七月七日は誰もがよく知る七夕である。 この日も吉原ではあれこれ行事があり、女の子たちは新しい衣装の仕度やら何やらに忙しくしていたのが、当日になってやっとほっとひと息吐けるというところである。 俺はと言うと、他の女の子と違う複雑な事情の上で客を取っているわけだから、こういう時も少しばかり勝手が違う。 金の無心やなんかをするまでもなく、七夕のためにと言って金は届けられているし、それで新しい衣装も簡単に拵えられた。 七夕だからと飾りなんかの用意は別に届けられ、まさに至れり尽くせりである。 勿論、俺の唯一の客である古泉は今日も駆けつけてくると二日ばかり前に息巻いていた。 …だから通い過ぎだというのに、人の話を聞かんやつめ。 呆れながらでも、こういう賑やかな行事の時に、毎度欠かさず来てくれるのはありがたいもので、流石にそういう時は俺も古泉の訪いを楽しみにしていたりするのだが、今日はひとつばかり企みがあって、俺もいそいそと準備に精を出していた。 古泉はいつものように、夜見世が始るなりいそいそとやってきた。 「こんばんは」 「よう、来たな」 いつになく、俺がちゃんと迎えたからだろう。 古泉はどこか驚いたような顔をしながら、 「これ、お土産です」 と言って抱えていた包みを寄越した。 「水菓子か」 水菓子っていうのは、平たく言えば要するに果物のことだ。 瑞々しい桃の実が、目にも涼やかな薄衣に包まれていた。 「お好きですか?」 「阿呆。こんなもんが簡単に口に入ると思うなよ。むかーし誰だかがもらった時、おすそ分けにって小さいきれっぱしをもらったっきりだ。小さすぎて味もへったくれもなかったしな」 「おや、ではこれはどうしましょうか」 包みの中には桃が二つきりしかない。 が、まあ、なんとかなるだろう。 「一つだけ、分けてやってもいいか?」 そう頼み込むと、古泉は快く許してくれた。 「いいですよ。あなたに差し上げたものですから、あなたのよいようになさってください」 そう笑顔で言う古泉は、結構心が広い方だと思う。 あれだけ酷い扱いを受けたにも関わらず、なんでもないような顔でそう言えるなんてな。 俺は少しだけ見直してやってもいいような気分になりながら、桃をひとつ、手に取った。 「代わりに、こっちは二人で分けような」 「いいですね。あなたと二人で半分こですか」 「別に俺が三分の二でお前が残りでもいいが」 少しばかり意地の悪いことを言ってみたつもりだったのだが、それくらいどうってこともないらしい。 「構いませんよ? でも、それならいっそ、僕の手から食べてもらいたいですね」 「変態みたいなこと言うな」 そう笑い飛ばしておいて、俺は古泉に、 「で、桃ってのはどう食べるんだ?」 と尋ねた。 「僕が子供の頃は、このままかじりついてましたけど、そうすると結構汁が零れてしまうんですよね」 「子供の頃から桃って……いや、何も言うまい」 考えるだけ無駄だ、と頭を振れば、古泉は笑って、 「すみません」 と短く謝っておいて、 「今は普通に、皮を剥いてから適当に切り分けて食べてますよ。中に硬い種が入っているので綺麗に割ることは出来ないんですけどね」 「じゃあ、小刀でも借りてくるか。ついでにひとつおすそ分けしてくる」 と言って立ち上がった俺に、古泉は柔らかく微笑んで、 「いってらっしゃいませ。お待ちしてますね」 と見送った。 そのいかにも寛いだ感じに、なんとなくこっちがくすぐったくなる。 なんだろうな、まるで誰かが待つ家から送り出されるような気分だ。 俺の家は生まれた時からずっとここだ。 お袋は飯炊きだったが、それでもここで育つ以上、子供は女たちみんなの子供であってみんなに可愛がられて育った。 だからお袋が忙しかろうが親父の顔を知らなかろうが別に寂しくなんかなかったのだが、それでも…なんだろうな、あんな風に一人に見送られて、そいつのところに帰るのかと思うと、面映ゆいような不思議な気分がした。 