手紙



寝直した俺の眠りを破ったのは、いつもの習慣というやつだった。
せっかく寝たってのに、人の動き出す気配につられて目が覚める。
仕方なく起き出したら、
「ああキョン、おはよう」
と国木田に声を掛けられた。
「仕事は?」
「あれだけ上等なお客がついたんだから、のんびりしてていいよ? ぶっちゃけ、キョンが働いてくれるのよりずっと沢山もらってるし、この上キョンを扱き使ってお客に睨まれても困るしね」
そう言うのも分からんでもないのだが、
「勘弁してくれ。仕事くらいさせろ」
深くため息を吐いた俺に、
「そういうところ真面目だなぁ」
と国木田は笑って、
「じゃあちょっと片付けを手伝ってくれるかい?」
「おう」
国木田がこの見世の主であることを覚えていれば、俺たちの会話が奇異に聞こえるかもしれないが、そもそもうちの見世そのものが少しばかり変わっているのだ。
主の国木田はこの通り若く、しかも元は俺やハルヒと同様、ここで生まれ育ったのが養子にされて主の跡を継いだこともあって、見世のものを扱き使うこともなく良心的だ。
それにしたって太夫のハルヒがあそこまで強気でいられるのはおかしいんだが、そこはまあ、ハルヒだから仕方ないと思ってもらいたい。
裏方に若い連中が多い割には、大見世として他の見世に侮られることもなくやっていたり、評判もよくそこそこ稼いでいる辺り、国木田はやり手らしいのも変わっているといえば変わっている。
まあ、だからこそ俺みたいなのを座敷に出したりもするんだろうがな。
ため息を吐きながら他の連中に混ざって掃除などをしていると、
「ちょっとキョン、あんたまたなんでそんなことしてんのよ」
「これが俺の本来の仕事だろうが」
何を抜かすか。
ちなみに、使いっ走りに行ってないのは、見世を出たが最後また朝の調子でからかわれるのが目に見えているからである。
「あんたにしては勤勉な態度なのはいいけど、そんなことよりすることがあるでしょ」
「はぁ?」
「手紙よ手紙」
「……は?」
何がなんだかさっぱり分からん。
しかし、そんなことを言ったところでハルヒが解放してくれるわけもなく、昼間の客が来たりする時間帯である昼見世が終ったところで仕事もあるというのにハルヒの部屋に引きずって行かれる。
そこで、
「はいこれ。あんたの支度金で準備しといてやったわ」
と渡されたのは、
「硯箱……?」
「そうよ。どう? 綺麗でしょ」
確かにそれはなかなか見事な品だった。
黒漆の艶やかさも美しければ、薄く細く施された流水紋も華やか過ぎず、寂しくなく、丁度いい。
「……まさか、これを俺に使えってか?」
「そうよ。これくらい地味ならあんたでも使う気になるでしょ?」
「……蒔絵が地味かよ……」
どこの御大尽の話だ、と呆れていたが、そうか。
「手紙を出すのも仕事の内だったな」
「そうよ」
とハルヒは得意げに言った。
「特にあんたは、今朝やっと三会目で見送ったところなんだから、ちゃんと手紙を書きなさい」
「…って言われてもな……」
一体何を書けってんだ?
今朝話したばかりだぞ?
「そんなもん、自分で考えるのよ。相手のボンボンだって、あんたに歌なんて期待してないだろうし、普通の内容でいいから」
そうは言われてもどうしたものか。
とりあえず大人しく受け取り、自室に戻ったものの、あいつにわざわざ手紙で言っておきたいことなんて……。
「……あったか」
ぽんと膝を打った俺は、いつの間にか部屋に運び込まれていた文机に硯箱を置き、道具を広げる。
女の子たちが書くような、綺麗に崩したかな文字なんて俺には書けやしないので、開き直って普通の字で書く。
綺麗であるはずもないが、読めないこともないだろう。
ちなみに内容は非常に簡単である。
俺が痺れさせちまった腕は大丈夫かと聞くとともにそれについて改めて詫び、それから帰りがけに国木田に渡した馴染み金――まあ、馴染みになった礼みたいなもんだな――もまたえらく弾んだらしいがほどほどでいいと注意しておく。
というか、あいつは遊んできた割に相場を知らないのか?
