吉原の朝は意外かも知れないが、非常に早い。 朝――と言うよりは夜から一続きの仕事の一部ではあるのだが――まで部屋で過ごした客が、夜明け間際に帰って行くのだ。 要するに朝帰りというやつだな。 それを見送るのも女の子たちの仕事であり、……なんの因果か、俺の仕事のひとつにもなっちまったわけだ。 しかし、そうは言っても俺はそんな仕事に慣れちゃいない。 そんな訳でうっかり寝過ごしそうになったところを、 「キョーン!!」 と飛び込んできたハルヒに起こされたわけだ。 「…っん!?」 条件反射で飛び起きたのは、あれだ。 ハルヒが寝床に飛び込んできてろくな目に遭うことがないせいだ。 「あんた、何やってんのよそんな寝乱れた格好で。さっさとそこのボンボンを起こして見送ってやんなきゃ。そもそも、客と一緒なのに熟睡してどうすんのよ」 「え? …あ、ああ、そうか」 しかし、もう一度あの衣装を着るのかと思うとげんなりするな。 俺より数拍遅れて目を覚ました古泉は悠長に、 「おはようございます」 なんて俺に言ってるが、のんびりしてられんだろう。 「おはよう。今日は最初だし、大門まで見送ってやるから、仕度が終るまで、粥でも食っててくれ」 ばたばたととにかく留袖を緩くまとう俺に、痺れを切らしたハルヒが、 「ああもう、手伝ってあげるから大人しくじっとしてなさい!」 と言い出す。 しかし、粥くらい持ってきてやらんと古泉が可哀相だろうが。 「それくらいなら手を貸してあげるわよ。有希!」 とハルヒが呼びつけると、襖が開き、ハルヒの禿をやっている長門が入ってきた。 その手には朝粥の膳がある。 「すまん、長門」 「…いい」 きちんと膳を置いた長門はそのまま俺の着替えを手伝いに来てくれる。 俺は顔だけを古泉に向け、 「食っててくれ」 と言ったのだが、 「待ちますよ。あなたの着替えが終るのを待つのも楽しそうですし、夜に帰るのとは違って、大門も急いで閉まりませんからね。野暮天呼ばわりされても、ゆっくり帰りますよ」 と言いながらこっちを見てるが、 「あほか。お前が野暮天呼ばわりされたら俺まで笑われるだろ。あと、そうやって着替えを見てる方がよっぽど野暮だ」 「それはいけませんね」 そう笑って、古泉はやっと腰を上げ、寝間から出た。 ほうっとため息を吐いた俺に、ハルヒはにやにや笑って、 「なに? 案外いい雰囲気じゃない」 「何がだ」 「あんたと今のボンボンよ」 「…いい雰囲気も何もあるか」 と俺は天井を仰ぐ。 と言うかハルヒ、 「お前、自分の客の見送りは」 「さっさと済ませたわよ。あんたみたいな鈍臭いのと一緒にしないでくれる?」 そりゃ失礼しましたよ。 やれやれ、と嘆きながらもハルヒたちのおかげでなんとか見た目を整えることが出来た。 化粧も見れる程度に直し、長門が持ってきてくれた膳の前につく。 先に食ってろと言ったのに、古泉の食は大して進んでいなかった。 「さっさと食えばいいだろ」 「すみません、つい…」 俺は構えかけた箸を下ろし、じっと古泉の手元を見つめ、 「…それとも、調子でも悪いのか?」 「え?」 「いや、食べ辛そうに見えたんだが…」 古泉は驚いたように眉を上げ、それからふわりと微笑んだ。 「…少しばかり、」 うん。 「…腕が、痺れてまして」 ………うん? 「あなたの髪が乱れては勿体無いと思ったので、つい、庇ってしまっていたので……」 その言葉に、顔が真っ赤になった。 そうだ、俺は昨日、本来ならちゃんと枕を当てて寝なきゃならんというのに無防備に寝こけて……。 「す、すまん」 「いえ、僕が勝手にしたことですから、どうぞ気にしないでください」 それでも申し訳なくて、つい視線を伏せた俺の耳に、 「…恥かしいやりとりしてないでさっさと食べて出てけ!」 というハルヒの声が突き刺さった。 そうしてようやっと食事を終えて、俺は慣れない着物に足を取られそうになりながらも辛うじて階段を下り、表に出る。 その途端、 「きゃぁ! キョンくん可愛い!」 と桃色をした声が上がった。 「な……」 見るまでもなく、表に数人、いや、十数人ほどの女の子たちが集まってるのが分かった。 それにつられてか、帰る途中だったのだろう客の男たちまで足を止め、こっちを見てくるのが居た堪れない。 「お、お前ら、仕事はどうした!」 羞恥のあまり真っ赤になってそう返したら、女の子たちは口々に、 「だって、」 と軽く体をくねらせ、 「キョンくんが可愛い格好してるって聞いたし、」 「噂のおにいさんも見てみたかったし?」 「どんな顔して出てくるかしらって思ってたのよ」 「ねえキョンくん、体とか大丈夫ー?」 いつものことながら遠慮のない言葉に呆れ、言葉すら失っていると、古泉が小さく笑って俺の耳元で囁いた。 「人気がおありなんですね」 「あほか。からかわれて、おもちゃにされてるだけだ」 と嘆息して、俺は眉間に皺を寄せながら、女の子たちに言葉を返す。 「ほら、邪魔してないで散れ散れ!」 