客を前にしたら、その客のことだけを考えるのだとハルヒがその仕事意識について語ったことがあった。 他にどんなに気になることがあったとしても、好いた人がいたとしても、客を前にしたらその時だけは、世の中に他に何もないとばかりにその客のことだけを考えるのだと。 そうしたら自然に客も自分のことを、少なくともその座敷の間だけは思ってくれるし、思いが通じ合えば分かり合えることもあるのだと。 俺もそうしたいと思った。 客と言ってもただひとり、古泉しかいないし、それならばあれこれ気に病むようなことも少ないだろうと高をくくっていたってのに、俺は今、古泉のことを考えることさえ出来ない。 いや、広い意味で言えば古泉のことを考えてはいる。 むしろ、そればかりだと言ってもいいかもしれない。 だが、その内容はといえばどうして古泉が俺なんかを好いてくれたのかというその疑問ばかりで、本来考えるべきことである、古泉がどうしたいのかとか、古泉をもてなすためにどうするべきなのかなんてことは、欠片も考えられない。 思い出すように一瞬それが浮かんできても、深く考える前にあぶくのように消えてしまう。 それほどまでに、今の俺は狼狽していた。 古泉を、信じていないわけではない。 古泉が無理強いをするなんて、そんなことは考えてもいない。 だが、どうしてという戸惑いばかりが溢れてきた。 どうして俺みたいな、平凡な男を好きになったりしたんだ。 しかも、こんな見世で、目の玉が飛び出るような大金まで払うほど入れあげるなんて、正気の沙汰とも思えない。 いっそ男の方が好きだとかそういうことなら納得出来たと思うが、古泉は女の子といくらでも浮名を流していたし、聞いた話では陰間の趣味はないとも言う。 それなのに、どうして。 恐る恐る顔を上げると、古泉は丸く明るい月をひとりで眺めていた。 その顔は端正で、青白い月の光に照らされていると、この世のものとも思えないほど綺麗に見えた。 俺なんかより、よっぽど綺麗だ。 それなのに。 どうして。 俺なんかを。 「…すみません」 俺と目を合わせないようにしながら、古泉は小さな声で言った。 その声を聞くだけで体が怯えるように震えた。 「僕はよっぽどあなたを驚かせてしまったんですね」 言いながらも、顔はこちらに向けない。 それが、俺のためなんだと気付くまでに少しかかった。 確かに今、古泉と目が合いでもしたら、それだけでも余計にびくつく気がした。 それくらい、今の俺はおかしい。 「ずっと、本気で言っていたんです。少しくらい、あなたに通じているとばかり思っていました」 「…すまん……。俺は、その、…恐ろしく鈍いんだそうだ……」 「そのようですね」 と笑ってくれてほっとするってのに。 「でも僕は…あなたのその鈍さも含めて、……あなたが、好きです」 俺を驚かせないようにか、たっぷりと間を置いて告げられた言葉にも、びくついた。 なんだ、この感覚は。 怯える俺を見ないようにしながら、古泉はひとりで杯に酒を注ぎ、飲み干して行く。 「…飲み過ぎると、毒だぞ」 なんとかそうたしなめた俺に、古泉は困ったように笑った。 「飲ませてください。大丈夫です。お酒には強いので。…それに、少しくらい酔わないと、辛いんです」 切ない声にずきりと胸が痛む。 「辛いって……」 「あなたに嫌われてしまったのに、辛くないはずがないでしょう?」 「嫌ってなんか…」 「ないですか?」 その言葉と共に今度こそ見つめられ、びくりと竦みあがる。 怖い、と、そう、感じたんだと思う。 胸は早鐘を打ち、寒くもないのに体が震える。 「…仕事だからと言って、無理をしなくていいんですよ」 そう笑った古泉の笑みは、どこか自嘲するような痛い笑いだった。 そんな顔をさせたいわけじゃないのに、俺の体は蛇に睨まれたカエルのようになって動けない。 それでも、と俺は着物の裾を握り締め、ほとんど睨むような格好で、古泉を見つめ返した。 「嫌ってなんかない。だから、酒はほどほどにしろ。体を壊しでもしたら、どうする」 「そうしたら、当分こちらにも来られませんから、あなたにとってもいいでしょう?」 「…っ、馬鹿言え」 俺はぐっと奥歯を噛み締めるほどに力を込めてなんとか立ち上がり、ずかずかと古泉に歩み寄る。 そうして、その手から杯と銚子を奪い取り、 「お前みたいな上客、誰が逃がしてやるか」 と唸ってやる。 全く可愛げも何もあったもんじゃないが、古泉は小さく笑ってくれた。 「…本当に?」 「ああ」 「僕があなたを好きでもいいんですか?」 「ああ」 「…こんなに震えているのに?」 そう言った手が、俺の手首を掴む。 酒の入った銚子を持っているせいで、暴れることも出来ないが、俺の手はかたかたと震えていた。 「これは……」 「僕はそんなに怖いですか?」 「こ、怖いわけあるか! お前なんか…っ」 「ではどうして震えているんです?」 「知らん…っ、俺にも、分からん…!」 そう言って、いやいやをするように首を振る。 ああ、まるで子供だな。 