あきかぜ



気のせいか、少しばかり物悲しい風が吹くようになりはじめた八月の終り、俺は風邪を引いて寝込んでいた。
うんうん唸る俺の枕元にいるのは何故だかハルヒだ。
「…おまえ……しごとは…?」
「ろくに呂律も回ってないんだから、無理して喋るんじゃないわよ」
ぴしゃりと言いながら、ハルヒは俺の額に水で冷やした手ぬぐいを乗せる。
ひんやりして気持ちいいってことは、そこそこに熱もあるようだ。
「今は休憩時間よ。全く……紋日が近くて忙しいって時に、何やってんだか」
「すまん……」
「色恋沙汰で悩むなんて慣れないことをするから、知恵熱でも出たんじゃないの?」
かもな、と思いはしても返事の返しようはない。
喉が痛くて声もうまく出ないのだ。
それでも、痛む喉に唾を流し込み、なんとか言葉を搾り出す。
「こいずみ……れんらく……」
「分かってるわよ。ちゃんと手紙を出しておいたわ。急ぎでね」
「……なん…」
「キョンが風邪を引いたから登楼してもお相手出来ませんって」
俺は思わず頭を振った。
それじゃだめだ。
そんなのを言ったってあいつは薬か何かを抱えて来るに決まってる。
「来るって言うの?」
頷いた俺に、ハルヒはにやりと笑った。
「随分愛されてるみたいじゃない」
「…るさい……」
俺の顔が赤いのは熱のせいだとも、ああそうだ。
「全く…変に足掻いたりせずに素直になっちゃえばいいのに」
呆れたように笑ったハルヒには、同じ言葉を返してやりたい。
「…まえ、こそ……」
「放っときなさいよ」
それこそこっちの台詞だ。
「ほらもう、喋るのも辛いくらいなら寝ときなさい」
そう言って、ハルヒは強引に俺の瞼を押さえやがった。
お前な……。
「あんたの大事な旦那が来たら起こしてやるわよ」
「しごと……」
「あんたは寝るのが仕事。あたしはちゃんと時間になったら行くわよ。どうせ夜まで暇だしね」
ならいいか、と俺は目を閉じた。
そうして、どれくらい眠ったんだろうか。
ふと目を開けると、俺が知る一番の美男子と美女が揃い踏み状態になっていた。
どういうことかって……まあ、要するに、古泉が来ていて、ハルヒもまだいたって訳だ。
目を開けた俺に、古泉は心配そうな眼差しを注いで、
「大丈夫ですか?」
と声を掛けてくれた。
たったそれだけなのに、泣きそうになるなんて、珍しく体調を崩したりしたせいだ。
誰だって、体を壊すと気弱になるだろ。
俺だって例外じゃない。
思わず抱きつきたくて、飛び起きそうになったが、それも出来なかった。
「…う……」
無理に体を起こしたせいで視界が揺らぎ、倒れそうになる俺を、
「いきなり起きたりしたら危ないですよ」
と言いながら、古泉が慌てて抱きとめてくれた。
その温かさにほっとする。
嬉しい、と呟きそうになったところで、渇いた喉からは言葉など出てきやしない。
それでいいはずだってのに、酷く悲しくなった。
そこへハルヒが、
「ほら、ちょっと白湯でも飲みなさいよ」
と湯飲みを俺の口に押し当てて来た。
それをそっと飲み下すだけでも喉が痛んだが、とりあえず喉は潤った。
「……は…」
「気分はどうです?」
そう尋ねてくる古泉に、俺は小さく頷いた。
「大丈夫だ。喉も……」
さっきより具合はいいらしい。
ほっとしながら、俺は古泉を見た。
それとも、睨み据えた、と言った方がいいだろうか。
とにかく、古泉がびくりとするほどの視線を向けてやりながら、
「それより、お前、何しに来たんだ」
と唸れば、ハルヒが慌てたように、
「ちょっとキョン、」
とかなんとか口を挟もうとするのも遮って、
「来るなって連絡をさせたはずだろ」
古泉は困り果てたように眉を寄せ、
「ええ、そういう連絡をいただきました。でも、あなたが心配だったんです…」
「あほか。相方がちょっと夏風邪引いたからって、仕事放っくりだしてわざわざ駆け付けてくるような馬鹿がどこにいる」
「馬鹿でもなんでも結構です」
思ったより強く、古泉はそう反発した。
「あなたの心配くらい、させてください」
「お前が心配するようなことじゃない。こんなもん、寝てりゃ治る」
「……そんなに、僕はお邪魔でしたか?」
ぽつん、と、水面に涙をひとつこぼすように、古泉はそう呟いた。
それがあんまりにも悲しそうで、思わず俺の舌も動きを止めた。
「な……」
「…お邪魔してすみません」
そう言った古泉は、俺を支えていなければ、ここを出て行っていただろう顔をしていた。
