揺れる



九日にやってきた古泉は、今度は十三日に来ると約束してくれた。
その日は十三夜であり、十五夜を一緒に見たのだから十三夜も一緒に見なくてはならないとされているから、と。
……本当は十一日あたりに来たいとも言ってくれたんだが、あまり頻繁に来させるのも気が引けて、それは断った。
ところがその十一日に、少しばかり困った話が降ってきた。
「キョン、ちょっといい?」
と俺の部屋に顔をのぞかせた国木田は、珍しくも困惑顔など浮かべていた。
「どうした? とうとう誰か女の子か客だかに逃げられでもしたか?」
「違うよ」
俺の軽口に一応笑いはしたものの、その口からはため息が漏れた。
「…深刻そうだな」
「うーん……ちょっと、ね…」
はぁ、とため息をもう一つ吐き出し、
「馴染みのお客さんから、ちょっと面倒な話が来ちゃったんだ」
「お客から?」
お客の中でも馴染みの客なら、当然大事にしている以上、ちょっとやそっとの要求ならはいはいと呑んで貸しにしておくはずだというのに、国木田がこうしてわざわざ相談に来るということは、実際にはかなり面倒な話ということなんだろう。
国木田はどこの誰か伏せたいようでその名前は口にせず、
「そこの馴染みのお客が知り合いを遊ばせてやりたいって人を連れてきたのはいいんだけど、その人がどうもちょっと変わった人でね。最近評判の女の子は、って宴会の席で幇間に聞いたらしいんだ。勿論そんなのはよくあることだから、幇間の方だって慣れたもので、色々と女の子を売り込んだんだけど、これと思うようなのがいなかったらしいんだ。それでとうとう、『なんでもいいからちょっと変わったようなのはいないのか?』なんて言い出しちゃってね。たまりかねた幇間が、キョンのことを話しちゃったんだよ」
「……そういう、苦し紛れでうっかりをやらかすような口の軽すぎる頭の悪い幇間に、ひとりだけ心当たりがあるんだが、そいつか?」
「さて、誰だろうね?」
くすくすと笑った国木田は、どう見ても肯定しているようにしか見えなかった。
…くそ、谷口のあほめ……。
ぎりぎりと歯噛みする俺に、国木田はまた少し苦いものを笑みに混ぜ、
「後はもう、言わなくても分かるよね?」
「…俺に、その客と相方になれってか?」
「うーん……」
国木田は腕を組んでしばらく考え込んでいたが、
「キョンについては特殊な事情があるし、なんと言ってもひとりでも何人分にもなるような上客がついてるからなぁ。その上客に逃げられても困るし、第一、キョンには借金もなくて、普段だってあまりお金がかからないから、これ以上稼いでくれなんて鞭打つほど、僕も非道じゃないつもりなんだよね」
「友達のよしみ、ってことか」
「そうだね。それもあるかも」
にこりと笑った国木田は、
「だから、キョンに任せるよ。さっさと断るもよし、会ってから決めるのもよし。それとも、旦那様に相談した方がいいかな?」
「…そうだな。そっちの方がいいかも知れん」
少なくとも、勝手に受けると決めるのはよした方がいいだろう。
その前に確認だ。
「本当に、断ってもいいんだな?」
「うん。それはあちらにも納得してもらってるよ。だから、キョンの好きにしていい」
「ありがとな」
「どういたしまして?」
それじゃ僕は仕事があるから、と言って国木田が出て行った後、俺はしばらくの間その話について考えていた。
他の男の客を取る、というのはどんなもんだろうな。
変わり者がいいなんて要求する変わった客だし、断られてもいいなんて言うような鷹揚さがあるなら、同衾しなくても文句はないかもしれない。
そうだとしたら、ちょっと一緒に飯をつついて、酒を飲んで、話すだけだ。
それだけで稼げるなら、とも思う。
