氷雨の如



いつの間にか袖に綿が入り、火鉢で手をあぶったりするような季節になった。
寒い季節だからこその人恋しさでもあるのか、肌を刺すような寒さの中も客足は途絶えない。
俺はぼんやりと通りを流れる人々を眺めながら、好いた男の訪れを待つ。
そうして、見慣れた頭を見つけて、そっと障子を閉じた。
古泉が下で挨拶を交わし、二階に上がってくるまでの間に、なんとか表情を取繕い、仕事としてのそれなんだという風を必死に装おう。
この思いを、決して悟られないように。
その苦しさにも、この数ヶ月の間で随分と慣れてきた。
慣れたからと言って平気なわけではないが、少なくとも平気な顔をするのは上手くなったと思う。
呆れたのか飽きたのか、ハルヒが俺に口うるさくあれこれ言うことももうなくなってきている。
俺はと言うと、そうやって平気な顔をするほかに、女物の着付けだとか化粧が変に上達しちまった。
しかし、今日は紋日でもなんでもない、普通の日だ。
だからやる気なさげに座って、古泉が上がってくるのを待っていると、
「入ってもよろしいでしょうか」
と古泉の声がした。
俺はそっと呼吸を整え、
「どーぞ」
そう、さもどうでもよさそうに返す。
すっと開いた襖から、古泉が顔をのぞかせるだけでも嬉しい癖して、それを必死に抑えつける。
「こんばんは」
「おう。…しかし、お前も本当に、飽きもせずよく通って来るよな」
呆れた風を装ってそう言うのは、ちょっとした探りを入れたいだけだ。
古泉が俺に飽きたなら、早くそれが分かるように。
「飽きませんから」
そう微笑してくれる古泉に安堵しながら、
「本当にお前は変わってるよ」
とだけ返し、支度してあった台の上から杯と銚子を取り上げる。
「飲むだろ?」
「ええ、いただきます」
いそいそと席につく古泉に、
「燗がよければそうさせるが、どうする?」
「このままで結構ですよ」
「そうかい」
なんでもないような会話さえ嬉しいというのは、本当にどうかしているとしか言いようがない。
かすかに苦笑を漏らしながら、俺はそろりと古泉の手に杯を渡し、酒を注ぐ。
「本格的に寒くなってきましたけれど、ほしいものなんてありませんか?」
気遣いの言葉を掛けてくれる古泉に胸の内を熱くしながら、俺は傲然と、
「寒さをしのげるようなもんならなんでもいいから、お前が自分で考えろ」
などと言い放つ。
「では、何か暖まれそうなものでも用意しましょうか。それとも、僕があなたを温めに来る…なんてのはどうです?」
「あほか」
「でもあなたって、結構寒がりじゃないですか」
嬉しそうに言いながら、古泉は俺の手を取る。
「寒くなってきてから、寝ている間に僕に擦り寄ってくるようになってますよ」
「な…っ」
と驚きの声を上げて見せるが、そんなことくらい、自分で分かってる。
そう思われることを計算して、そうしているだけに過ぎないんだからな。
「気付いてませんでした?」
にやにや笑ってそんなことを言う古泉に、俺は顔を赤らめて見せる。
「お前の気のせいだろ」
「おや、そうですか?」
「そうだ」
「…それでも、嬉しいですよ」
そう言って微笑した古泉は、そろりと俺の手を撫で上げる。
「こら」
「これくらい、いいでしょう?」
どこか意地悪く微笑して、古泉は手を引き寄せ、その甲に小さく口付ける。
くすぐったい音を立てたそれにさえ、ぞくりと体を震わせ、奥底で熱を煽られていることには、決して気付かれてはならない。
いや、気付きやしないだろう。
察しは悪くないが、肝心なところで鈍かったり、確信を持てなかったりするのが古泉だからな。
それに、俺は絶対に本気になどならないと、これまで時間をかけて思い込ませてきたのだ。
この調子なら、いつか俺が好きだなんて告げても、軽口に過ぎないと思わせられるかもしれないと、それを目標にさえしたくなるほど、古泉は鈍いのだ。
それとも、純粋なところがあると言った方がいいのかね。
どちらにせよ、そんなところさえ愛しいなんて、末期にもほどがある。
俺は変に思われない程度の笑みと共に、
「ほら、もういいから酒でも呑め」
と古泉の手を振り解き、酒を勧めた。
「もう少し…」
「やめろ」
牽制するように邪険な言葉を使うと、古泉がしばらく大人しくすることを知っていてそうするのは、そうやって距離を置かなければ耐え切れなくなりそうになるからだ。
苦しさを振り捨てるように、俺は古泉に勧めるほどに自分も酒を飲み、そうして強かに酔っ払ったのは、どこまでが計算だったのか、自分でもよく分からん。
「大丈夫ですか?」
「んん……」
心配そうに声を掛けてくれる古泉の肩を借りて、ふらふらと寝間に入った俺は、重ねた布団の上にどさりと横たわる。
「はふ……」
「お水でもいりますか?」
「ん……大丈夫だ…」
ふわふわとした酩酊感があるくらいで、気分の悪さとかはないからな。
「それならいいのですが」
苦笑混じりにそう言って、俺の隣りにもぐりこもうとした古泉は、何かに目を止めて動きを止めた。
「どうかしたか…?」
「いえ…文箱が……」
文箱?