むず痒いと思いながら調理場に下りた。 調理場とは言っても、働く人間の分を作る程度の小さくてちゃちなものだ。 部屋で出す料理は他所に頼む仕出しだからな。 だから、こうして女の子が忙しくしてる時間ってのは案外ここも人気がない。 たまたま国木田がいたので、 「小刀借りてくぞ」 「なに、キョン。もしかして、心中立てでもするの?」 「するわけないだろ」 あほかいと笑い飛ばして、小さいがよく切れそうなのを選んで引っ張り出す。 それから桃を国木田に渡し、 「古泉から。小さいが、まあ、女の子たちで分けるくらいの量はあるだろ」 「ううん、一口ずつって感じかな。まあ今夜は他にも色々お土産でもらってる子も多いだろうし、間に合うと思うよ。ありがとうね」 「礼ならあいつに言ってくれ。俺はもらっただけだ」 と返して、俺は部屋にとって返す。 「待たせたな」 声をかけて襖を開けると、古泉はいつかのように、窓枠にもたれるような格好で寝ていた。 女の子を待つのに寝たふりをして待つ奴は結構いるが、こいつの場合本当に寝ちまうのがな…。 さぞかし女の子を怒らせたことだろう。 苦笑しながら俺は古泉のすぐ側に膝をつき、 「古泉、桃、食わないのか?」 と声を掛けるがぴくりともしない。 「古泉」 顔を近づけて、じっとその顔を観察する。 長くて濃いまつ毛。 色が白く、肌理も細かな肌。 薄く色付いた唇の形も品よく、人形めいている。 俺の場合、住んでる場所が場所なのと忙しいのとで世間で評判の人形芝居なんてのも見たことがないが、きっとこいつの方が綺麗なんだろう。 役者は時々見るが、それに負けないくらいこいつは綺麗な顔をしている。 というか、役者は素地はさほどでなくても、舞台の上で絶世の美男美女になればいいからな。 ただ顔だちだけの話なら、古泉の方がいいのかも知れない。 そんなことを考えながら、これで最後だと、 「古泉…」 と声を掛けると、そろりとその腕が動いて、俺を抱き締めた。 「…寝たふりかよ」 「半分くらいは、本当に寝てましたよ?」 そう笑って、古泉は俺の肩に頭を埋める。 重いって。 「あなたといると心地好くて、眠くなるんですよ」 「そりゃ、俺が退屈させてるってことじゃないのか?」 「違いますよ」 と古泉は笑う。 「心地好くなることと、退屈して眠くなることは違うでしょう? あなたがいる間はあなたと少しでもお話ししたくて我慢出来るんですけど、あなたがいなくなると、つい……」 「変な奴」 くすりと笑った唇に、古泉の視線が向けられるのを感じる。 「この部屋には、あなたの気配が溢れているので、とても居心地がいいんです。あなたの匂いがして、あなたのいた痕跡があって……」 そう話を続けながらも、その目は別なことを訴えているように思えた。 「…桃、食わないのか?」 「食べますよ。でも、その前に……」 その唇が触れそうなほどに近づいてきたところで、 「そういうことをするならその後、ちゃんと桃で口直しでもした方がいいかもな」 と言ってやったら、古泉はぴたりと動きを止めた。 「……ずるい人ですね」 そう恨みがましくもため息混じりに呟いておきながら、古泉は微笑する。 「では、先に桃をいただきましょうか」 「ああ」 汁が零れるから、ということで、使わないものの一応準備だけはしてある杯洗の上で桃の皮を剥く。 柔らかな果肉から、皮がつるりと剥けるのはなんだか気分がいい。 時折ぷちりと切れてしまうのが残念なくらいだ。 剥き終えた桃は美しいとは言いかねるが、それでも甘い香りが漂ってくるのはいい。 それに小刀を当て、実を削ぎ取るようにして切り分けたものを、台の上に広げた懐紙に乗せてやった。 最後に、種の周りに結構な実が残っちまったのが勿体無いのだが、どうしたものかね。 「気にせずに食べても構いませんよ? それとも、僕がいただきましょうか」 「じゃあ、俺がもらう」 ぽいと口に放り込んだそれは、梅なんかの種より少しばかり大きい。 