俺が目を覚ました時、俺の腕は古泉のそれに絡んでなどいなかった。 寝ている間に自分から解いたのかは覚えてなかったが、多分そうなんだろう。 すぐ間近にある古泉の顔をじっと見つめて、小さくため息を吐いた。 男のくせに、綺麗過ぎるんだよ、お前の顔は。 触れてみたいような、もうしばらく見つめていたいような、曖昧な気持ちでしばらくぼんやりしていたが、そのままじゃまたハルヒが怒鳴り込んでくるかも知れん、と俺はそろりと布団から抜け出した。 朝の身支度のためにあれこれ整えてやることさえ楽しいなんて、恐ろしい。 そう思いながらも、きちんと道具を揃え、準備する。 古泉はぬるま湯が好きだったな、なんて考えながら、ほんの少し熱めの湯を用意する。 古泉を起こしている間に冷めることを計算してのことだ。 そうして、きちんと準備を整え、それから自分の身支度も軽く整え、髪の乱れなんかを直した後、寝間に戻った。 そろりと古泉の肩に触れて、 「朝だぞ、起きろ」 とわざとぶっきらぼうに言葉を掛ける。 「んん……」 と声を上げておいて、古泉は布団の中に潜ろうとするから、 「こら、起きて帰るんだろ?」 「まだ眠いです……」 ばっちり目が覚めてる声で何言ってんだ、こいつは。 「起きろって。布団剥ぎ取るぞ」 すると古泉は子供みたいに布団にしがみつきやがる。 「どうした? 帰りたくない理由でもあるのか?」 「そうじゃ、ないですけど……」 「俺は、居続けは推奨せんぞ」 「…居続けなんてするつもりはありませんよ」 そう言った古泉の声が予想外に硬く響いた。 なんだ? 俺は何か余計なことでも言っちまったのか? 戸惑っている間に古泉はのそのそと布団から這い出してきた。 その顔を見ても、別段普段と変わりないように思う。 さっきのはなんだったんだろうか、と首を捻る俺をよそに、古泉は寝間を出て行く。 「ああこら、ひとりでやろうとするなよ。袖を濡らすことになるぞ」 言いながら俺は古泉を追いかけ、うがい茶碗に丁度いい温度になったぬるま湯を注いでやる。 古泉は器用に房楊枝を使って歯を磨き、茶碗の湯で口をすすいだ。 その間俺は邪魔にならないように古泉の袖を持っておいたりするだけでなく、空になった茶碗にもう一杯注いでやったりもする。 古泉が今度はそれで軽く洗面し、最後の一杯で髪を撫で付ければ、いつも通りのいい男である。 それに見惚れそうになるのを堪えつつ、俺は洗面道具を片付ける。 使った水の入った耳盥をひっくり返したりしないよう慎重に抱えて部屋を出る。 本職の女の子ならこういうのを手伝ってくれる新造だの禿だのがいたりするんだが、俺は一人だから仕方ない。 多少不便だが別にいいさ、と前とは違う理由で思う。 …古泉を独り占め出来て嬉しいと思うなんて、どれだけ俺は病気なんだろうか。 押さえ込んでる分、余計に酷くなっている気がするのは多分気のせいじゃあるまい。 今だって、古泉の側を離れた途端、顔が熱くて堪らんし、胸だっていやに早く脈打って、酷く痛む。 「は……」 と漏らした息が気持ち悪いほど熱っぽく、通りかかった長門にまでぎょっとした顔をされちまった。 「…大丈夫?」 「ああ、すまん……」 「……無理はしないで」 言葉少なに長門はそう言って、自分のところへ持ってあがる湯を抱えていった。 小さいのによく働く奴だ。 感心しながら俺も朝粥を抱えて部屋に戻る。 「待たせたな」 と声を掛けながら襖を開けると、古泉はぼんやりと表通りを眺めていた。 「…何か面白いものでも見えるのか?」 「いえ……」 そう言いながらも、視線は外に投げたままだ。 俺はそのすぐ側に近づいて、 「食べないのか?」 古泉は難しい顔をして俺を見たかと思うと、かすかにため息を吐いた。 なんだその態度。 「なんでもありませんよ」 一夜明けたと思ったらいきなり態度が変わったな。 ……俺はなにかしちまったんだろうか。 まさか、寝言で好きだと口走りでもしたんじゃないだろうな。 内心で怯えながらも顔には出さず、ぐっと堪える俺を見つめて、古泉は小さく尋ねた。 「……僕は、ここに来て、構わないのでしょうか」 それこそ、聞き逃しそうなほど小さな声に、俺は目を見開く。 「急にどうした?」 「いえ……、ご迷惑なのではないかと思いまして」 「…そんなこと言って、紋日に来るのが嫌になったのか?」 首を傾げながら、茶化すように尋ね返した俺に、古泉は軽く眉を寄せる。 「そうじゃありません。