謎かけめいた



俺は裏地にもつぎはぎが一つも当たってないような小奇麗な着物を着て、見世の中でも一番上等な、ハルヒの部屋を訪れた。
時間帯は、昼見世の終った直後の一番暇な頃である。
ハルヒは長門に琴を教えているようだったが、俺が入るとその手を止めて、
「あんたから来るなんて珍しいわね。どうしたの?」
と聞いてきた。
「少し聞きたいことがあって来た。邪魔なようならいいんだが……」
「大丈夫よ。ちょっとさらってただけだから。…有希、ちょっとひとりでおさらいしてなさい」
大人しく頷いた長門がぱらぱらと琴を爪弾き始めるのを聞きながら、俺たちは隣りの部屋の反対の隅に移動した。
「で、相談は何?」
「相談っていうか…質問なんだがな」
俺はちょっと躊躇ったものの、今更躊躇っても仕方がないと腹をくくり、
「……登楼しておいて、何もせずに帰る客って、いるか?」
と小さく問うと、ハルヒはきょとんとした顔で首を大きく斜めに伸ばし、
「何もせずにって、同衾もせずって意味?」
「う…そう、だな…」
軽い羞恥を覚えて顔を赤らめると、ハルヒはむしろ面白がるように笑った。
「そりゃ、色んな客がいるから、そういう客もいるわよ。というか、あたしの目に適うような客っていったら、そういうのの方が多いかも知れないわ。座敷で遊ぶことを楽しめたりするようなお客じゃないと、あたしは面白くなくて嫌いだし。で、そういう風に粋が分かるような洒落たお客は、かつかつしてないから」
「そうか」
じゃあ、そういう客がいてもおかしくないんだなと安堵したのには訳がある。
俺の唯一の客である男、古泉が本当に何もして来ないのだ。
通い始めてから早数月。
その間せっせと通いつめ、土産も欠かさないということはかなりの金を使っているはずなのだが、せっかくしつらえた上等な三つ重ねの布団も二人で雑魚寝するためにしか使っていない。
夏のうだるような暑さも少しずつ和らぎ、気のせいか風が冷たくなり始めているから、羽根の布団は大いに役に立ってはいるのだが、肌寒いという口実で体の距離は近づいてもそれ以上のことにはならない。
俺としてはそれで別にいいはずだってのに、こうも何もないと本気で訝しくなってくる。
古泉は一体何者なんだとか、何を考えてるんだとか、な。
数月が過ぎても、特に何も変わりはしない。
身を寄せ合って静かに酒を酌み交わし、ぽつぽつと四方山話なんかをして、それから場合によっては次にいつ来るかなんて話もして、眠くなったら二人して布団にもぐりこんで寝る。
…それだけである。
それだけのために古泉が一体どれほど支払っているのかなんて、考えるのも恐ろしい。
「でも、最近は相場を分かって来てるみたいよ? まあ、多分国木田が教えてやったんだろうけど」
「そうなのか?」
「少なくとも、今はあんたがあたしより花代をもらってるなんてことはないから安心しなさい」
「…ちょっと待て。今はってことは、前はそうだったってことか?」
「そうね……」
とハルヒは少し考え込み、
「一番最初、無理言ってあんたを相方にした頃は、一晩の花代があたしより高くついてたわ」
「……嘘だろ…」
呆然とする俺に、
「国木田もあれで堅実っていうか、欲がないでしょ? だから、それとなくもう少し安くていいって教えたみたいよ? ま、その方が妥当よね。ほどよい金額を適当な間隔で落としてくれた方が、一時にぱっと使って消えられるよりもありがたいし」
あのバカ…と唸る俺に、ハルヒは笑う。
「いいじゃない。一途で」
「一途な奴はあんなに見世を変えんだろう」
「あらでも、あの頃から、古泉くんは一度に二人の女の子のところに出入りするようなことはしてなかったわよ?」
「それは…そうだが……」
「一途で合ってるみたいね」
得意そうにハルヒが言うのを聞いて、なんだかむっとした。
古泉がバカがつくほど一途で、だからこそあんな馬鹿げた真似をしたんだということを知っているのは、俺くらいだ。
なのに、そんな風に言われるとなんだかむかつく。
「ふふ、あんたも仕事をちゃんとやってるみたいでほっとしたわ」
とハルヒは俺の鼻先をつまんだ。
なんだよ。
「誰だって、自分の客について他の子にあれこれ言われると腹が立つものよ。客が上客なら特にね」
「そんなもん、お前を見てりゃ分かる」
何しろハルヒときたら気に入ったやつしか部屋に上げないし、それくらいに扱ってるようなお気に入りの客について誰かが何か余計なことを言おうものなら、あの重たい衣装にも構わず大立ち回りをやるような女だからな。
片づけだなんだで、何度苦労したことか。