その硬い種の周りについた果肉は酸味が強いものの、結構おいしい。 贅沢なもんだなぁと思いながら綺麗に実を削ぐようにして食べ終えた種を、取り出した懐紙でそっと包んだ。 何が楽しいのか、俺がそうしている間ずっとそれを見つめていた古泉が、物欲しげにその包みを見つめているのに気付いた俺は、 「……ほしいとか言うのか?」 「え」 「…変態」 毒づきながら、てちりとその手に包みを押し付ける。 「捨てとけ」 「……本当に、あなたという人は…」 とため息を吐かれるのが分からんな。 というか、 「…こんなもん、もらって嬉しいとも思えんのだが」 ゆえに、今のは半分以上嫌がらせのつもりだ。 「嬉しいですよ。あなたにいただけるのでしたら、なんでもね」 「そうかい」 どうせいつもの諧謔みたいなもんだろうと笑った俺は、台の上に手を伸ばして桃を一切れ手に取り、 「食べないのか?」 と声を掛ける。 「いただきますよ」 「ん」 ついっとその鼻先にそれをそのまま突きつけると、古泉はまじまじとそれを見つめた。 「…いらないのか?」 「……あなたが手ずから食べさせてくださるなんて、思いもしなかったので…」 驚いた、と。 「…いらないなら、」 「いただきます」 間髪入れずに言った古泉が、飢えた魚みたいにしてそれに食いつく。 その唇がかすかに、指先に触れたのが妙にむず痒い。 「なんだ、指を舐められるくらいするのかと思って緊張したのに…するだけ損だったな」 余裕ぶって呟けば、古泉は苦笑して、 「そんなこと、してよかったんですか?」 「さて…どうだろうね」 「全く……」 くすくす笑った古泉が、今度は桃を取り上げる。 そうしておいて、 「口、開けてください」 と言うから、俺は素直に口を開けた。 その中に、柔らかな桃が差し込まれる。 それに小さくかじり付き、桃に噛み跡を残すが、古泉はそれを引っ込めようとしないから、俺はじわりじわりとそれを食べ進める。 そうして古泉の指に少しだけ噛み付いて、その指を軽く吸い上げた。 「…甘いな」 なんて呟いた時には、まだ酒も飲んでないというのに、古泉の顔が随分と赤くなっているように見えた。 「今日は本当に、大盤振る舞いが過ぎますよ」 「遊び慣れてる奴に言われてもなぁ…」 それに、と俺は苦笑する。 いいことがあったら悪いことがあるもんだろう? お互いに食べさせあったり、適当に自分で食べたりするうちに、あっという間に桃はなくなった。 まあ、元からひとつきりしかなかったからな。 最後の一切れの譲り合いは儀礼的なもので、当然のようにそれは俺の口の中に消えた。 おまけのように、桃の汁で汚れた古泉の指を舐めてやったら、 「そこにもついてますよ」 とかなんとかいう言葉と共に、唇の端に口付けられた。 「ん……。全く…油断も隙もあったもんじゃないな」 「あなたが許してくださるからですよ」 「お前が強引なだけだろ」 のらりくらりと会話をしながら、手を拭い、食事に手をつけるのかと思いきや、そうじゃない。 「今日は七夕だからな」 「何か趣向でもあるんですか?」 「ああ」 俺は悪辣な笑みを浮かべて、古泉を衝立の向こうに連れ込んだ。 そこには文机があり、きちんと半紙や短冊、色紙なんかも用意してある。 簡易で作ったにしては、なかなかちゃんとした手習い所だろう。 「これは……」 と呟いた古泉の声がいくらか引きつって聞こえた。 お前、本当に苦手なんだな。 「七夕ってのは、本来、文字の上達を願ったりするもんだろ? せっかくだからお前はそういうことを願ってけ」 「…つまり、あなたの前で字を書いてみせろ、と」 「ああ」 何しろお前ときたら頑なに俺に字を見せようとしないからな。 手紙を出しても本人が来たり、来れないとなっても代筆させたりするから、俺は未だに古泉の字を見たことがない。 そこまで隠したがるような字だって言うなら、逆に興味がわくってなもんだろう。 