国木田はああ言ったが、稼げるものなら稼いだ方がいいだろうし、それくらいのことをしてもいいくらいには、俺もここに義理や借りがある。
……古泉は、どう思うだろう。
俺のことを本気で好いてくれているなら、それを嫌がるだろうか。
それとも、俺が本気じゃないということを信じて、当然のことだから仕方ないと受け入れるのだろうか。
どんな反応をするか知りたい、と、そう思ったのは、いけないことだったんだろうか。
その二日後、約束の十三日の夜は、残念ながら曇りがちな空模様で、月も雲間に隠れていた。
それでも、雲を透かして月を愛でようと、窓際に酒やつまみを用意して古泉を待つ。
この日も一応紋日だから、俺はめかしこんでいる。
何度も着ているうちに、この仰々しい衣装で動き回るのにも少しずつ慣れてきたことに、安堵すればいいのか悲しめばいいのか。
そっとため息を吐いたところで、
「お邪魔しますよ」
と声を掛けられた。
案内がないのは、相変わらず冷遇染みたことが続いているということではなく、もはや自分で声を掛け、勝手に入るのが通例と化しちまっただけである。
「どうぞ」
と浮き立つ心を抑え、どうでもいいような声で応じれば、すっと襖が開かれ、古泉が入ってきた。
嬉しそうに細められた目の中に、瞳のきらめきを見るだけでどきりと胸が震える。
いそいそと俺のすぐ側に寄って来た古泉は、そっと俺の手を握り締め、
「会いたかったです」
と囁いた。
「ん……俺もだ……」
これくらいなら、手練手管の内として許されるだろうと自分で自分に言い訳しながら、なんとかそう答えた頬に口付けられる。
「くすぐったいぞ……」
咎めるというより、たしなめるように小さく漏らせば、抱き締められ、抱き寄せられる。
「月は見えるでしょうか…?」
俺の耳に唇を寄せながら、古泉はそう囁く。
それにぞくりと体を震わせながら、
「見えるまで、ねばればいいだろ……」
とその手を握り締めた。
体を古泉に預け、一緒に夜空を見上げる。
重ねた着物越しにも、ほんのりと伝わる暖かさに、胸が震えた。
「…古泉……」
「はい?」
好きだ、と言ってはいけないんだろうな。
惚れたなんて言葉も手練のうちに入るのが女の子たちだが、俺までそう見てもらえるかは分からない。
大体、女の子の惚れたのなんのという言葉にさえ逃げるような真似をしたのがこいつなら、それはどうしたって言ってはならない言葉なんだろう。
だから俺はそっと目を閉じ、
「…なんでもない」
と嘘を吐いた。
「……何か悩み事でも…?」
心配そうに聞いてくれる古泉に、俺はそろりと首を振る。
「そういうんじゃ、ない……」
「…何かあるって顔に見えますよ。僕の思い違いですか? …それとも、やっぱり僕には話せません……?」
そう、酷く悲しそうにされるから、俺はせめて何か話さなくては、と思い、そうして、あの話を思い出したのだ。
「…国木田……楼主から、ちょっと、面倒な話が来ててな…」
「面倒な話…ですか?」
「ああ。……その、俺に、お前以外の客を取らないかって…そういう、話が……やんわりとだが、来てはいるんだ」
「え……」
驚きの声を上げた古泉は、ぐいっと俺の体を強引に回転させると、俺の顔を覗き込むようにして、
「…本当ですか……?」
「あ、ああ…」
「断ってください」
驚くほど強い声で言われ、俺はぽかんとして古泉を見つめた。
「え……」
「そんな話を受けないでください。…僕のワガママだということは重々承知の上です。でも……嫌です…。あなたが、僕以外の客を取るなんてこと……。それでもし、他の誰かがあなたを……」
縋りつくように抱きついてきたように思われた古泉だったが、それにしては勢いがつき過ぎていた。
どさりと畳に押し倒され、古泉の顔を見上げることになる。
「…古泉……?」
「…誰かに奪われてしまうくらいなら、いっそ……っ…」