太夫相手ならともかく、俺みたいなのにあまり弾まれても困るんだが。
格式ばった世界だからな。
格下のものが上のものより多くもらっちゃ申し訳ない。
それから、これが重要だと特に強く書いたのは、あまり無理してせっせと通おうとするなということだった。
これは俺のためでもある。
もう当分あんな窮屈なのは懲り懲りだ。
いくらあいつがいいと言っても、あいつが来るならとハルヒが俺を着替えさせるのは目に見えているからな。
当分来てくれるなと思いながら書きあがった手紙をたたみ、届けてくれるよう手配した。
さて、これでいいだろうと安心しながら、仕事をさせてもらえないなら寝て過ごすか、それとも今頃どこかで針仕事などしているだろう朝比奈さんのところに行ってみようかなどと考えつつ、昨晩の不慣れな仕事で疲れていたのだろう。
俺はいつの間にかもう一度眠っていた。
そのまま、今夜はゆっくり過ごせるだろうと思っていたのだが、これも来るななどと贅沢なことを考えた罰が当たったということなのか、夜になってどこかから聞こえてくる宴会の物音に目を覚ました俺は、すぐそばに古泉がいることに気がついて飛び上がった。
「なっ……!?」
「おはようございます」
皮肉のようにそう挨拶した古泉は、柔らかく笑って、
「すみません、お休み中にお邪魔してしまって……」
「…な、んで……また…」
驚いてうまく言葉も出ない俺に、古泉は傍らから取り上げた手紙を見せた。
「これのお返事をしようかと思いまして」
「……は?」
「いえ、ね。手紙をいただいたのですから手紙で返事を出すべきかとも思ったのですが、生憎僕はどういうわけか酷い悪筆でして、あまりのままならなさに帳簿に筆を入れることすら許してもらえないような状況なのですよ。そんな悪い手をお見せして、あなたを困らせてはいけないかと思いまして」
「…直接返事に来た、と?」
「そうです」
にっこりと笑った古泉は、手紙の下においてあった包みを俺に寄越した。
「…なんだ?」
「小紋を用意させて来たのですが、どうでしょうか」
と引き出されたのはなかなか粋な柄の小紋だった。
「…これを俺に?」
「ええ。……こういうものもお似合いかと思いまして」
と言っておいて、
「勿論、昨日の艶姿も素敵でしたけど、窮屈なのはお嫌でしょう?」
「分かってるじゃないか」
にや、と笑った俺に、古泉は嬉しそうな笑みを見せ、
「着て見せてくださいますか?」
「……ここで、か?」
と言った俺に、古泉は笑顔のままで頷く。
……まあ、いいか。
どうせ昨日既にみっともない姿を見られたんだ、今更かまわんだろう。
俺は寝乱れたとかどうこういう以上に薄汚れた自分の普段着である安っぽい着物を脱ぎ、差し出されるままに小紋に袖を通す。
真新しい、おろしたての着物なんて不慣れなものだが、そう悪くもなかった。
「…似合うか?」
そう言って古泉に向き直ると、古泉は嬉しそうな顔で、
「ええ、とてもよくお似合いですよ」
しかし、と俺は苦笑する。
「お前、俺の手紙を読んだんだよな?」
それとも、字があまりに汚くて読まなかったか?
