「ちょっと出かけてきていいか?」 とわざわざ少しばかり薄汚れたかつての仕事着に着替えてから言った俺に、帳簿をめくっていた国木田は意外そうに顔を上げ、 「キョンがわざわざ言うってことは、行き先は大門の外かな? 珍しいね。キョンが外に出たがるなんて」 「ちょっとな」 「例のお客もしばらくは来ないんだろ? なんだったらゆっくりしておいでよ」 「余裕だな」 苦笑する俺にも国木田はにこやかに、 「だって、ここしばらく、キョンがよく稼いでくれてるからね。大事にしなきゃばちが当たるってもんだろ?」 そんなことを、古泉の関係者と分かっている相手の目の前で、しれっとした顔で言えるあたり、こいつも図太い。 「お小遣いでもいる?」 「いや、別に……」 「そんなこと言って、キョンってば馬鹿正直に全額見世に入れてくれてるだろ?」 分かってるんだよ、と国木田は笑って、女の子に渡すような可愛らしい小さな巾着袋に、それこそ本当に子供の小遣い程度の銭を入れ、 「はい、いってらっしゃい。お土産はいらないからね」 と俺に寄越した。 これくらいの小銭しか持たされないのに土産を寄越せと言われた方が困るわけだが、 「何か企んでんのか?」 「心外だなぁ」 と国木田は笑って、 「本当に、たまには労ってあげないとなって思っただけだよ?」 「…じゃあ、ありがたくもらってく」 「うん、気をつけてね」 ひらひらと手を振った国木田にまで、森さんは丁寧に頭を下げて店を出た。 「駕籠でも使いますか?」 と聞かれたので、俺は少し考えた後、 「距離があるなら。大したことないなら歩きますよ。最近、部屋で大人しくしてることが多くて、少々なまってますが、少しくらいなら全然平気ですから」 「では、歩きましょうか。その間に、何かお話でも」 そう微笑んだ森さんはさくさくと歩き出す。 俺が見るからに素人の女性と歩いているのが珍しいのだろう。 見世の格子の内側からちらちらとこちらを見てくる女の子も多いが、声を掛けるようなことはしないらしい。 …それで勝手に誤解されるのと、どっちがマシだろうか。 考えながらもそれで難しい顔にならないように気をつけて、森さんの様子を見てみると、彼女は楽しそうに笑っていた。 俺の視線に気付いたのか、 「すみません」 と言ったが、 「別に謝らなくていいですよ。…そういうところも、なんか似てますね」 「古泉と、ですか?」 「ええ。…あいつも、変なところで謝るでしょう?」 「…あなたにはそうなのでしょうね」 と彼女は微笑し、 「私にはいつだって生意気ですよ」 「そうなんですか?」 生意気な古泉…というのも見てみたい気がするが、とてもじゃないが想像も出来ない。 「あの子も手慣れているように見えるでしょうけれど、あれで多分、初めて人を本気で好きになったりしたものですから、あなたにいいところをみせたくて必死なんだと思います」 と言う森さんの笑顔は、本当に弟のことを想う優しい姉のようだった。 しかし…それなら、古泉は本当に本気だというのだろうか。 疑うというよりも、単純に信じられないような気持ちでいた俺に、森さんは困ったように微笑んで、 「あなたも、人を見る目があるようでいて、不器用な方なんですね」 「えぇ?」 どういう意味だろうかと首を捻れば、彼女は面白がるように、 「違いますか?」 「…人を見る目があるかどうかは分かりませんが…、確かに器用ではないとは思いますよ」 「そうですか? でも、評判でしたよ」 そう言ったということは、俺の部屋に来る前に、国木田かハルヒか誰かに話を聞いていたのだろう。 一体何を吹き込まれたんだか知らないが、 「あまり買いかぶらないでください。俺は普通の…ただの、どこにでもいるような男ですよ」 「そういうことにしておきましょう」 と笑った顔に古泉の笑顔がやはり重なって、胸の中がつっと痛んだ。 今、俺は古泉の様子を見に行こうとしているはずだ。 だが、古泉に会いたいのかは分からなかった。 古泉がどうしているのか知りたい気持ちはある。 しかし、だからと言ってあいつに会ったとして、まともに話せる気はしなかった。 