菊に雨



九月九日は重陽の節句であり、吉原の紋日のひとつでもある。
紋日だから、と俺は朝から慌ただしく支度をする破目になったのだが、そうしている間にも怪しかった空模様はいよいよ怪しくなり、昼見世が終る頃にはしとしとと雨が降り始めた。
「あーあ…」
こりゃ、客の入りも悪くなりそうだなと嘆いていると、
「他人事扱いなわけ?」
とハルヒに白い目で見られたが、
「古泉なら土砂降りでも来るだろ」
と返すと、ため息を吐かれた。
なんだよ。
「……ねえ、なんでそれだけ信じてるし好き合ってるくせに、言ってあげないわけ?」
「…お前には関係ないだろ」
「あるわよ」
言いながらハルヒは外を眺めている俺の背中に伸し掛かる。
帯が潰れるぞ。
「少々平気よ。……あんたが元気でないと、こっちの調子が狂うでしょ」
「元気だろ」
「元気じゃないわよ。そんなしょぼくれた顔しちゃって」
「この顔は元からだ。それがまずいってんなら、隠し方でも教えてやってくれ」
そう言って化粧道具の入った箱を押しやると、ハルヒは面白がるように苦笑するという器用な真似をして見せた。
「お説教もつくわよ」
「…それは遠慮したいんだが……」
「だめね」
くすくすと笑いながら、ハルヒは俺を鏡の前に座らせた。
あれこれ道具だの使い方だのを説明しながら、てきぱきと化粧をしてくれるのはいいんだが、正直、自分で出来る気がせん。
「毎日ちゃんとしてれば覚えるわよ。有希だって出来るんだから」
そう言っているハルヒは化粧などしていない。
ハルヒくらいの高級な女の子に化粧は不要だからだ。
実際、ハルヒは素肌が綺麗で、塗りたくってなんとか見えるようにする俺とは全然違う。
それより、とハルヒは鏡越しに俺を睨み、
「なんだって変なところで意地張ったりしてるわけ? 好きなら好きだって言っちゃえばいいじゃない。どうせ、あんたは古泉くんしか客を取ってないんだし」
「そう簡単な話ならいいんだけどな」
と思わずため息が漏れたが、これ以上愚痴るつもりはない。
「何かあるわけ?」
「…まあな」
「……そんなに、言いたくないわけ?」
ハルヒはむっと眉を寄せて、もうひとつため息を吐いた。
「好きなんでしょ?」
「……好きだ」
そう呟くだけで泣きたくなるほどなんて、本当に重症だ。
あまりにも酷すぎる。
「それを古泉くんに言えば多少は楽になるんじゃないの?」
「それはそうだろうがな…」
その後、古泉に飽きられるか冷められるかして、どん底に落ちるのが目に見えてるんだから、そんなこと言えるわけがないだろう。
呟く代わりにため息を吐けば、
「辛気臭い」
と言われる。
「お前もさっきからため息ばっかりだっただろうが」
「あたしはいいのよ」
傍若無人にもほどがある。
「……で、お前の『いいひと』は今日は来ないのか?」
「いいひとなんかあたしにいるわけないでしょ。そんなもの、必要ないんだから」
とハルヒは不貞腐れ、
「誰のことよ」
「そりゃ勿論、南蛮かぶれの……」
「あんなやつ」
ハルヒはいよいよ不機嫌な顔になったかと思うと、
「しばらく忙しくて来れないとか言うのよ。わざわざ長崎くんだりまで行くんですって」
「長崎? …ああ、じゃあ仕入れに行くのか」
わざわざ大変だな。
「あいつが行く必要なんてないのに、南蛮人見たさに行くだけよ」
…なるほど、それでハルヒの機嫌が悪いのか。
趣味と女を秤にかけて、負けたとでも思ってるんだろう。
いや、ハルヒのことだから負けたなんてちらとも思いはしないんだろうがな。
「…お互い、面倒なことになっちまったよなー……」
「あんたは勝手に自分で面倒にしてるだけでしょ」
そう言ってハルヒは俺の背中を叩くと、
「ほら、さっさと着替えちゃいなさい。古泉くんのことだから、早めに来ても不思議じゃないでしょ」
