三会目の夜



古泉が律儀にやってくると連絡を寄越していたその日。
大急ぎで、とはいえ一応新しく内装をしつらえられたせいで、落ち着かないほど真新しい匂いのする部屋に、俺は座らされていた。
むしろ、座らされた状態でいるしかなかった、とでも言うべきだろうか。
恐ろしくて動けるはずがないだろ、こんな格好で。
ため息を吐いてもどうしようもなく、さっさと楽になれることを願いつつ、古泉の来るのを不本意ながらも待ち侘びていると、やはり案内もつけてもらえなかったらしい古泉が襖を開け、
「お待たせしました」
と声を掛けて入って来たが、そのまま動かなくなる。
俺はそれをじっと見遣り、
「遅い」
と返してやった。
ハルヒにはちゃんと喋れと言われたが、廓言葉なんて使ってられるか。
「ええと……キョンくん、ですよね…?」
「ああ」
「…驚きました」
そう言って、驚きに見開いていた瞳をふわりと細めると、
「とても綺麗ですよ。どうしたんです? こんなに綺麗に装って……」
と俺の傍らに座った。
俺の前には台の物がしつらえてあるのだが、俺はそれに手を伸ばすこともままならない。
なぜって、前に大きく飾り立てられた帯はきついし、着慣れない上等の衣の感触はぞっとするぐらいつるつるしていて不安になるし、何よりそんなものを汚しでもしたらどうなるか、考えるだけで怖い。
そんな恐ろしい衣装――つまりは一人前の女の子なんかと同じく、綺麗な掛下を重ね、更に何枚もの打掛を重ねさせられているわけなのだが――で、下手に動けるものか。
そういう理由でじっとしている俺に、
「…綺麗ですね」
もう一度古泉はそう繰り返した。
言いながら、俺に顔を近づけてくる。
「…おい」
「すみません。…でも、白粉がいい匂いで……」
と囁く声すら触れそうだ。
「だから近いって」
苛立ちながら、俺は軽く頭を振った。
それでさえ首がきしみそうになるってのに、古泉は興味津々で、
「この髪は……かつらですか」
「当たり前だろ。それとも何か? お前は俺の地毛がこんなに伸びるほどの間来なかったとでも言うのか?」
「僕の知らない間にそんなに時が過ぎてしまったのかと焦っただけですよ」
軽口を叩いて、古泉はそっと髪に触れてくる。
その指をさりげなく鼻先へ持ってきて、
「ああ、新しい、上等の椿油の香りがしますね」
と微笑む。
「紅も綺麗で……。もしかして、ご自分でなさったんですか?」
「まさか」
やってもらったに決まってるだろ。
俺がこんな着付けや化粧なんて出来るもんか。
「太夫が面白がって着せたんだよ」
「でも、よくお似合いですよ。でも、この着物は……」
しげしげと上等のそれを見つめている古泉に俺は嘆息し、
「お前が支度金を用意しただろ。あれだけしてもらって何も用意させないんじゃうちの看板が曇って他の見世に笑われるってんで、うちの当主と太夫が張り切ってな。出入りのお針子に無理言わせて、大急ぎで仕立てさせたんだ」
「ああ、そうでしたか。では、その方にもどうぞお礼を」
と言ってさりげなく膳の隅に小さくひねった包みを置くあたり、遊び慣れてるな。
感心しながら、俺は言う。
「…本当にいいんだな? 俺なんかが相方で」
「あなたでなければ嫌ですよ」
「…もうひとつ、念のために聞くが、男遊びがしたいってんじゃないんだろ? それなら最初から芳町辺りに行くだろ?」
「男遊び……ですか?」
きょとんとした顔をする古泉に、俺は軽く舌打ちをして、
「とぼけんな。意味が分からんほど鈍いわけでもないだろ」
「ええ、分かってますけど、それが具体的に何を指すのかと思いまして。…あなたと酒を酌み交わすのも、広い意味では男遊びのうちに入るでしょう?」
「あー……」
それもそうか。
「…じゃあ、狭い意味でのそれがしたいんじゃないだろうな?」
「……どうでしょう?」
「おいっ」
慌てて退こうにも着慣れない着物にうまく動けず、仰け反るようなことしか出来ない。
古泉はそんな俺の無様さを嗤ってか、かすかに声を立てて笑って、
「あなたに嘘を言っても仕方ありませんから、正直に言ったまでですよ。…元から僕は、この街の決まりが理解出来ないんです」
「……は?」
「どうして、一度や二度会っただけで、体を重ねられるんですかね」
「どうしてってお前……そりゃ…本来、それが目当てで来るからだろ…?」
頭が痛くなってきたぞ。
何を言い出すんだこのボンボンは。
遊び慣れてるくせに世間知らずなのか?
