よそおい



きっちり十日を待って、古泉はやってきた。
あの晩綺麗に丸かった月はもう随分と細くなっているし、夜半を大分過ぎなければ姿も見せない。
俺はその月ほどに冷たく微笑して、古泉を迎えた。
「……誰だ?」
「…冗談にしても酷いですよ」
そうため息を吐きながら、古泉がほっとするのが分かる。
俺が、前と何一つ変わらない様子を装っているからだと思うと、それだけでも胸が痛みそうになるが、古泉が安堵するならそれでいいじゃないかと自分を納得させた。
古泉はいそいそと俺のすぐ側に腰を下ろしたかと思うと、にじり寄ろうとする猫のように両手を畳につけ、
「…抱き締めても、いいですか?」
と聞くから、
「……好きにすりゃいいだろ」
と返す。
大丈夫だ、と胸の内で繰り返す。
俺は古泉なんか好きじゃない。
だから、抱き締められたってどきどきなんかしない。
そう言い聞かせていれば、案外どうにかなるものらしい。
抱き締められた拍子に、ふわりとどこか甘い香りが鼻をくすぐっても、顔が赤くなったりもしなかった。
だが、我慢し過ぎると逆に辛くなるからと、俺はこそりと本音を呟く。
「…久しぶりだな」
と。
「ええ、本当に……。もう、落ち着かれましたか?」
「ああ。…悪かったな、迷惑掛けて……」
そう言った俺を、古泉はもう少しだけ強く抱き締め、
「いいえ、僕の方こそ、すみませんでした」
と囁いておいて、古泉は泣きそうな小さな声で、
「……この十日間がとてつもなく長く思えました。…あなたに会いたくて、堪らなかった……」
「…ん……俺も…」
そう呟き返すのも、半分は自分の中に訳の分からんものを溜め込まないためだ。
何しろ古泉ときたら、たったそれだけのことでも、
「え……」
と驚くんだからな。
俺はその鼻先をつまんで、
「本気にすんな、ばか」
と本音を嘘に変える。
「……ああ…なんだ……」
残念そうに呟いてはいるが、俺が本気だと知ったら逃げるんだろ?
だから俺は、お前なんか好きになってやらん。
「お前が前に言ったんじゃなかったか? …ここでは嘘でも好いてるってことにするんだって」
「そうでしたっけね」
「忘れるな」
そう言って、俺は古泉の体に頬を寄せる。
「…あの……?」
「…お前に猶予をもらったから、考えた。それで、……決めた」
俺は泣きそうになるのを悟られないように、あえて笑った。
「仕事だと思って、割り切ることにする」
「……そう、ですか」
「ああ。……お前は俺の客で、俺はお前の相方。…それでいいんだろ?」
古泉は躊躇うように少し黙り込んだが、
「……ええ、とりあえずは、それで」
「とりあえずってのはなんだよ。不満でもあるのか?」
拗ねたような調子を作って問えば、古泉は困ったように、
「希望まで捨て切らなくていいでしょう?」
と呟く。
それがあまりにも切なげだから、俺は少しだけ胸苦しくなるのを感じながらも眉を寄せ、
「希望だと?」
と不機嫌な声を作る。
「ええ。…あなたが、僕の思いに応えてくださる――なんて、奇跡的なことが万に一つもないとは言い切れないでしょう?」
そう寂しげに言う古泉に、俺はため息を吐いた。
「…勝手にしろ」
「はい」
嬉しそうに言って、古泉は俺をぎゅうと抱き締め直す。
…怒ったっていいし、文句を言ったっていいだろうに、そうやって嬉しそうにするってことは、こいつはやっぱり、俺が本気になったと知ったら逃げるんだろう。
こいつはきっと、誰かを一方的に想うことを楽しんで遊んでいるだけなのだ。
だから、こいつこそ、本気じゃない。
本気のつもりでいるだけに過ぎないんだ。
……本気で人を恋い慕うなんて、こんな苦しいこと、楽しめるはずがないからな。
俺は苦しさに耐えかねて、
「…そろそろ解放してくれ」
と唸る。
「もう少しだけ、だめですか?」
「もう十分だろ」
「久しぶりなのに……」
そう言いながらも、古泉は手を離す。
…本当に離したくないなら、そのまま抱き締めたままでいりゃいいだけなのにな。
形振り構わずに、求めて見せてくれればいい。
そうしたら、と思いながら、それでも俺は拒んで見せるんだろうとも思う。
ずるいな、と自分に毒づきながら、俺は立ち上がり、
「料理と酒の支度を頼んで来る」
と部屋を出た。
「はい、お待ちしてますね」
嬉しそうに言う古泉に背を向け、足早に階段を降りる。
そうして、階段裏の物陰で、少しだけ、泣いた。
と言っても、一粒二粒涙を滲ませただけだ。
そうして吐き出して、なんとかやり過ごす。
そうするしかないんだから、仕方ない。
乱れそうになった呼吸を整えて、俺はなんでもない顔で、料理を取るため部屋を出た。
途中、国木田に、
「一々キョンが運ばなくてもいいように、人を手配してもいいんだよ?」
ともう何度か言われてることを繰り返されたが、俺は首を振る。
「構わん。多少動いた方がいいし、それに……あいつとずっと二人きりでいるのもお寒いだろ」
冗談めかして呟いて、部屋へと戻る。
…本当のところは、他の誰にも邪魔されたくないだけなのかもなと思いながら。
そうして、向かい合わせで台の物をつつきながら、酒を酌み交わす。
「あなたとこうして食事をするのも、久しぶりですね」
「お前が来なかったからだろ」
「僕のせいなんですね」