それでもやはり彼女らはそういうことには強いもので、 「やだぁ、キョンくんったらおっかないわぁ」 「そんなんじゃキョンくんも袖にされちゃうわよ」 などとからかってくる。 ……仕方ない。 俺は古泉にだけ聞こえるように小さな声で、 「…本気にするなよ」 と言って、返事も聞かずに息を吸う。 そうしておいて古泉の腕に自分のそれを絡め、声を作る。 「あれ、姉様方、羨ましいんは分かりんすけど、わっちも袖にされとうありんせん。どうぞ邪魔しないでおくんなまし」 と過剰すぎてどう聞いてもニセモノな胡散臭い言葉を並べ立てたら、わっと笑いが起きた。 恥かしくないわけでもないが、こうやった方が逃げやすい。 じゃないといつまで経ってもまとわりつかれるからな。 俺はぽかんとしている古泉を軽く小突いて、 「ほら、さっさと行くぞ」 「あ……ええ、すみません」 やれやれだ。 結局、大門までの道すがらもあれこれからかいの言葉をかけられ、好奇の視線を向けられ、ほとほと難渋した。 ようやっと大門について、 「それじゃ、古泉、気をつけて帰れよ」 「ええ、ありがとうございました」 そう嬉しそうに笑った古泉に、俺は苦笑を寄越す。 「お前、本当に図太いな」 「え?」 「気付かれないように見てみろ」 と俺はさり気なく袖の陰で自分の左手後方を指し示す。 そこには、食い入るような視線をこちらにむける姉さんの姿が見えるはずだ。 古泉は目だけを軽く動かしたが、 「……ええと」 「気付いてないわけじゃないだろ。…お前に惚れ込んだ姉さんじゃないのか?」 「…あー……」 気のない返事だな。 「ほんと、最低だよお前は」 呆れて呟いた俺に、 「すみません」 と古泉はしょげ返った声を出す。 「俺のこともその内そうやって忘れちまうんだろうなぁ」 しみじみと呟くと、古泉は妙にぎょっとした顔をして俺を見つめ、 「そんなことはありませんよ」 「そうか? …まあ、吉原で男遊びなんてしたら記憶にも残るか」 そう笑った俺を、古泉は往来かつ、今も注目されまくっているというにも関わらず、思い切り抱きしめやがった。 「おい…っ!?」 「忘れません。絶対に。忘れたりするほどあなたに会いに来れないなんてことを考えるのも嫌です」 子供かよ、と呆れつつ、そういやこいつは子供っぽいところがあるよなあなどとも思う。 俺はくすりと小さく笑って、 「忘れる間もなく俺を思ってくれてるってか?」 冗談めかして言ったのだが、 「ええ、その通りですね」 と笑顔で同意された。 全く、 「どこの見世でもそういうことを言って女の子を騙くらかしてたんだろ」 「そんなことありませんよ。あなたにだけです」 普通、あなたにだけなんて台詞は客が言う台詞じゃないと思うんだがね。 俺は苦笑しながら、 「そうかい」 と素直に頷いてやる。 「ほら、そろそろ帰れ。遅くなるぞ」 「……ええ、名残惜しいですが、これで」 そう言って、本当に名残惜しそうに渋々腕を解くと、ようやっと駕籠で帰っていった。 やれやれだ。 その後も、散々にからかわれながらようやく自分の見世へ帰り着き、布団部屋で寝てやろうとして思い出した。 今の俺はなんの因果か部屋持ちだったな。 ……本当に俺が何をしたっていうんだ。 嘆かわしい気持ちになりながら部屋に帰ったら、 「お帰り」 とハルヒが迎えた。 当然、禿の長門も一緒だ。 「…お前ら……」 「何よ。あんたを手伝ってやろうと思って来てやったんでしょ」 「んなもん適当にするから寝ろよ。疲れてんだろ」 「あたしがちょっとやそっとで疲れるわけないでしょ」 そう言い放って、ハルヒは俺から打掛を取り上げ、掛下も脱がせる。 「この衣装のことだがな、もういいから」 「どういう意味よ?」 首を傾げるハルヒに、 「わざわざこんな格好はしなくていいとさ」 「……ばかね」 とハルヒは心底馬鹿にしきった声で言った。 「そんなの、口先だけに決まってるでしょ。あれだけ用意したってことは、あんたに綺麗な格好をしていてほしいってことなんだから、それにきちんと応えるのがあたしたちってもんなの。あんたも、こういうことになった以上、ちゃんとしてなさい」 「と言われてもな……」 「髪も、もう少し伸ばしたらかつらなんて要らなくなるでしょ。そうしたら地毛で綺麗に結って、簪もたくさん飾るわよ。うちの看板に泥を塗るような真似したら許さないんだから」 「……そうかい」 せめてもう少し楽な格好に出来ないものか、と思いながらため息を吐き出すしかない。 それでもようやっと片づけやら何やらが終り、少しだが眠れそうになったので、ふかふかしすぎて緊張しそうな布団に横たわった。 ふっと鼻先を掠めたのは、古泉の匂いだ。 あいつは俺のつけてた白粉がいい匂いだとかなんとか言っていたが、あいつの方がよっぽどだ。 なんの匂いだろうかと思いながら俺はそっと目を閉じた。 それにしても本当に疲れた。 ……面倒だから当分来てくれるなよ。 |