「読みましたよ。僕よりずっと読みやすい字だったと思いますけど」
「なら、なんでこんなものを用意して、しかもわざわざやって来るんだ? 俺は、無理してせっせと通わなくていいと言ったんだぞ?」
「無理はしてませんから」
さらりとそんなことを言ってかわそうとする古泉に、頭痛がした。
そういう問題じゃない。
「いくらお前のところが大層な身代でも、大盤振る舞いしすぎだぞ。相手が太夫ならともかく、俺なんて下の下もいいところなんだ。それに見合っただけくれたら十分だから、そうしてくれ」
「でも、支払うものは最低額が決まっているだけで、上限はないでしょう? 僕の気持ちなんですから、そうつれないことを仰らずに受け取ってくださいよ」
「お前の気持ちだと?」
そりゃ、一体どんなもんだ。
面白いことに対価を惜しまないのか。
それとも、それほどまでに寂しい思いをするほどに、これまでの相方があわなかったのか。
「ここは嘘でも好いているということにしておきましょうよ。それがこの街の常識でしょう?」
そう悪戯っぽく笑うところなんかは、遊び慣れてるように見えもするんだがな。
「好いてる、ね……」
「お嫌ですか?」
たとえ本当に嫌だとしても、そうは言わないのも、この街の決まりだろ。
その決まりが嫌いなのが、こいつのはずだったんだがな。
「…別に嫌じゃないな」
本心とも嘘とも取れない調子で呟いて、俺は古泉のすぐ側に座り、その手に触れる。
こうなりゃヤケだ。
吉原生まれの吉原育ちとして、見聞きして育った手練手管を見せてやろうじゃないか。
「…だが、俺を好いてくれてるというなら、余計に無理はしないでくれ。……急に通えなくなったりしたら…」
そう言葉を濁らせ、じっと古泉を見つめてやると、古泉は軽く見開いていた目をきゅっと細めた。
…ちょいとばかり露骨過ぎただろうか。
「…少しくらいは、寂しいなんて思ってくれますか?」
そう言った手が、俺のそれを握り締める。
柔らかいそれに、一瞬恥じらいめいたものが湧き上がるのは、俺の手がお世辞にも綺麗とは言えないからだ。
「古泉…手が……」
「手がどうしました?」
「…お前の手に、傷がつきそうだから、離してくれ」
と空いている方の手を示し、それがどんなに荒れているかを見せると、
「大丈夫ですよ」
とその手まで握りこまれた。
そればかりか、古泉はその手を口元に運び、そっと口づける。
「ちょっ…!」
「働き者の手は、嫌いじゃありません。むしろ、好きですよ。しかし……」
優しく俺のささくれた手を撫でた古泉は、心配そうに俺を見つめたかと思うと、
「これは確かに酷いですね。明日にでも、薬を届けさせましょう」
「…だから、いいって……」
「それとも、僕がお届けしましょうか?」
「勘弁してくれ」
くすりと笑った古泉は、俺の手に頬を寄せると、
「では、残念ですが使いに任せるとしますよ」
と言って、俺の手をそろりと離した。
俺は自分の手を取り戻して、そっと息を吐く。
こいつの方が役者が上のようだ。
どこまで本気なのか、そこいらの女の子以上に分からない。
俺はそれでも立ち上がると、
「料理を用意させてくる。酒もいるだろ?」
「ええ、でも、」
ぐいっと古泉はいささか強引に俺の腕を引くと、俺をかき抱くように座らせた。
「……おい」
「ご心配なく。強引にことに及ぶような無粋さは持っていないつもりですから。ただ、もう少しだけ、こうしていたいんです…」
その声は低く響き、俺の耳を震わせる。
それこそ、こちらがうろたえそうなほどに。
「こ…いずみ……近いって…」
「いいじゃないですか、これくらい。…他の誰もいないんですし、それに、今夜はちょっと今頃にしては肌寒いんですよ」
「そう…か?」
「ええ。……だから、いいでしょう?」
俺は頷きを返しもせず、ただ黙り込んだだけだったが、それでも古泉には十分だったらしい。
ぎゅっと強く俺を抱きしめたかと思うと、
「ありがとうございます」
と囁いてきた。
「…早くしろよ。腹が減ったんだ」
「ええ、では、もう少しだけ……」
そう言って俺の肩に頭を預けてくる髪の柔らかさに、不思議と胸がざわついた気がしたが、気のせいだと振り捨てた。