まあ、それくらい情が深いからこそ、好かれるんだろうがな。
「それから、何にもしてこない客についてだけど、遊び上手とは違うのもいるわよ」
え、と顔を上げた俺に、ハルヒは珍しくも目をそらしながら、
「…本当に、あたしを好きだって言ってくれてる奴は、逆に何もしないわ。ばかじゃないのって言っても、何をしても、ね」
「……なるほど」
納得が行ったのは、ハルヒの客でそういうのがいることを思い出したからだ。
確かあれは、南蛮渡来の品を扱っている珍品好き、新しいもの好きの店の若旦那だったはずだが。
「確か、身請けがどうのって言ってたな」
「あたしから一蹴してやったけどね」
「なんでだったんだ?」
「…そんなもん、決まってるでしょ」
不貞腐れたような顔でハルヒは言った。
「商家の女主人なんてもんじゃ、あたしは嫌なの!」
単純明快でハルヒらしいといえばハルヒらしいが、らしくない気もする。
南蛮渡来の珍品を扱うような大店なら、ハルヒだって切り盛りして楽しいだろう。
あの若旦那は少しばかり頼りないところがあるから、ハルヒが横でやいのやいの言って丁度いいって気もする。
それなの断ったってことは、
「別にこの見世はお前なしでも心配ないと思うがな」
「なに言ってんのよ。そんなこと言うなら、一日失踪してやるわよ?」
「それはやめてくれ」
いくらうちの見世がゆるくても、太夫が失踪したなんて言ったら大事になるだろ。
「あたしがいなきゃだめでしょ」
「…ああ」
「だから、年季明けまで待つ根性があるならって言ってやったわ」
「……って、待てよ。お前の年季明けって随分先だろ」
「そうね」
「若旦那は今が適齢期だろ」
「そうよ。だから何?」
「だからって……」
いや、やめておこう。
こんなことは俺が言うまでもなく、ハルヒが一番よく分かってることだ。
それに、
「あの若旦那なら、他のどんないい縁談でも突っぱねて、お前を待つような気がするな」
「……そうかしら」
呟いたハルヒの声はどこか頼りない。
「そうだろう」
「…そうだったら、見直してやってもいいわ」
惚れ直して、の間違いじゃないか?
――とは言わずに置いた。
俺も命は惜しいからな。
ともあれ、俺はハルヒへの質問を終えて自室に戻ったわけだが、それでもまだ釈然としないものが残る。
古泉は一体どういうつもりなのか、ということだ。
ハルヒに聞いたから、とりあえず、遊びのつもりで来ていても、女の子と同衾しないような客がいるってことは分かった。
しかし逆に、遊びのつもりでないからこそ同衾出来ないというのがいることも分かった。
それでは古泉はどうなのか、ということが問題だ。
遊びのつもりで来ていて、俺と話してただ寝るだけで満足しているからそれ以上のことにはならないということならいい。
だが、本気だとしたら?
そんなまさか、と思いながら、どこか否定しきれないのは、あいつがあまりにも熱心に、俺に向かって好きだのなんだのと囁くからだ。
あいつの物言いは全部が全部本気のような、逆に何もかも全てが演技のような、非常に分かり辛いものだから困る。
女の子の嘘や二枚舌に慣れてはいても、男のそれには慣れない俺だから、それをうまく見抜ける気もしない。
だから分からない。
分からないのは自分の気持もだ。
古泉が手を出して来ないことを不満に思っているつもりではないのだが、はっきりしろとせっついてやりたいような気はしている。
だが、だからと言って抱かれたいわけではないのだ。
それはそれ、やっぱり俺も男だからな。
そんな真似をしたいなんて思うほど煮えた頭はしていない。
……ああ、もしかしたら、俺も古泉と過ごすのが心地好くなってるのかも知れないな。
だから、それが変わってしまうのが恐ろしいのかも知れない。
そう思いながら、俺はぼんやりと窓の外を眺めていた。
格子越しに見える空はいつの間にか薄暗くなり、明るい月が見える。
今夜は十五夜で、この吉原でも月見であちこち盛り上がる。
当然、古泉は来ると約束していた。
「…もう月が昇っちまったぞ」
不貞腐れるつもりはないが、そう、少しばかり不満げに響く言葉を漏らしたところで、道に古泉の姿を見つけた。
あちらも俺に気付いた様子で、嬉しげに手を振るが、そんな風にはしゃいで見せるのはどこか癪で、俺はふいと顔を背けた。
ややあって、俺の部屋に上がって来た古泉は、いつものようににこやかで、
「今日はお月見ですからね。色々用意してきたんですよ」
と荷物を広げ始める。
「何を持ってきたんだ?」
「うちのねえやのお得意の月見団子と、ちょっとしたお弁当。それから、月見のためにと思って、小さな飾りを」
飾り?