それくらい、まだ混乱している。 自分の気持ちがあまりにも分からないのだ。 会所で森さんが女切手の確認を受けているのを待っている間も、ぼんやりと古泉のことを考えてしまう。 考えて、考えて、それでせめて、自分がどうしたいのかだけでも分かればいいのにと思うが、なかなかままならんものらしい。 「お待たせしました」 と森さんに声を掛けられてもどこか上の空で、 「いえ…」 と答えて歩き出す。 なんとか古泉のことから考えをそらそうとして、大門を見上げた。 大門の外なんて本当に久しぶりだな。 門の中で用が足りるから、出る必要性なんかろくに感じない俺は変わってるんだろうか。 谷口みたいな幇間なんかは、外に気晴らしに出たりもするし、女欲しさに出てたりもするらしいが、俺はそういうところがどうやら人より淡白に出来ているらしい。 というか、毎日毎日女の子ばかり眺めて過ごしていれば、今更そういう欲求なんて湧かないと思うんだがな。 女の子のいいところも悪いところも恐ろしいところも嫌というほど見ているわけだし。 ……やっぱり俺は少しばかりずれてるんだろうか。 首を捻ったところで、 「考え事ですか?」 と森さんに声を掛けられて慌てた。 「す、すみません、つい…」 「いいえ、構いません。…難しい顔をされてましたけど、やはりご迷惑だったでしょうか……」 「いえ、それとは関係ないことですから」 そう言った俺を、森さんはまだ心配そうに見つめていたが、 「…お付き合いくださってありがとうございます」 と軽く頭を下げ、それ以上は何も言わず、聞こうともしなかった。 やはりあしらい方がうまい、と感心しながら、俺は森さんについて歩いた。 そうして歩くことしばし。 大店の中でも問屋が多いらしい界隈に入ったところで、森さんがひとつの店を指差した。 「あれがうちの店です」 「あれが……」 大きく小間物問屋と書かれた看板を掲げた立派な店である。 なるほど、これだけの店をやっていけるなら、あれだけ遊んでも平気なわけだな。 問屋だが、小売もやっているのか、ちらほら若い娘やどこかのおかみさんらしいのが入っているのも見える。 それから、行商をするらしい人間の出入りも多い。 「やっぱり、立派なもんですね」 と言った俺に森さんは微笑して、 「ええ、見ての通り繁盛してますし、大名屋敷の奥向きなどとも取引があるくらいです。ですから、身代が傾くというような心配は要りませんよ」 「はは……」 乾いた笑いを返した俺に、森さんは悪戯っぽく、 「あなたがそんな風に心配してくださるような方だから、あの子も本気で好きになったんだろうと思いますけどね」 その言葉に、ずきりと胸が痛んだ。 何も答えられない俺に、森さんは小さな声で、 「もう少し近づいて見ましょうか」 と言って俺の手を引っ張る。 「そんなことして、気付かれませんか?」 「大丈夫ですよ。今のあの子なら」 「は?」 どういう意味だろう、と思いながら引っ張られるまま店に入ると、店の奥の方に古泉が座っているのが見えた。 何かしているのかと思ったが……あれはなんなんだ? ぼうっと座ってるだけに見えるが…。 「ぼうっと座ってるだけなんです」 ……。 「邪魔ですね」 「邪魔なんです」 ……もしかして森さんは古泉があまりに邪魔だったから、わざわざ俺のところに来たんだろうか。 「どうかしましたか?」 「いえ……」 そう誤魔化した俺に、森さんはどこか呆れたように笑って、しかし優しく古泉を見つめた。 「あの子があんな風になったのは、これが初めてなんですよ」 「え…っと……」 「吉原に通い始めてから、いえ、その前から数えても同じですね。それくらい、あの子は誰にでも満遍なく優しくて、誰か特別に大切な人というのがいなかったんです」 「…それが、俺だと?」 森さんはにっこり微笑んで頷いた。 「少なくとも、あの子があの街で出会った人について、こちらから質問する前に報告しに来たのはあなたが初めてでしたね。それからも、あなたのことばかり話して……」 面白がるように声を立てて笑い、 「あなたを好きになってから、大変そうでしたよ。