……ああ。
「落ちてたか?」
いかんな。
どうやら片付けるのを忘れていたらしい。
気が緩むにしても酷いな。
これから気をつけよう。
「…中を見てはいけませんよね……?」
「そんなもんに興味があるのか?」
首を捻る俺に、古泉はどこか慌てた顔で、
「いえ、ちょっと気になりまして……。趣味のいい造りなので、どこのものかと……」
「蓋の裏に書いてないか? …って、ああ、そうか」
それで中が見たいのか。
納得した俺は、
「見てもいいぞ。どうせ中身はお前からの手紙しか入ってないんだし」
「…そうなんですか?」
驚いたように古泉は言ったが、なんで驚くんだ?
「手紙なんかお前としかやりとりせんぞ」
俺の客はお前だけなんだから当然だろ。
「…嬉しいです」
そう、本当に嬉しそうに呟いた古泉は、
「それでは、失礼しますね」
と一言断って、文箱の蓋を取った。
俺はと言うと、半分眠ったような状態でそれをぼんやりと眺めているだけだ。
古泉は蓋の裏を眺めて、それから躊躇うようにしながら、自分の書いた手紙を手に取った。
「…懐かしいのもありますね」
一番上にはどうやら随分と以前のものが来ていたらしい。
「全部取ってあるんだぞ」
呟いた声が、嫌に柔らかくなっちまったが、酔っているせいだと思ってくれるだろう。
「嬉しいことを言ってくれますね」
「事実だからな」
それを確かめようとするように、古泉は手紙を一通一通文箱から引っ張り出す。
「これは…ああ、七夕のすぐ後のものですね。こちらは……あなたが風邪を引いて、ようやくそれが治った時のもの」
懐かしそうに呟く古泉の声と、手紙の触れ合うかすかな音を楽しみながら、俺がいよいよ眠り込もうとした時、古泉の声が不意に止まった。
「ん……どうした…? 読み終わったなら、寝ろよ……」
そう言った俺が眠い目を擦りながら体を起こし、古泉を見ると、古泉は文箱の中を見つめて硬直していた。
はて、何か変なものでも入れてあっただろうか。
「どうした?」
寝ぼけた頭で考えながら、俺も文箱の中を覗き込むと、そこには谷口にもらった例の指南書が鎮座していた。
一瞬で酔いも眠気も吹っ飛び、抑えることも出来ないほど、顔が真っ赤になる。
「なっ…! やっ、あ、それは違う! 違うからな!?」
何が違うんだか自分でもさっぱり分からんが、気が動転して思わず訳の分からんことを口走った俺に、古泉は何故だか酷く悲しそうな顔をして、がさりと手紙の束を文箱に戻し、蓋を閉じる。
そうして、混乱しきっている俺に向き直ると、
「…無理なんて、しなくていいんですよ」
「……は…?」
無理って、一体なんの話だ。
俺が一人戸惑っている間に、古泉はなんらかの結論を得たのか、納得したような顔で、
「前にも申し上げましたが、無理強いなんてしませんから……」
と言いやがった。
何が言いたいのかさっぱりだ。
ともあれ、何か知らんが誤解していることは間違いない。
だから俺は、非常に際どいと分かっていながら、
「無理強いなんて、されると思ってない…」
と告げる。
「だったらどうしてこんなものを?」
「……それ、は…」
どう答えたらいいだろうかと迷い、考えるが、今は本当に時間がない。
だから、
「……っ、ここは、そういう場所だろ…? ままごとをするための場所じゃない。金を払って通ってくる男と、妓楼の人間がすることをするための場所だ。だから……俺も、お前という客を取ってる以上、ちゃんとすべきだろ……」
「いいんです」
迷いなく、きっぱりと告げられた言葉は、俺自身への拒絶に聞こえた。
苦しくて、切なくて、奥歯の付け根がじくりと痛んだ。
体の震えがいつ、しゃくり上げる時のそれに変わるかと思うと気が気でないのに、それを抑えきれるとも思えない。
「あなたにそんなことをして欲しくて、通ってきているわけではないんです。…僕はただ…あなたが好きだから……あなたに会いたくて、来ているだけなんです……」
「う…そだ……!」
好きなら、したいもんだろ。
好きだからこそ、したい。
淡白だのなんだの言われてばかりの俺だって、こんなにもしたいと思うのに。
だからやっぱり嘘なんだと思った。
「俺のことなんか、好きじゃないくせに…!」
悋気持ちのようなことを口走るのを止めることさえ出来なかった。
こんなことを言えば逃げられるかもしれないと思いながらも、我慢出来なくなった。
「…好きですよ。あなたが好きです。……どうして、嘘だと仰るんです…?」
悲しそうに言う古泉を、涙の膜越しに睨みつけ、
「好きなんだったら抱けよ…!」
と唸るように吠えるように言っても、古泉は頑として頷かない。
「あなたのことは好きです。……でも、こんな風にあなたを抱くことは出来ません…」
「なんでだよ…っ……」
怒鳴った拍子に、涙がひとつだけ零れた。
「俺がいいって言ってるんだから……っく、抱け、ば、いい……だろ……!」
古泉は慰めるように俺を抱き締める。
とても優しいそれに、余計に涙が溢れそうになる俺へ、古泉は小さく囁いた。
「……掟破りを承知でおうかがいします。……あなたには、他に好きな人がいるんでしょう?」
そんな、信じられない一言を。