、震えそうになる。
僕の胸に頭を寄せていた彼女はぽつりと呟いた。
「…心臓の音…凄い……」
「す、すみません…」
「なんで謝るのよ」
むっつりと難しい顔をしながらそう言って、彼女は僕を見上げる。
そのくせ、
「…ちゃんと、分かってくれた?」
と問いかけた声はあまりにも小さくて、不安げに揺れていた。
彼女も同じ気持ちなんだろうか。
僕は頷いて、
「でも…どうしていきなりだったんです…?」
と尋ねた。
「…考えたの。あたしは古泉くんをどうしたいんだろって。最初は謎の転校生ってやつかもって思って近づいたわ。でも、古泉くんが普通だってことは分かったから、その時点で興味を失っても不思議じゃないのに、そうはならなかった。……古泉くんはあたしのすることに反対したりしないから、あたしのやりたいようにさせてくれるから、そういう風にしてくれる人にいてほしいのかも知れないって思ったりもした。でも、違うって思ったの。ジョンに会ったから」
「彼に…会ったから……ですか」
「そう。ジョンは、あたしを手伝ってくれた珍しい人間だったわ。ある意味では古泉くんと同じよね。あたしが何したってついてきてくれるような感じで。でも、久しぶりにジョンと会って分かったの。あたしは、古泉くんにそんな役割を求めてる訳じゃないって。じゃあ、どうして一緒にいるんだろうって思ったら、そういうことじゃないかって思ったのよ」
照れ臭いのか、肝心な部分をぼかす彼女は案外シャイな人だったらしい。
あるいは、恋愛に関しては奥手ということなんだろうか。
思わず口元を緩めながら、僕は彼女を抱き締めなおす。
「…本当に、僕でいいんですか?」
「古泉くんでなくちゃ困るって、さっきも言ったでしょ」
そう告げておいて、彼女は一気にまくし立てるように、
「言っておくけど、今更取消や拒否なんて言い出しても聞かないわよ。さっき了解したのは古泉くんなんだし、これまでだってあれだけあたしに付き合って色々やらかしておいて、全然その気がなかったなんて言わせないんだから」
なんて言う。
ああ、本当に可愛らしいなと思った。
不思議なことに、凛々しいとか冒し難いなんて雰囲気はどこかに雲散霧消していた。
でも、僕はこんな可愛らしくて優しい彼女も同じように愛しい。
胸の中が暖かくなるのを感じながら、
「それでは、返事は不要ですね」
と意地悪く呟いてみると、彼女は案外あっさりと頷いた。
「そうね、要らないわ」
「おや」
「言いたいなら聞いてあげなくもないけど、これだけ心臓の音がうるさいんだもの。聞かなくても分かるわ。……伊達に一緒にいたわけじゃないしね」
僕を嬉しがらせることを言っておいて、彼女は僕の腕の中から抜け出す。
「帰りに、新しく出来たって言うクレープ屋さんに行ってみましょ。…割り勘が嫌じゃないなら、だけどね」
そう言って先に歩き出す彼女の手を後ろから取り、
「喜んで」
と囁いた。
それからこっそりと、
「…好きですよ」
と呟いたのだけれど、それが届いたのかどうかは、彼女の真っ赤に染まった耳を見れば、鈍感な僕にもよく分かった。