「それで今日はいつにない歓迎ぶりだったんですね……」 力なく呟きながら、それでもちゃんと文机の前に座ったのは、逃げようがないと分かっているからだろうか。 その物分りのよさは悪くないぞ、うん。 「ご機嫌ですね」 「どれほどのものか楽しみでな」 「…ううう……」 「情けない声を出すな。ほれ、書いてみせろ」 「本当に酷いんですよ…」 「分かったから、とりあえず名前でも書いてみせろ。それくらいならマシだろ?」 「…酷いんです、名前すら」 「ほう」 そこまで言われると興味が誘われるな。 「ほら、いいから書けって」 「…はい」 さっきまでにたにたしていたのが嘘みたいにしょげ返った古泉は、それでも何とか筆を取り、そろそろと恐ろしげに文字を書いた。 古泉一樹……と、読めなくもないがこれは確かに酷い。 鉄釘流とでも銘打ったらいいような、がたがた酷い字である。 とても教養のある人間の書く字じゃない。 その辺の大工でもとっ捕まえて書かせたような字だ。 なるほど、これなら俺の字の方がうまいと言われるわけだ。 呆れを通り越して、むしろ感心していると、古泉は恥かしそうに、 「…酷いでしょう?」 と言うから、 「これはこれで味があって芸術的だとは思うが、読みやすくはないな」 と正直に答えたら、なんだか知らんが笑われた。 「いえ…、そこまで正直に言われたのは初めてだったのでつい」 「気を遣ったってしょうがないだろう。字が汚いのが嫌なら、練習したらいいし…って、練習してこれなのか」 「そうです…」 「…まあ、これで俺にはどれだけ酷いか知られちまったわけだし、」 俺は古泉の肩に手を置いて、後ろから軽く抱き締めてやった。 「これからは、お前が自分で書いて、返事をよこせよ?」 「え……」 「手紙ってのはそういうもんだろうが」 「…あの、もしかして、代筆はお嫌でしたか……?」 恐る恐る聞いてくる古泉に、俺は少しばかり膨れたような顔をして、 「ああ。…お前のあのこっ恥かしい手紙を他の誰かが見てるかと思うと、それだけで破り捨ててやりたくなるくらいにはな」 「ええ?」 戸惑いの声を上げながらも、振り返った古泉はくすぐったそうに笑っていた。 「読めなくても、いいんですか?」 「読めるだろう。読めなかったら、お前が来た時に朗読させてやる」 ニヤリと笑ってやれば、古泉も笑みを深めた。 「それに、ここで手習いをしてってもいいだろ?」 「あなたが教えてくださるんですか?」 「少しくらいならな。…とりあえず、お前は筆の持ち方からして酷いぞ」 古泉の背にもたれかかるような形で、俺は古泉の手の上から筆を持ち、そっと直してやる。 「こう、真っ直ぐに構えて、筆に墨を含ませるだろ? それから、筆をよくしごいて、穂先を整え、余分な墨を落とした上で、書くんだ。ゆっくりと、な」 練習だからと、子供がするみたいに大きく「古泉」と書いてやると、古泉は嬉しそうに笑った。 「これ、もらって帰っていいですか?」 「どうするつもりだ?」 「お手本にします」 「やめてくれ、大した字でもないのに」 「いいじゃないですか。…これなら頑張れそうですし。…ね?」 そう頼まれては断りきれない。 「好きにしろ」 と言って俺は体を離し、 「短冊にちゃんと署名入りで願い事を書いて恥ずかしくないようになるまで練習しろよ?」 「あなたはもう書いたんですか?」 「ああ、書いてぶら下げてある。見たけりゃ自分が吊るす時にでも見ろ。大したことは書いてない」 「それでも楽しみです」 と微笑んだ古泉は、俺のそれに自分の名前が書いてあるのを見たらどんな顔をするんだろうか。 何しろ、吉原じゃ七夕ってのもしょせん客を喜ばせるためのもんだからな。 好いた男の名前を書くと称して、その日来てくれた馴染みの客の名前を書くのが通例だ。 そんな中、一人願い事を書かされたことに怒るか、それとも俺が古泉一樹と書いたことに喜ぶか。 そう考えるだけでも少しばかり愉快で、俺はそっと笑みをこぼしたのだった。 |