あなたのことを考えるだけで胸が痛いとか、ちょっと触れるだけでもとても熱く感じるとか、そのくせ、触れるだけでも震えるほどに嬉しいだとか、恥かしいことを逐一言って。…まだ本人が自覚してなかったから、余計にそんな風に過剰に反応してたんでしょうね」 しみじみと呟かれた言葉の内容に、俺は唖然とした。 「……あの、それって、好きってこと…なんですか……?」 「……え?」 首を傾げた森さんの手を引いて店から出た俺は、人目につかない物陰に身を隠し、思い切って尋ねた。 「考えるだけで胸が痛いとか、触れられた場所を熱く感じるとか、顔を見るだけで落ち着かないくせに、…会えないと……苦しい、とか……」 言いながらも古泉のことを考えちまって胸が痛む。 ずくずくと疼くようなその場所を押さえようとした俺の手を、森さんが強く握り締めた。 「本当ですか?」 「え? ……ええ…」 「まあまあ…」 嬉しそうに明るく微笑んだ彼女は、 「それは、古泉のことを考えて?」 「…そう…ですけど……」 「なんてことかしら」 驚きに満ちた声で言いながら、森さんは本当に喜んでいるようだった。 「あ、あの……、これは、本当に……その、好きって、こと…なんですか……?」 「ええ、きっとそうだと思いますよ」 俺が、いや、俺も、古泉を好き…だって? そんなまさか、と思いながら、胸が熱くなる。 顔も熱くて、うわ、なんだこれ。 「古泉を…好き……?」 呟いたら、それだけで痛いほどに胸が震えた。 嬉しいのか泣きたいのかなんだかさっぱりな気持ちだ。 なんだこれ。 本当に、なんなんだこれは。 その場にしゃがみ込みたくなるが、森さんに手を握られていてそれもかなわない。 おまけに彼女はきらきらと顔を輝かせて、 「よかったわ。あの子にも教えてあげなくちゃ」 と嬉しそうに言うので、俺は慌てて、 「ま、待ってください…!」 と止める破目になった。 「…だめですか?」 「か、勘弁してください……」 「どうしてです? 両思いならいいじゃありませんか」 「そ…その、まだ、はっきりとは分かりませんし、それに……い、言うなら、自分で言いますから……」 咄嗟にそう言い訳したのだが、森さんはおかしいとは思わなかったらしい。 「ああ、そうですね。私としたことが、出すぎた真似をするところでした」 と言ってくれた。 「では、古泉の口からいい報告が聞けるのを楽しみにしておきますね」 「…はあ……」 ため息とも返事ともつかない呟きを漏らしておきながら、俺は途方に暮れた。 俺が古泉を好きだって? いや、それについては百歩どころか百万歩譲って認めてもいい。 …古泉は、かっこいいし、それなりに真面目だし、マメだし、……その、なんだ、咄嗟に美点を挙げ連ねようとして困ることがないような奴だからな。 それに好かれて、俺が惚れちまったって仕方がないのだろうと言っておく。 だからって、俺も好きだと返していいのか? ――いい訳がない! だってあいつは、相方の女の子が本気になっちまったからと言って逃げ出したような奴なんだぞ? そうして、何もないような顔をして、他の見世の他の女の子のところに通えるような奴なんだぞ? そんな古泉相手に、本気で好きになったと返すということは、これまでに袖にされた女の子と同じことになるってことだろ? 袖にした女の子に、古泉は見向きもしない。 思い出すのは、俺が古泉を見送りに行く時、恨めしげに古泉を見つめている女の子の姿だ。 古泉は、そんな子に見向きもしないどころか、まるで忘れたような顔しかしない。 その目の前で俺を抱き締めたりするほどに、興味を示さない。 そんな風に、古泉にされたら。 俺のところになんて来てくれなくなって、忘れて、そうしてまた別の女の子のところで、楽しそうに笑って……。 そんな姿を思い描くだけで、ずきずきと胸が痛み、泣きそうになるほど、俺は………古泉が、好き、なのに…。 どうしたらいい? 分からなかった自分の気持ちは分かった。 それなら――出来ることはひとつだけだろう。 |