「ああ、そうだな」
もうしばらくしたら、来ても不思議じゃない時間かと思うだけで、嬉しいのか苦しいのか分からなくなる。
「…会いたいのは会いたいんだが、会いたくないとも思うんだよな……」
しみじみと呟けば、
「そんなもんなんじゃないの」
と言葉の割に柔らかく返された。
「そんなもんかね」
「でしょ」
なら、そう思っておこう。
俺だけがおかしいのではなく、こういうおかしな病に冒された人間が誰しもこうなるんなら、まだ気が楽ってなもんだ。
ハルヒに見てもらいながらも、一応何とか自力で着替え、綺麗に盛装してみせた俺は、
「ありがとな。もういいから、お前も自分の支度をしてくれ」
と言ってハルヒを部屋から送り出した。
そうして、ずるずると裾を引き摺りながらも窓際に移動して、古泉が来るのを今か今かと待ち侘びる。
早く会いたい。
しかし、会えば苦しい。
どっちがいいんだろうな。
我ながら面倒な思考回路に呆れ果てているうちに、通りには人が増えてくる。
紋日で高くつくと知っているのかいないのか、それでもやっぱり賑わうものらしい。
様々な傘や駕籠が通って行くのを上から眺めて、しばらくは時間がつぶせたのだが、本当の意味で妓楼が賑わい始める頃になると、不安になってきた。
古泉がまだ来ないのだ。
いつもだったらとおにやってきている時間だってのに、今日に限ってこない。
あいつが俺との約束を反故にするなんてことは考えられないので、何か止むを得ない事情でも発生したんだろうかと不安になってくる。
病気だとか怪我だとか、それとも身内に何かあったとかだろうか。
それならそれで手紙を寄越してくれるような気もする。
ずくずくと痛み始める胸の辺りをぎゅっと押さえて、願うのはひとつだけだ。
古泉に何事もありませんように、と。
ちらりと浮かびそうになる、もう飽きられたのかもしれないだとか、雨の中来てくれるほどには俺を思ってくれてないのだろうかといった、後ろを向いた考えは無理矢理にでも捨て落とす。
古泉の身に何かあったのでなければいい、とただそればかりを念じていると、通りの方が軽くざわめくのが聞こえた。
なんだ、と品の悪くない程度に身を乗り出すようにして見ると、駕籠がならんでいくつかやってくる。
どんなお大尽を乗せて、どこまで行くのだろうかとその行き先を見送るつもりでいると、なんとその駕籠はうちの前で止まった。
さてはハルヒのお客か。
どんな奴だ、と思いながら見つめていると、駕籠から下りて来た人物は俺を見上げて、軽く手なんか振りやがった。
誰って……そんなことするのは一人しかいない。
「古泉!?」
驚く俺に笑みを返し、古泉は見世に入ってくる。
その後に続いた駕籠から何が下りて来るのかと思ったのだが、傘がさしかけられて見えやしない。
しかしそれはどうやら人ではなく物らしい。
物を運ぶのに駕籠なんか使ったのか、と呆れているうちに、足音が聞こえてくる。
「入りますよ」
という古泉の声に、慌てて窓から離れ、定位置に座り、
「入れ」
と返すと、古泉はいつもと変わらぬ笑みを浮かべて、
「遅くなってしまってすみません。この天気でしたので、思ったより手間取りました」
「手間取りって……」
首を傾げる俺に、古泉は柔らかく目を細めて、
「お綺麗ですね」
と囁くように言ってくれる。
「話をはぐらかすつもりか?」
嬉しいくせにそう返した俺に、
「いえいえ、」
と古泉は微笑し、
「ただ、あなたがお綺麗なので、言わずにいられなかっただけなんです」
「……ばか」
拗ねるように毒づいて見せる。
実際にはくすぐったくて堪らない。
好いた相手に褒められて、平気でいられるほど俺は経験豊富じゃないんでね。
