戸惑うままに



翌朝、俺はそろりと寝床を抜け出して、朝の支度に走った。
結局一睡も出来なかったが、だからと言って眠いというような気もしない。
古泉はあのまま器用に眠り、今もよく眠っている。
俺はざっと自分の身だしなみを整えると、古泉のための支度を整える。
水を運び、鉢を運び、朝粥の膳を運び込む。
そうしてばたばたと動き回っていると、いくらか気も紛れるもので、いつになくきちんと支度が出来たところで、恐る恐る古泉に近づいた。
「古泉…」
そっと声を掛けるが、古泉は身動ぎひとつしない。
また寝たふりか、と警戒しながらもう少し近づき、肩に手を掛けたところでその目が開いた。
「うわ…っ!?」
驚いて思わず、畳一畳分ほど飛び退いたが、この反応はやはりまずかっただろうか。
びくつく俺を古泉はなんでもないような顔で見遣って、
「おはようございます」
と微笑んだ。
その笑みにずきりとまた胸が痛む。
「おはよう…。今朝は、ちゃんと支度出来てるから……」
「ありがとうございます」
そう言って古泉は起き上がり、用意した手水鉢で身支度を整え始める。
その所作が堂に入っていて、やっぱり遊びなれてるよなとしみじみ思う。
そんな奴がどうして、とまた思考が余計な方向に流れそうになるのをぐっと抑え、俺は古泉を手伝う。
顔を洗ったりするのにしても、後ろから袖を持っておかないと危なっかしいからな。
背後からならそう大して恐れることもなく普通に近づけるのに、それがどうして、向かい合って朝粥を食うだけのことになると妙に緊張しちまうんだろうか。
おかげでろくに味も感じられなかった。
去り際に、いつもなら見世の出口、下手すりゃ大門まで見送りに出る俺を、今日は二階の階段口で止めた。
「ここまでで十分ですよ」
「え……?」
「…しばらく、通うのはよしましょうか」
そう言って俺の目を覗きこむ瞳は酷く優しいのに、俺はそれにさえ体を竦ませる。
そんな俺の反応を見たからだろう。
「うん、そうしましょう」
「な…っ、だ、誰もんなこと言ってないだろ…!」
「少しの間だけですよ。あなたが落ち着くまで…と言いたいところですけど、その前に僕が我慢出来なくなると思います。そうですね、精々十日が限度というところではないかと」
「十日も……」
思わず呟いた俺に、古泉は小さくにっこりと微笑んで、
「惜しんでくださるのは嬉しいですけどね、無理はさせたくないんです」
「……すまん」
本当に申し訳ないと頭を下げれば、その頭を優しく撫でられた。
「気にしないでください。僕が驚かせてしまったのがいけないんですし」
「だが、それは……」
俺がこれまでちゃんと考えてなかったからだろう。
言い募ろうとした俺の唇を、指でそっと押さえて黙らせた古泉は、どこまでも優しく、
「手紙くらい、いただけますか?」
「ん…書く、から……これでもう二度と来ないなんて言ったら、許さんぞ…」
「はい。僕も、頑張ってお返事書きますから」
「ああ、そうしたら嫌でも来てくれないと困るな。…お前の字は解読に苦労するし、読めても本当に正しく読めてるのか不安になるんだ」
「すみません」
「…だから、……待ってるから、な」
「はい…」
頷いておいて、古泉は少しの間名残惜しげに俺を見つめていた。
いつもならここで抱き締めるかどうかするところだが、俺がこんな状態だから遠慮したのだろう。
しょげたように肩を落として階段を下りて行く古泉に、ずきずきと胸が痛んだのは、良心が疼いたというやつなのだろう。
古泉が帰ったのだから、俺もこの持て余すような考え事から解放されると思ったのだが、そうは行かないらしい。
布団に戻って目を閉じたが、眠れやしねえ。
布団に古泉の匂いが残ってるのが悪いんだ、と苛立ちながら布団を出て、以前自分が使っていた布団部屋の薄汚れた布団にもぐりこんで、無理矢理目を閉じた。
それでさえ、油断すると古泉のことを考えてしまいそうになるので、必死に関係ないことを考えなければならないほどだった。
…ほとんど病気だ。
そんな調子で、どうにも落ち着かないってのに、気がつくと俺は自分の部屋に戻ってしまう。
そこにいれば嫌でも古泉のことを考えるのに、だ。
「…あの、ばか」
呟くだけでずくりとどこかが疼くように痛む。
その痛みに気を取られて、ぼんやりしている俺にハルヒが発破を掛けたり、長門が心配そうに声を掛けていったりするのだが、それでもどうにもならないまま、三日が過ぎた。
いつもなら、今日あたり古泉が来るのに、今日は来ないのか…。
そう思うだけで痛む胸を押さえてみる。
この胸の痛みは本当になんなんだろうな。
病気ではないと思うのだが、それにしたって酷すぎる。
いつもならせっせと働いているはずの俺が、日がな一日部屋でぼうっとする他なくなるくらいだからな。
そうしていても、誰も文句を言わないほど、俺は酷い顔らしい。
ハルヒにいたってはとうとう、