首を傾げた俺の前で、古泉は小さな包みを手に窓際に進み出る。
そうして窓枠にしつらえたのは、手の上に乗るほど小さな月見道具の一揃えだった。
三方には綺麗に月見団子が盛られ、すすきもきちんと飾られている。
「見事な細工だな」
「簡単なものですよ。僕が作れたくらいですからね」
「お前が?」
驚いて目を見開いた俺に、古泉はくすぐったそうに笑った。
「指先はそれなりに器用なんです」
「字は汚いくせに?」
と何度もその酷い鉄釘流を見たことがある俺が笑って言うと、古泉は気を悪くするでなく笑みを深め、
「ええ。どうしてか字は上達しませんけど、簡単な細工くらいは出来るんですよ」
「面白い奴」
「…お気に召しましたか?」
「ああ……そうだな」
小さく笑った俺に、古泉は安堵の息を漏らす。
なんだよ。
「いえ、今日はご機嫌が麗しくないのかと思っていたものですから」
「機嫌は別にいつもと変わらん」
「そうですか? …下から手を振っても、応えてくださらなかったじゃないですか」
「そんな恥かしいまねが出来るか」
とまた顔を背ければ、古泉は小さく声を立てて笑った。
「照れ臭いですか?」
「ああ」
「でも僕は、あなたが手を振ってくださったら、それだけでも嬉しくて、天にも昇る心地がすると思いますよ」
「あほか。お前は一々言うことが大袈裟すぎる」
「本心なんですけどね」
そう笑う顔からはやはり、本当とも嘘とも読み取れない。
それがどこか悔しい。
「…なあ、古泉」
「なんでしょうか?」
「……お前、どこまで本気なんだ?」
「どこまで…とは?」
素知らぬ顔で首を傾げる様さえ、憎らしいほど様になってやがる。
くそ、と毒づきたくなりながらそれを抑え、簡潔に問う。
「お前の言葉の、どこまでが本気でどこからが冗談だ?」
「僕はいつでも、ほどほどに本気ですよ。冗談ならそう言いますし、そうでないのに冗談だと言って誤魔化した覚えもありません」
「…本当に、か?」
「ええ」
そう言って俺を見つめた瞳が、見たこともないほど真摯な色をしていた。
真っ直ぐすぎて怖いような視線に体が竦む。
びくつく俺に、しかし、古泉はすぐにはその視線をいつもの柔らかなものに戻そうとしなかった。
「僕は最初から、本心で語っています。疑ったのはあなた…でしょう?」
その言葉が何故だかずきりと胸に突き刺さった。
「…俺は……」
「仕方ないとは思いますけどね、」
苦笑したその目はもう柔らかい。
さっきまでの険のあるような目つきなど忘れたようですらある。
しかし、そうじゃないんだと分かった。
あの怖いほどの真っ直ぐさを隠しているだけに過ぎないのだと。
「あまりにも本気にしてくださらないから、少しばかり傷ついてもいたんですよ?」
冗談めかして口にされる言葉さえ本音なのだと、思い知らされた。
「ああほら、そんな顔をしないでください。今夜は月見です。ふたり、ゆっくりと月を愛でましょう。…ね?」
そう言って肩を抱かれ、反射的に、
「や…っ!」
と声を上げ、その腕から逃れていた。
やっちまったと思いはしたがもう遅い。
古泉の傷ついたような顔を見ても、ろくな言葉も出なかった。
「…ご……ごめんなさい…」
なんとかそう謝ったものの、それは震えていたし、その言葉も、俺のそれとは思えなかった。
「気にしないでください。僕がいけないんですから」
悲しそうな声でそんなことを言った古泉は、自分で杯に酒を注いで一気に飲み干す。
「…どうか、信じてください。あなたに無理強いするつもりはありませんから。ただ僕は、あなたが好きなんです。…それだけ、なんですよ」
その言葉がじくじくと胸の中で痛むのに、俺は何も言えず、部屋の片隅で震えるしかなかった。