「…じゃ、ま……とまで、言ってないだろ……」
「邪魔だったんでしょう? 言われなくても、それくらい分かりますよ」
でも、と古泉は泣き出しそうな情けない声を搾り出した。
「…あなたが寝込んでおられると聞いて、居ても立ってもいられなくなったんです」
「だが……」
まだ言い募ろうとする俺の耳に、ハルヒのため息が突き刺さるように響いた。
「痴話喧嘩もほどほどにしなさいよ」
呆れきった声で言って、ハルヒはすっと立ち上がった。
「あんたを看病したいなんて奇特な人も来たことだし、あたしは仕事の支度に行くわ。古泉くん、悪いけどキョンのこと頼むわね」
「え…、ええ、畏まりました」
「それじゃあね」
とハルヒはとっとと出て行き、気まずい空気の中、古泉と二人きりにされてまった。
……どうしろと。
今頃意識することじゃないかも知れないが、今になって、古泉に抱きしめられていることが気になってくる。
顔だって、こんなに近くて、それだけで熱が上がりそうだ。
戸惑うように古泉は俺を見つめ、
「…あの、どうしましょうか。食欲はありますか?」
「……ない」
「ええと……お見舞いにと思って、柿を持ってきたのですが、食べれないでしょうか…?」
「柿?」
「ええ、今剥きますから、少し休んでいてください」
やることが出来てほっとしたような顔をした古泉は、俺をそろりと布団に戻し、寝かせると、丁寧に上掛けをかけ直して、寝間を出て行く。
隣から聞こえる小さな物音が、嬉しいのかそれとも悲しいのかさえ、よく分からなかった。
側に、いてほしい。
そう、素直に言えたらいいのに、そうもいかんというのは恐ろしく不自由だ。
本当は、心配して駆け付けて来てくれて嬉しいんだから、そう言いたいとも思う。
なんとか遠回しにそう言えないもんだろうかと考え込むが、熱で煮えた頭ではろくな考えも浮かびやしない。
うんうん唸っていると、
「…辛そうですね」
と沈痛な面持ちで言われた。
「剥けましたけど……起き上がれますか?」
「ん……、手、貸してくれ…」
差し伸べられた手に縋り付くようにして起き上がれば、すかさず背中に腕を回され、抱え込むように支えられる。
古泉の胸に体を預けるような恰好で落ち着いた俺の耳元で、
「まだ…熱が高いみたいですね……」
お前のせいだ。
「…え?」
やばい、うっかり声に出たか。
どうごまかそうかと視線をさ迷わせる俺に、古泉は落ち込んだ様子で、
「……そんなに、ご迷惑でしたか?」
と呟くように言った。
「…は?」
なんだその反応は。
「そういうことなんでしょう? ……すみません」
「だ、から、誰もんなこと言ってないだろ!」
言いながら、俺は古泉の腕を握り締めた。
古泉が逃げそうで怖かったのだ。
「来て、くれたのは、嬉しい。だがな、」
そこで咳込んだ俺の背中をさすってくれる手は優しいんだから、心変わりなんかしないよな?
もう俺に飽きて、それで逃げたいからそんなわけの分からんことを言ってるとかじゃないだろう?
そうと信じようとしながら、震える声で、
「…それで、お前にうつったらどうするんだよ」
「……そんなことを、考えてくださったんですか…?」
信じられないとばかりに呟くのは勝手だが、お前の中で俺はどこまで酷い奴になってるんだ。
「いえ、そうではなくて……。…僕のことなんて、どうでもいいのかと、思ってました。嫌われてしまったんじゃ、ないかと……」
「あほ」
引っ叩いてやろうと伸ばした手は、力無く古泉のひんやりした頬に触れるに留まった。
いや、俺の手が熱いだけか。
ともかく、俺は古泉を睨んで、
「嫌いな奴に世話を焼いてもらうほど、俺の面の皮は厚くないぞ」
というより、嫌いな奴だの面倒な奴が来たらその時点で追い返す主義だ。
谷口みたいな喧しいのが来たら間違いなく帰れと言って、湯飲みをひっくり返すくらいのことをしてやる。
「だから、」
と俺は古泉の頬に触れたままだった手を滑らせ、その首の後ろへ回し、
「…来ちまったもんは仕方がないし、どうやら誰も俺の面倒なんか見てくれんらしいから、ここにいろよ」
と弱音を吐くように小さく囁いた。
「…いいんですか?」
「お前が嫌なら帰ってくれて構わん。…どうする? 帰るか?」
「帰りません」
嬉しそうに小さく笑って、古泉はそう答えた。
「こんな状態のあなたを一人で放っておくなんてことは出来ませんよ。ですから、側にいさせてください」