くすくすと笑って、古泉は機嫌よく杯を干す。
「…あなたに会えて嬉しいです」
「はいはい」
いい加減な返事をしながら、俺はもっともっとと古泉の杯に酒を満たす。
飲ませすぎないように、だが、間違っても夜の内に帰るなんて言わせないように、強かに酔わせるつもりで。
古泉も、久しぶりだからと気が緩みでもしていたのか、上機嫌で酒を飲み、その顔を赤くする。
…ああいっそ、こいつが酒を飲んだら前後不覚になって、記憶も残らないような酔い方をするならよかったのにな。
そうしたら、俺だってもっと何か言えただろうし、出来たかも知れないというのに、残念ながら古泉の方が酒は強いのだ。
俺もそこそこに飲まされて、少しばかりふわふわした心地になりながら、
「なぁ…」
と古泉に言葉を掛ける。
少しばかり甘えた声になったが、これくらいなら酔ってるからだと言い訳出来るだろうと開き直る。
「なんでしょうか?」
と応える古泉もにこにこと機嫌がいい。
いい酔い加減だ。
「……やっぱり、俺も綺麗にしてた方が、嬉しいか?」
「あなたはいつも十分綺麗ですよ?」
……そんなことを真顔で言われると流石に照れるんだが…。
「そうじゃなくてだな、」
「綺麗によそおってくださると?」
意外そうに目を見開く古泉に、俺は軽く不貞腐れて、
「…お前がそうしてほしいってんなら、してやってもいい。それくらい、お前には世話になってる、迷惑もかけたから、な」
というのは言い訳だ。
本心は酷く単純なものなので、解説する気にもなれん。
「……どうしてほしい?」
そう尋ねると、
「そうですね……」
ともっともらしく腕を組んで考え込んでいた古泉は、
「…では、時々でどうですか?」
「時々?」
「いつもいつもでは、あなたが大変でしょう?」
「俺は……」
お前のためなら少しくらい、と言い掛けるのをぐっと堪える。
「ですから、毎回じゃなくていいです。そうですね、紋日にだけ、というのはどうでしょうか?」
紋日というのは、七夕だの月見だのといった節句や行事にあわせて設定された、吉原の特別な日のことである。
この日は花代も倍となっていつも以上に高くつくし、特に華やかに装うことを求められるため、女の子達も金の工面などに苦労する日でもあるのだが、
「…それはつまり、紋日には必ず駆けつけてくれるってことか?」
「ええ。…だめですか?」
俺は小さく首を振り、
「……じゃあ、紋日には綺麗にしてやるが、期待するなよ」
「はい、楽しみにしてますね」
「期待するなっつうのに」
そう笑って、俺はもうひとつ古泉に問う。
「…で、今日は泊まってくのか?」
「はい、泊めてください。…もう、大門も閉まった頃でしょうし」
「……仕方ないな」
嬉しいくせに、文句を言うように呟いた俺に、古泉は恐る恐るという様子で、
「……今日は、布団に入れてくださいますか?」
「…変なことすんなよ」
「しませんから、入らせてください。お願いします」
へりくだってみせる古泉に、俺は声を立てて笑った。
「まあ、いいだろう」
「ありがとうございます」
わざとらしく、深く頭を下げた古泉に、
「じゃあ、先に布団にでも入ってろよ。俺はこれ、片付けてくるから」
と言って台を片す。
軽く音を立てて階段を駆け下り、皿やなんかを全部調理場の隅に放り出して、それから、土間の隅で膝を抱え込んだ。
古泉の前ではなんとかなる。
だが、離れた途端苦しさが込み上げてくる。
酔いも何もかも醒めるほどだ。
押さえ込んだ分も心臓が激しく打ち、痛いほどだ。
「…っは…、……くそ…」
この後まだまだ耐えなきゃならんのに、なんだこの様は。
そう自分を嗤いながら、なんとか奮い立たせる。
古泉と一緒に布団に入って寝れる、というのが嬉しいのかどうかは分からんがな。
……今夜も眠れなくなりそうだと思うとため息が出るのは仕方ないだろう。
空手になって部屋へと帰る俺に、
「…バカね」
と言ったのはハルヒだった。
「…お前、客はどうした?」
「今部屋を片付けさせてるところなのよ。あたしはちょっと出てきたって訳。……それより、あんた、何考えてるの?」
そう言ってハルヒは眉を寄せた。
非難しようとしているのか、それとも呆れているのかよく分からん顔だ。
「何って……」
「好きなんでしょ? で、好かれてるってことも分かってるんでしょ? なのにどうして、そこまで我慢して嘘を吐こうとする訳?」
「…俺の勝手だろ」
そう言って通りすぎようとした俺の襟首を遠慮なくハルヒは引っ掴んだ。
ぐえ。
「こ、殺す気か!」
「殺してやりたいわよ! このうすらトンカチ!!」
そう言ってハルヒは俺を睨みつけ、
「好きなくせに…っ、好かれてるって、分かってるくせに……!」
そう言った目に涙が滲んで見えたのは気のせい、だろうか。
呆然とする俺を突き飛ばすように解放して、どかどかと足音も荒く自分の部屋に戻っていった。
…アホか。
好きなくせして、好かれてる相手の所に行くのは我慢してるのはお前もだろうが。
俺はそろりとため息を吐いて部屋に入った。
随分と待たせちまったからだろうか。
古泉は布団の中で既に寝息を立てていた。
俺はその隣りに潜りこみ、そろりと古泉の腕に自分のそれを不自然でない程度に絡める。
「…おやすみ、古泉」
そうとだけ呟いて、俺は目を閉じた。