極力顔に出さないよう抑え込み、
「今日はまたえらく派手なお出ましだったな」
と皮肉っぽく言ってやると、
「ええ、少しばかり頑張りました」
楽しそうに、というよりは、何か悪巧みを思いついたハルヒみたいな顔で笑った古泉が、軽く手を叩いて合図すると、すっと襖が開いた。
そうして入ってきたのは、抱えきれないほどの菊の花を束ね持つ芸者衆と大きな菊の鉢を手にした幇間連中だった。
なんだこりゃ、と目を剥く俺に、古泉は笑って、
「今日は重陽の節句です。それなのにこの雨では、菊の花が散ってしまって勿体無いでしょう? せっかくですから、用意出来る限り用意して、持ってきてみました」
あっという間に部屋中菊の花に埋め尽くされ、むせかえるような濃密な菊の香りに包まれる。
黄色や白の花々は見事ではあるのだが、これは流石に多すぎるだろ。
どうやら運び込むためだけに頼んだらしい芸者衆や幇間はさっさといなくなり、また古泉とふたりきりになる。
俺が花の群れに呆気にとられている間に運び込まれていたらしい台の物の食器や料理にも菊があしらわれているなんて、どれだけ徹底させたんだろうか。
菊の花の天ぷらやら和え物やらが並ぶ膳を眺めつつ、俺は古泉に尋ねる。
「…本当にお前は酔狂だな」
「お褒めに与り光栄です」
「呆れてんだ」
そう笑った俺に、古泉は悪戯っぽく目を細めて、
「沢山用意しましたからね。まずは菊酒でも一献」
「そうだな」
花を浮かべた杯にそろりと酒を注いで酌み交わすのは、風情があっていい。
そうして外の天気の悪さも忘れて酒を飲み、菊花料理を楽しんだ俺は気分よく、古泉と共に寝間に入ったのだが。
「…なんだこれは」
機嫌のよさを吹き飛ばしきった、低い声が思わず出た。
「え?」
と首を傾げる古泉を睨み上げ、
「なんで寝間まで花だらけなんだ!」
というか、布団まで埋もれてるだろ!
花の中で寝ろってか?
「それもいいと思いませんか?」
「よくないっ!」
「そんなに嫌がらなくてもいいじゃないですか」
そう笑った古泉の顔は酒のせいでほんのりと赤い。
「せっかく用意したんですし、切ってしまった花はどうせ明日には枯れてしまいます。それなら、堪能しましょうよ」
悠然とそう言った古泉は、その手で花をすくい上げると、俺の頭にぱらぱらと降り掛ける。
「な……」
「ああ、やっぱり綺麗です」
と言って微笑したその笑顔の方がよっぽど綺麗で、思わず言葉も失った。
「あなたには、菊の花が似合いますね。気高く、香り高く、美しい……」
「…ばか」
言いながら、つい、古泉を抱き締める。
これ以上まともに顔を見ていられる気がしないから、だ。
古泉は嬉しそうに、声を立てて笑い、
「ほら、あなたも結構飲んだから、酔っ払ってるんでしょう?」
「…そんなに、酔ってない……」
「酔っ払いは大抵そう言うんですよ」
宥めるように優しく囁いて、古泉は俺の手を引き、布団へと導く。
重ねに重ねた着物を丁寧に脱がせ、俺を襦袢だけの下着姿にしてしまうと、花にうずもれた褥に俺をそっと横たえて、
「…おやすみなさい」
といやに切なげに呟いた。
その唇が俺のそれに重ねられる。
「ん……」
ぎゅっと古泉の襟を握り締めると、口付けは深さを増す。
一度そういう口付けを交わして以来、それくらいのことはするようになっていた。
もう何度も口付けたが、それでも飽きない。
むしろもっと欲しくなる。
その口付けの甘さに蕩かされるような気がしながら、俺はそろりと古泉を抱き締めた。
それこそ、このまま流されたっていいような気持ちでそうしたってのに、古泉はあっさりと体を離し、俺の隣りに寝転がる。
改めて、
「おやすみなさい」
と嬉しそうに呟いた古泉はそのまま目を閉じちまい、俺はこっそりと嘆息した。
…このヘタレ男め。