そんな言葉に、つい、唇が緩む。
「じゃあ、精々世話を焼いてくれよ」
「はい」
「手始めに、柿をくれ」
そう言って唇を開くと、小さめに切られた柿が歯に当てられる。
それをしゃくりとかじると、酷く甘く感じられた。
硬いくせして甘いなんて古泉みたいだ、などと思ったことこそ、一番の失敗だったらしい。
以来、まともに柿を食えなくなった俺である。
そんな余談はともかくとして、古泉は本当にかいがいしく世話を焼いてくれた。
ふらつく俺を支えて厠まで連れていってくれもしたし、粥を食わせ、薬も飲ませてくれた。
それも一晩中である。
帰れと言い出せなかった俺も悪いのだが、よく頑張ったものである。
そのおかげかは分からんが、夜が明けた頃には俺は随分と元気になっていた。
喉の痛みも大分引いたし、熱も下がっている。
古泉はと言うと疲れたのか、俺の枕元で眠そうにうとうとしている。
それでも、俺が体を起こすと目を開け、
「どうかしましたか?」
と律儀に聞くから、流石に笑った。
俺は古泉ににじり寄ると、何をするのか訝るように古泉は俺を見つめているばかりだ。
それなら、俺がこんなことをしたら驚くだろうか、と期待めいたものを抱きながら、俺は古泉に抱きついた。
「わ…っ」
驚いたのか声を上げる古泉の肩に頭を寄せて、
「…ありがとな」
と呟くのが、今の精一杯である。
本当は、いくらだって言いたい。
来てくれて本当に嬉しかったとか。
今日はいっぱい迷惑掛けて悪かったが、その分惚れ直しただとか。
意地悪なことを言ってごめんだとか。
だが、今の俺にはそれは言えない。
それを言える時が来るとも思えない。
だから、せめて古泉を抱き締める。
伝えられない気持ちを伝えるためでなく、発散させるためだけに。
「……いいえ、当然のことをしたまでですよ」
「…それでも、お前のおかげだろ?」
そう言った俺の額に、そっと唇が触れる。
くすぐったくて、気持ちよくて、嬉しくて、そのままどうにかなっちまえばいいのにとさえ思いながら、
「もし、風邪がうつって倒れるなら、ここで倒れろよ。そうしたら、俺が看病してやる」
「それはそれで楽しみですね」
そう笑う古泉には意地悪く、
「そうやって楽しみにしてると、そんなことにはまずならんもんだがな」
と言ってやる。
そうして、
「こんなんで、礼になるか?」
と言って、古泉に口付けると、いつの間にやら背中に回されていた腕に力を込められ、更に深く口付けることになった。
触れるだけでは足りなくて、そろりと唇を舐めると、驚いたようにしながらも迎え入れられる。
伸ばした舌を吸われ、絡め取られて、ぞくんと体が震えた。
気持ちいい、と言っちまっていいのか迷うような感覚だった。
どこか神経が昂ぶるような感じがして、四肢が震え、いっそう強く古泉に縋りつく。
「ぁ……っ、ふぁ…」
熱のせいでなく目が潤んで視界が歪む。
このままどうにかしてほしいと言ったら、古泉はしてくれるだろうかとさえ思ったのは、自分でもどうかしていると思うが。
なんとかその辺りで踏みとどまり、古泉から体を離す。
乱れそうになる呼吸を無理に整え、慣れたような風を装って、
「礼になったか?」
と聞けば、
「大盤振る舞いにもほどがありますね」
と嬉しそうに笑われた。
「じゃあ、これで風邪がうつったりしたら、丁度いいってか?」
「どうでしょう」
くすくす笑いながら、古泉は俺を布団に戻し、それからちゃっかりと自分も隣りに潜り込んで来た。
「おい……」
「寝させてください。…一晩、あなたが心配で眠れもしなかったんですけど、もう大丈夫なんでしょう?」
「…全く……」
仕方ないやつめと笑って見せる。
本当は、古泉がまだ帰らずにいてくれることが嬉しい。
「あなたの人恋しさに付け入るようで、少しばかり申し訳なくもあるんですけどね」
と苦く笑った古泉には、
「あほか」
と呟いて、背を向ける。
「せめてうつらないようにしてやる」
「ふふ、つれないですね」
そう言っておいて、古泉は俺を背後から抱き締めた。
「ん…なんだ……?」
「嫌でしたら、言ってください。離れます」
「……」
どう答えようかと迷っているうちに、背中から穏やかな寝息が聞こえ始める。
寝ちまったのか。
俺は自分の胸の辺りに回された古泉の手を軽く握って、
「…ありがとな」
ともうひとつだけ呟いた。