ただ…、僕が来ても、あなたに迷惑なばかりなら、もう少し抑えようかと……」 「…お前も分からん奴だな」 俺があれだけ通い過ぎだと言ってた時には馬耳東風と聞き流してたくせに。 「……とうとう俺に飽きたか?」 言いながら、声が不覚にも震えたことに動揺した。 まずい。 落ち着け。 とりあえず泣いたりはするなよ、よし、大丈夫だ。 そうなんとか自分を取り戻そうとしたところで、手を握られた。 「違います、あなたに飽きるだなんて、そんなこと……」 不自然に言葉を途切れさせた古泉は、泣きそうな顔で俺を見つめて、 「…あなたに、会いに来ても……いい、ですか…?」 「…悪いなんて一言も言ってないだろ?」 むしろ来て欲しいと、どうすればうまく伝えられるんだろうか。 俺のこの想いは知られないままそれを告げるのはとても難しく、結果、 「――お前が来ないと、俺はこの部屋でぼーっとするしかなくなるんだぞ」 という訳の分からん発言になっていた。 「…え……? でも、手伝いとかされてたんじゃ……」 「そんなもん、すぐ終る。俺の代わりに既に雇われてるのなんかもいるんだ。今更手伝いに行ったところで、俺なんてすぐさまお役御免だ。……だから、お前が来ないと退屈することになるな」 「…じゃあ、来て、いいんですね?」 「来ないなら、恨みつらみを並べ連ねた手紙でも出してやるよ」 俺が言うと、古泉は明るく笑って、 「それはそれで見てみたいものですね」 「そんなになってから顔を出しても、愛想よくしてやると思うなよ? ただでさえ悪いのが更に悪くなると思え」 と冗談めかして笑えば、古泉も嬉しそうに笑ってくれる。 それでいいんだ。 お前はそうやって笑ってろ。 ……ってのは、普通客が女の子に対して思うことだろうかね? ともあれ、いくらか機嫌の直ったらしい古泉に飯を食わせ、後は見送るだけなんだが、今日はどこまでにするべきだろうか、と考える。 ぎりぎりまで送ってやりたい気はする。 それをしておかしく思われはしないだろうか、とも思う。 考えながらも古泉と共に階段口へ向かって歩いていくと、 「キョン!」 とハルヒに声を掛けられた。 「ああ、ハルヒ…おはよう」 「挨拶なんかどうでもいいわよ。ちゃんと送ってくんでしょうね?」 「え……」 どうしようか、と視線をさ迷わせる俺の鼻先に指をつきつけ、ハルヒは怒ったような顔で怒鳴りつける。 「送っていきなさいっ! 大門まで! なんだったら古泉くんの家まで送れば? あんたなら外にだって出れるんだし」 「んなことする訳に行くかっ!!」 思わず噛みつくように吠えた俺に、 「じゃあ、せめて大門まで送ってきなさい。じゃないと入れてやらないわよ!」 と言っておいて、自分は客――件のハルヒの想い人だった――を、 「もう、あんたはぼやぼやしてないでとっとと帰りなさいっ! 当分あたしにも会いにこれないくらい、忙しいんでしょ!」 と言って追い出すのはなんなんだ。 全く……。 まあいい。 これでいい口実が出来た。 「古泉、大門まで送ってくから……」 と言ってその手を取ると、古泉は困ったような顔をして、 「え、あの、別に…大丈夫ですよ? 店先まででも……」 「送ってかなきゃ俺が叱り飛ばされるんだよ。見ただろ、今の剣幕」 「ああ…」 と小さく笑った古泉に、 「…あれでも、悪い奴じゃないんだぞ」 とは言っておく。 今日もこれで恩義が出来たしな。 「多少ワガママで強引だが、根はいい奴なんだ」 「あなたが仰るのなら、そうなんでしょうね」 そう微笑した古泉は、見世を出ながら、 「…太夫とは、仲がよろしいんですね」 「……今更だな」 少しばかり呆れてそう呟いた俺に、 「すみません」 「別に謝らなくてもいいが……。気になるのか? 太夫が」 「…ある意味では、そうですね」 その言葉に、ずきりと胸が痛んだ。 「……相方を変えたい、か?」 小さく問うと、古泉は慌てた顔をして、 「いえ、そうじゃありません。と、言いますか、正直、彼女のような女性はこちらからご遠慮申し上げたいです」 「なんでだよ」 ハルヒは美人だし、そりゃあ気も強いが、それだけの能力もある奴だぞ。 そんなのが嫌なのか? 「気の強い女性は、少々苦手でして……」 ……呆れた。 「お前、それなのに吉原通いなんてしてたのか?」 「…何かおかしいですかね?」 「あのな、吉原の女の子なんてのは気位が高くて気の強い女の子ばっかりだぞ? そりゃ、たまには大人しいのだとか男を立てるのなんかもいるが、それだって大抵は手練手管の一部だぞ? それなのに、ここで誰かを好いてみたいなんて、馬鹿じゃないのか?」 