自分で自分に呆れてもどうしようもない。 古泉もさぞや呆れていることだろうと思ったが、優しく笑っていた。 「ねえ、もしかして、初めてなんですか?」 「…は……?」 「誰かに好きだなんて言われたこともなかったんですか?」 「……」 どうだろう、と俺はしばし考え込んだ。 ……そうかも知れん。 そりゃあ、友人としてだとか家族としてだとかあるいは冗談でなら言われたことはある。 しかし、本気で好きだと言われたことはないんじゃないか? 「……初めて…かも、知れん…」 「それにしても、ここまで怯えなくてもいいと思うんですけどね」 困ったように笑っておきながら、古泉は手を離してくれない。 触れられたその場所が酷く熱いように感じられて、余計に怖くなる。 「古泉…手……」 「…すみません」 謝ってるくせに、離してくれない。 「…離せよ」 「嫌です」 「嫌って……」 珍しいほどはっきりした言葉に、戸惑うしかない。 「離したら、逃げていってしまうんでしょう?」 そう言って俺を見つめる瞳こそ、子供みたいだった。 「…逃げないから」 「嘘です。…こんなに震えてるのに……」 「逃げない。約束する。だから手を離して、これ、どこかに置かせてくれ」 と銚子と杯を軽く振って見せると、古泉は渋々と言った様子で手を離してくれた。 台の上に銚子と杯を置いた俺は、しげしげと手首を見つめた。 古泉に掴まれていた間は酷く熱くて、火傷でもしたんじゃないかとさえ思えたくらいだったのだが、こうしてみるとどうということもない。 掴まれていた跡さえないってことは、そんなに力もこもってなかったんだろう。 ほっと息を吐きながら、同時に覚悟を決めて、古泉に向き直る。 まだ胸が痛いほどに脈打っていたが、さっきよりは少しマシになったような気もする。 そうだ、相手は古泉で、これまでもずっと俺を好きだったと言うのなら今更何が変わるわけでもないだろう。 怖がるだけ馬鹿馬鹿しいと自分をなんとか納得させながら、俺は古泉を見つめ返した。 どこか疲れたような、やさぐれたような顔をした古泉に胸が痛い。 俺がこんな風にしちまったのかと思うとぞっとした。 「…いつから……?」 俺が小さな声で問うと、古泉は困ったように微笑んだ。 「最初は、そういうつもりじゃありませんでした。ただ、僕は同年代の友人が少ないので、そういう意味で仲良くなれたらと思っていたくらいです。でも、ここに通って、あなたと会う度、あなたに惹かれていったんです」 「……俺は、話がうまい訳でもないし、鈍くて、気も利かないのに…?」 「あなたは話し上手ですよ。それに聞き上手でもあります。どちらも、簡単なようでいてとても難しいことではないでしょうか。…それに、あなたはとても優しいでしょう? ……それで僕は…」 「…俺の優しさなんて、しょせんまやかしの、作りもんだろ。それを一番よく知ってるのはお前のはずじゃないか」 「本当に全部作りものですか?」 「…ああ」 「嘘ですね」 そう古泉は笑った。 「あなたは自分で思っているほど器用じゃありませんよ」 「な……っ」 「僕の心配をしてくださったりするでしょう? あれも全部打算だとは言わせませんよ」 「…勝手にそう思っとけばいいだろ」 「ええ、勝手にします」 そう言った古泉が、俺を半ば強引に抱き寄せた。 「ちょ…っ」 「少しだけ…」 低い囁き声に体が硬直する。 かちんこちんに固まった俺をすっぽりと抱き締めて、 「…どうか、怖がらないでください。嫌わないでください。……あなたが、好きなんです……」 切々と囁かれる言葉に、ぞくりとした。 寒気に似た、しかし、どこか違うもの。 「これまでと同じです。決して、無理強いなんてしませんから……」 「わ、かった、から…離せよ……」 「…嫌ですか? 前は許してくれたでしょう?」 背後から抱き締められているせいで古泉の顔は見えない。 ただその声があまりにも悲しく、今にも泣き出しそうに響くので、 「だ、から、前は…、その、…本気だと思ってなかったから……」 「本気だと知ったら、怖くなりましたか?」 「こっ、怖くはない! 怖くはない……が…」 分からないんだ、と呟いた俺の声も相当に情けなかった。 「分からない、とは…?」 「お前がどうしたいのかも分からんし、自分が…どこまでならお前のその、好きだとかなんとかいうのを、許容出来るのかも分からん。だから、どうしたらいいのかも、分からなく、て……」 どう言ったらいいのかさえ分からなくなって、言葉に詰まった俺の頭を、古泉は胸が痛むほどに優しく撫でてくれた。 「…すみません、僕が急かしすぎてしまったんですね。……ゆっくりで、いいんです。分からなかったら、分かるまで待ちます。今は嫌でも、嫌でなくなってくれたら嬉しいと思いますし、そうでなくてもいいんです」 「…すまん……」 「いえ。…それより、どうですか? こうしているのも、お嫌ですか?」 「……分からん…。