「鬱陶しい顔を見せるんじゃないわ!」
と言って部屋への出入り禁止どころか、廊下をぶらつくことさえ禁止してくれたからな。
部屋で仰向けになっていると、余計なものがあまり目に入らなくていい。
このまま過ごそうかと自堕落なことを考えていると、不意に、
「お客様」
と声を掛けられた。
「長門?」
驚いて体を起こすと、長門がちょっと顔をのぞかせていた。
「…通していい?」
「ちょ、ちょっと待て」
俺は慌てて身支度を整える。
と言っても、寝乱れていた着物の袷を直し、座りなおすのが精一杯だが。
「よし、通してくれ」
誰だか知らんが、と思いながらそう言うと、長門が顔を引っ込め、かわりに知らない女性が顔を出した。
どこか商家の奉公人だろうか。
きちんとした身なりの、どこかきりりとした凛々しい女性は、服装を改めれば奥女中だと言われても、またどこか武家の奥方だと言われても信じてしまいそうな雰囲気を纏っていた。
「初めまして」
深々と頭を下げたその人は、
「いつも古泉がお世話になっております。私は、古泉の店の奉公人で、森園生と申します」
と名乗った。
「古泉…の……」
ずくんと胸が痛むのを感じながら、俺はその人を見つめ返した。
その人は柔らかく微笑んで、
「それにしても、この吉原というところは女には不便ですね。出入りのたびに一々女切手がいるなんて、中に住んでる人は大変でしょう」
「え、ええ、そうですね」
「私も初めて来ましたけど、この街は本当に綺麗で…でも、だからこそ悲しいところですね」
「…そうでしょうね。でも、住んでいる人間としては、ここの綺麗なところだけ見てもらいたいようにも思います」
そう苦笑した俺に、彼女は優しく、
「では、そうさせていただきますね」
と答えた声も涼やかで、女の子と話すことに慣れているはずの俺も戸惑うばかりだ。
あまりにも違いすぎる。
外の女の人はこういう人もいるのか、としみじみ思いながら、どうしていきなり訪ねて来たのかということが酷く気になり、
「あの…どうしていらっしゃったんですか? まさか、古泉に何か……」
俺が問うと、彼女は不意に膝を進めてきた。
「あっ、あの……?」
「これは、私の一存でお聞きすることなのですが、」
そう言って彼女は俺を見据え、
「古泉のことが、お嫌いですか」
「え……」
「いえ……嫌いでは、ないですよね。嫌いであるなら、古泉を心配するようなことは仰らないと思いますし……」
「それは…」
「嫌いでないなら、どうして、あの子に応えてくださらないのでしょうか」
「……は…?」
正直に言おう。
古泉の関係者だと言われた時、俺は別れろ切れろという話をされるのだろうと思った。
それで当然だとさえ、思っていた。
それなのに、一体どうしてこんなことを言われるのかが分からなかった。
「…別れろと…言いに来たんじゃなかったん、ですか……?」
戸惑う俺に、彼女は大きな目をぱちぱちと瞬かせ、
「どうしてそんなことを言う必要があるんですか?」
「え……いえ、てっきり、そういうことだと…」
「そんなことをする必要はありませんね。むしろ私は、あなたに感謝してます」
と彼女は柔らかく微笑んだ。
その笑い方がどことなく古泉のそれに似ている。
「あなたのおかげで、あの子の字も少しずつマシになってきてますし、あの子も人生経験を積めているようですからね」
そもそも、と彼女はどこか悪戯っぽく微笑み、
「あの子に吉原通いを勧め、半ば強引に送り出したのは私なんです」
「ええ?」
なんでそんなことを、と戸惑う俺に、彼女はしれっとした顔で、
「あの子に人生経験を積ませたかったんです。それには、こういう場所が一番でしょう? 色々な人間がいますし、様々な形での出会いがあります。綺麗なところもそうでないところも、楽しいこともそうでないことも」
「…女で身を持ち崩すとは思わなかったんですか?」
「それほどやわな子じゃありませんから」
と彼女は自信たっぷりに答えた。
「実際、女に溺れることはありませんでしたし、今も、節度は弁えているようですから」
「はぁ…」
じゃあどうして、なんのために来たのだろうかと首を捻る俺に、
「今日、私が訪ねて来たのは、あなたにご挨拶をしておきたかったからというのがひとつ。それから、このところ古泉の様子がおかしいから、その理由を知りたくて、お邪魔しました」
「古泉の様子が……?」
「ええ。…随分と落ち込んでいますよ。あなたに嫌われてしまったとかなんとか、鬱陶しいくらいに」
ズキズキと痛んだのは頭の方だった。
あのばか。
なんてことを言ってんだ。
森さんはくすくすと笑って、
「私の母があの子の乳母をしていたおかげで、あの子も私には気安くしてくれるんです。そうでなければ、そんなことなんて言えませんよ。……そうだ」
とてもいいことを思いついたとばかりに彼女は手を叩き、
「あなたも一度見に行ってみませんか? 店でのあの子の様子を」
と提案した。