呆れ果てて言った俺に、古泉は困ったように笑っておいて、 「…でも、そのおかげであなたに出会えました」 なんて不意打ちを食らわすから、一瞬心臓が止まるかと思った。 今日はずっとそういうことを言わなかったから完全に油断していたせいで、顔が赤くなりかけた。 抑え込めたのは奇跡みたいなもんである。 いくらか熱い顔を袖で扇ぎながら、俺は薄く笑って見せる。 「それまでにどれだけ散財したんだか」 「必要投資ですよ」 そう言って、古泉は足を止めた。 「…あなたに出会えて、本当に嬉しいんです」 俺もだ、と、そう答えられたらどんなに暖かな心地になるだろうかと思いはしても、俺に返せるのは、 「……そうかい」 というような素っ気無い呟きだけである。 それにもめげずに、 「……あなたが好きですよ」 と囁いてくれるのが嬉しいのに、 「よせ、往来だぞ」 などと返さねばならんのが辛い。 苦しくて俯いたら、 「あなたが好きだから、」 いやに真剣な声に聞こえて、俺は慌てて古泉の顔を振り仰いだ。 古泉は優しく微笑みながら、その目だけは酷く悲しげで、 「あなたが嫌がるようなことはしませんから、嫌ならそう言ってくださいね? 拒まれたからと言って、あなたを困らせるようなことをするほど、最低な人間にはなりたくありませんから、その点については心配しなくて結構ですし…」 「…は?」 戸惑う俺に、古泉は言う。 「…それだけは、覚えておいてください」 「……というか、だな、」 俺は首を捻り捻り言葉を探す。 どう言えばいいんだろうか、と迷い、結局、 「…お前みたいなへたれが、俺の嫌がるようなことを強引に出来るとは到底思えんのだが?」 といういくらか酷い発言になったのだが、それに古泉は吹き出し、声を立てて笑った。 「そうですね、僕ではまず無理でしょう」 「大体、言われるまでもなく、本当に嫌なら俺は全力で抵抗してやる」 「それを聞いて安心しました」 そう言って古泉は俺の背を軽く押して歩き出し、大門へと真っ直ぐに向かう。 「……なあ、お前、今日は変だな」 思わず呟いた俺に、古泉はぎょっとしたように俺を見る。 「気付かないとでも思ったか?」 「え……いえ……その…」 「…そりゃ、俺は鈍い鈍いと言われるがな、それくらいのことなら分かるんだ」 特にお前のことだからな、とは言わずに、胸の内で押し留める。 「何かあったか?」 「…いえ、大したことじゃないんですよ。少しばかり夢見が悪かったと申しますか……」 「夢見が?」 本当だろうかと疑ってみても、よく分からん。 こいつは本当に嘘か本気か区別がつかん男である。 「…じゃあ今度は、獏の絵でも用意しておいてやるよ。悪夢を食ってくれるって言うからな」 そう子供に言うみたいに言ってやった俺に、古泉は嬉しげに、 「あなたが描いてくれるんですか?」 んなもん描けるか。 「絵のうまいのに頼むかどうかしてやるってんだ。それでいいだろ?」 「楽しみにしてますね」 「どんなのがいいとかあるか?」 「そうですね……」 そんな話をしているうちに、大門に到着した。 うちの見世からはそこそこあるが、それさえあっという間に思えるのは……いや、理由は考えるまい。 「それじゃあな」 門の手前で見送ろうとした俺をじっと見つめた古泉は、泣きそうになるのを堪えるような微妙な顔をしたかと思うと、 「嫌なら、拒んでくださいよ…?」 ともう一度繰り返して、俺を抱き締めた。 ふわ、と古泉のどこか甘い香りが鼻をくすぐり、思わずうっとりしそうになるのを堪える。 …が、してもいい、のか? この体勢なら古泉には見えないよな? その肩口に鼻先を埋めるような格好になりながら、俺は小さく、 「これくらいなら、嫌じゃない」 と言ってやる。 むしろしてほしい、なんて、言える訳もないが。 「嬉しいです」 そう言った古泉が軽く体を離したかと思うと、そのまま口付けられる。 「ん……っ」 少し身動ぎしたのは、急なそれに驚いたからだってのに、古泉は怯えるように体を離そうとする。 だから、俺から軽くその体を抱き締めて、唇を合わせ直してやった。 「…っは……」 「…嫌じゃ、なかったんですか……?」 戸惑うように俺を見る古泉に、俺は小さくため息を吐く。 「あれくらい、どうってことないだろ」 だからしていい、というつもりで言ったのに、古泉は何故だか痛そうに顔をしかめた。 ……もしかして俺は、言葉の選択を間違えたのだろうか。 |