泣きそうな声を吐いた唇が、俺のそれに重ねられる。
「んん…っ!?」
急なそれに動転する俺の唇を強引に割り開き、舌を絡め取られる。
音を立てて吸い上げられ、びくびくと体が震えた。
「ふぁ…っ! あっ……」
なんだこれ、と戸惑いながら、俺は古泉にしがみつくしか出来ない。
こんな口付けなんて知らない。
今までのだって、深いと思っていたが、これほどじゃなかった。
口吸いなんて言っても足りないくらいのそれに、体の中まで熱くなる。
「…っ、ん……ひぅ……」
くらくらする。
ぞくぞくする。
何がなんだか分からなくなる。
感じるものは古泉が全てで、俺は与えられるものを受け止めることすら出来ていない。
熱い手が強引に帯を解き、筍の皮でも剥くみたいにして俺を剥いて行く。
華やかで煌びやかな衣を剥ぎ取られ、現れるのが女の子の柔らかな体ならまだいいだろうに、俺の場合は貧相で不恰好なそれしかない。
それを古泉に見られるのが恥かしいとさえ思えた。
このまま襦袢さえ剥ぎ取られ、初めて、本当の意味で素肌をさらすことになるんだと思った。
そうして、今度こそ、たとえ強引にでも、気持ちが伝えられないままでも、古泉に抱かれるんだと思ったら、嬉しいのか怖いのかさえ分からないような気持ちになった。
強い緊張に震える俺に、古泉は手を止めた。
「…怖いですか……?」
いつかも問われた言葉に、俺は首を振って答える。
「怖くなんか…ない……」
「…震えてますよ」
そう言って古泉は体を起こした。
「……古泉…?」
「すみません…。思わず、頭に血が上ってしまったようです……。今日はもう、これで失礼しますね」
「え…!?」
「…すみませんでした。でも……どうか、また会ってください。……あの話も、どうぞ、断ってください…。お願いします……」
そう言いながら服の乱れを整えた古泉は、そのまま部屋を出て行った。
その間、一度も俺と目を合わそうともしないで。
「……な…んだよ、それ……」
今度こそ涙が溢れ出た。
俺は、これでも覚悟してたはずなんだ。
仕事のふりをしてでも、古泉に抱かれるならそれでいいと、むしろ期待すらしてたはずだってのに、なんでこうなるんだ。
「古泉の…ばか……!」
まだ宴の音曲も聞こえてくるような時間帯に、場違いな喚き声を響かせるわけにもいかず、畳に顔を伏せて唇を噛み締める。
「…っく……ひ…っく……」
かすれた声でしゃくり上げながら、ぼろぼろと涙を流した。
泣いたりしたせいで、化粧も流れ、顔も見っとも無いことになって最悪だ。
古泉が戻ってくる気配もないし、諦めて不貞寝でもしてやる。
そう決めて、俺は顔を軽く拭って部屋を出た。
こっそりと一階に下りて、水を使い終わったところで、国木田に声を掛けられる。
「この前の話をしたの?」
誰に、とは言わなかったがそれでお互い十分に通じた。
「……ああ」
「…ふうん、それでか」
「…あいつ、何か言ってたか?」
「うん、」
と頷いた国木田から、とんでもない言葉を聞かされた。
「自分が来ない日の分も花代を支払うから、他の客なんて取らせないで欲しいって言って、お金をたんまり置いてってくれたよ」
「……は…!?」
「こっちとしては断ることでもないから、承知しておいたけど……悪いことしちゃったかな? なんだったら、次に来た時にでもキョンから言ってよ。そんなことしなくても、ほかの客なんて取らせないって」
そう言ってくれるのはありがたいが、
「…あいつが聞き入れるかはさっぱり分からんぞ」
としか返しようがない。
むしろ、それでもと強引にそれを貫く気がした。
しょせん、俺と古泉の間には金と、金で買われた嘘しかないんだな。
当たり前のことのはずだってのに、改めてそう思うと、また泣きそうなほど苦しくなった。