ただ、少し…落ち着かん……」 「では、少し離れていましょう」 そう言って惜しげもなく離れて行った体温が、少しばかり、錯覚めいた物悲しさを残して行く。 「何かつまみますか?」 「…いい。なんか、腹いっぱいだ」 それくらい、混乱している。 「では、休みます?」 その言葉にまたびくりと体が震えた。 古泉と休むってことは、ひとつ布団で寝るということだろう。 それを俺は許容出来るのか? たとえ古泉がこれまでと変わらず、何もして来ないとしても、それを許せるだろうか。 また、それを許したことで、それ以上のことを許したなんて解釈されたら堪らんぞ。 ぐるぐると考え込む俺に、古泉は苦笑して、 「では、あなたが布団を使ってください。僕は座ってでも眠れますから」 「え……?」 何言い出すんだ、と訝しめば、古泉はあくまで優しく、 「僕と一緒ではあなたが休めないでしょう? でも僕は、せめてあなたと一緒の部屋で寝たいんです。決して不埒な真似はしませんから、許してくださいませんか?」 「…なんで、そんな……」 「言ったでしょう? …あなたの気配があるから心地好いんです。あなたと一緒だと、よく眠れるんですよ」 「…家で寝た方が寝心地がいいんじゃないのか? 少なくとも、座って寝るよりは……」 「それとは違うんですよ、きっと」 よく分からんことを言って、古泉は立ち上がると、 「休みませんか?」 と言うので、俺は大人しくそれに従うことにした。 正直、まだ混乱していて、どうしたらいいのか分かっていなかったから、指示されるままに動く方が楽に思えたのだろう。 のろのろと寝間に入った俺を、古泉はそっと布団に誘導し、俺だけを布団に寝かせて、薄い上掛けを掛けてくれた。 「お前は……?」 「僕は大丈夫ですから」 そう言って古泉はすとんと窓際に腰を下ろした。 そのまま寝るつもりらしいが、 「…本当に、いいのか?」 「ええ。…それとも、一緒に寝てもいいですか?」 「……」 「それはちょっとまだ嫌みたいですね」 自嘲するでなく、小さく笑った古泉は、 「そのうち許していただけると嬉しいです」 と言ってから、そっと目を閉じた。 「おやすみなさい」 「…おやすみ」 そう答えはしたものの、眠れる気はしなかった。 古泉を警戒していた、というのも少しはある。 だがそれ以上に、考えることで頭がいっぱいだった。 俺は一体どうしたいんだろう。 古泉は一体俺に何を求めているんだろう。 そんなことを考えているうちに、穏やかな寝息が聞こえ始める。 古泉は寝入ったらしい。 人の気も知らないで、と憎らしくも思うくせに、そうやって古泉が安らげるならそれでいいんじゃないかとも思う。 …単純にこいつの求めるものが、安らぎだのそういうことならよかったんだ。 それなら俺はなんだって出来た。 それが理由なら、そうだな、たとえ体を求められても、応えられたんじゃないかと思う。 そういうもんだと割り切れただろうし、そういうことのために体を重ねるというのが、当然のことのようにも思える環境に俺は育ったからな。 だが、古泉の求めるのは、そういうことじゃないらしい。 俺を好きだと言う。 誰かを好いてみたい、恋い慕ってみたい、と古泉は言っていた。 そのくせ、吉原には寛ぎに来るのだとも。 どちらも本当だとしたら、寛げるような相手を好いてみたいということだったんだろうか。 それが、俺だと? まるでタチの悪い冗談みたいだと笑いたくなるのに、そうもいかないほど、古泉は本気だと教えてくれた。 この街で玄人の女の子に本気になるのは馬鹿だ。 笑い話にもなりやしない。 だが、俺は妓楼関係者でこそあるものの、この道については玄人なんかじゃない。 何も知らない素人だとまでは言わないが、玄人とは明らかに違う。 手練手管もないし、床の技だって知りやしない。 そんな俺に本気になったというあいつは馬鹿なんだろうか。 本気になられた俺は…どうするべきなんだろうか。 これが、女の子なら簡単な話だ。 本気になった客には、ほどほどに冷たくして燃え上がらないようにしてやるか、あるいはそのままつかず離れずで長く通ってもらい、最終的には身請けしてもらうか。 古泉の場合なら、今までの扱いが扱いな分、燃え上がらないようにと冷たくしてもあまり意味はないだろうから、このままさも自分も本気であるとばかりに接して、今の調子で通ってもらうのが最善となることだろう。 だが……俺は、男だ。 女の子じゃない。 気に入られても俺じゃ子供も産めないし、男妾として囲われるのは嫌だという矜持くらいはある。 そもそも俺は別に年季奉公をしてるわけでもないから、自由になろうと思えばすぐにも動ける身だ。 仕事があって待遇も悪くないからこうして働いてる、ただの勤め人に過ぎない。 だから身請けなんてのもない。 行き着く先も見えやしないのに、どうするべきかなんてことは考えられもしない。 じゃあ、どうしたいかを考えるべきなんだろうが、それこそさっぱりだ。 自分で自分が分からん、と布団の中で丸くなったまま、ぼんやりと夜を明かすしかなかった。 |