「誰もがそうだとは限らないじゃないですか。第一印象はよくても、一緒に過ごしているうちに性が合わないと分かって、他の人のところへ行くようにしたら罵られるってなんなんですか」
……もしかして、
「お前、最初の相方を袖にしたのはそれが理由か?」
「そうです。…彼女は少しばかり好みに合わなかったんですよ。なんと言いますか…その、あまり会話を楽しんだり出来なくて、気が休まらなかったものですから」
「…で、その次は? 心中立てまでしたのに振ったって評判だったよな?」
「あの時は、気も合いましたし、綺麗な方だったのもあって、一応いいところまで行ったんですよ。でも、あちらの方が思った以上に夢中になってしまって……それで、いきなり心中立てなんてされてしまったんですけど、正直、怖くないですか。いきなり小指を切り落として渡されるんですよ?」
「…まあ、な」
同じ男として分からんでもない。
ましてや、どうやらこいつは寛ぐために吉原通いなんてしているらしい。
それなら、そんなことをされたら逃げ出すかもしれない。
相手の女の子からすりゃ、せっかくそこまで惚れ込んだのに可哀相なことこの上ないが。
「…その後も、その調子か?」
「ええ。…気が合わなかったり、気が合ったと思ったら気に入られすぎてしまって、また心中立てなんてされる前にと逃げると、そんな調子でしたね」
「……なんていうか…本当にお前は罪作りな奴だな」
「…おや、」
心外そうに顔を歪めた古泉は、吐息が掛かりそうなほどにその整った顔を近づけてきたかと思うと、
「…僕には同情もしてくれないんですか?」
「んなこと言ったって、なぁ…?」
俺はこの街で生まれ育ったんだ。
今働いてる女の子の中には、ハルヒみたいに幼馴染として一緒に育ったのもいるし、そうでなくとも仕事柄、女の子たちと過ごすことの方が多いんだ。
そっちに同情的になったって仕方ないだろう。
「…あなたのそういう素直なところが好きですよ」
そう微笑んで、体を離した古泉は、
「では、これでようやくあなたの馴染みになれたということですよね。それを祝って、まずは一献、いかがです?」
と膳の前にやっとついてくれた。
「…そうだな」
俺はなんとか姿勢を整えると、袖を汚さないよう気をつけながら、銚子を手に取ると、古泉が手にした杯にそっと酒を注ぐ。
「ありがとうございます」
嬉しそうに笑った古泉が、それを綺麗に飲み干す。
俺は空いた杯を受け取って、綺麗な山水画をあしらった杯洗に溜めた水で軽くそれを洗う。
そうして綺麗になった杯を両手で持って、
「俺にも注いでくれるか?」
と古泉に言えば、
「ええ、あなたが受けてくださるなら」
と応じた古泉が、銚子から酒を注いでくれる。
それを俺も一息に飲み干す。
その杯を返すためにもう一度洗おうとしたところで、
「僕はそのままで結構ですよ」
と言われた。
「そのままって……」
「洗わなくて結構です。…むしろ、そのままの方が趣があっていいですね。あなたが苦心しながら杯洗の水を使うところも魅力的な光景といえばそうなのですけど」
「…あほか」
そう返しながら、俺はそのまま杯をつき返し、銚子を取る。
軽口を叩くように言ったが、要するに俺が袖を濡らさないよう苦労しているのを見て、気を遣ってくれたということなんだろう。
本当に、出来すぎた奴だぜ。
俺は不機嫌な面を作りながら、杯に酒を注ぎ、
「今日も当然朝帰りなんだろ? お前にはどうやら、夜のうちに帰るって考えは全くないらしいからな」
「ええ。…いいでしょう?」
「精々真新しい布団の感触でも味わえよ」
「あなたが隣りにいてくださるなら、ですけどね」
そう言われて、俺は軽く眉を寄せる。
「…馴染みになったからって調子に乗って、いきなり手出ししてきたりしないだろうな?」
「しませんよ。お約束します」
そう笑顔で請負って、
「…僕は多分、誰かを恋い慕ってみたいんでしょうね」
と呟いた。
「…そりゃまた、吉原じゃ難しい大望を抱えてるな」
「ふふ、吉原の外でも同じことですよ。今時、とても難しいことです」
「……ま、外で素人の女の子を泣かせるくらいなら、ここで愚痴でも吐いてけよ」
俺が言うと、古泉は嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとうございます」
そうして、膳の上に視線を落とした古泉は、軽くその目を見開いた。
「おや、これは……」
「今頃気付いたか」
と俺は呆れるしかない。
そこに用意してあるのは、縮緬に縫い取りで古泉の名が記された箸袋と塗の箸である。
全く、本当にどれだけ金を渡したんだこいつは。
贅沢なしつらえにもほどがあるだろう。
ともあれ、
「これで馴染みだからな」
「ええ、嬉しい限りですね。この瞬間というのは、何度体験してもよいものです」
と呟く古泉に、
「普通はそう何度も経験しねぇよ」
と呆れて笑うしかない。
「ほら、いいからとにかく飲め、食え」
「はい」
そうして、差し向かいでどれほどの間飲み食いしたんだろうか。
俺は売れっ子の女の子とは違うし、そもそも古泉以外客がつくはずもないから、遠慮なく飲み食いした。
これが売れっ子なんかだと、一口二口で次の座敷へ移動ってことにもなるし、そもそも飲み食いなんてしてないで布団に入ったりもするもんなんだが、その点では随分気楽でありがたい。
そうして珍しいくらいのご馳走で満腹になって、強かに酔っ払った俺を、古泉はからかいもせずに、
「お酒にはあまり強くないんですか?」
と心配そうに聞く。
「そう…だな、それほど強くはない…と思うが……」
「普通と比べたら強い方でしょうけどね」
と微笑んだ古泉は、
「…そろそろ寝ますか?」
「…ん……」
頷いて、俺はよろけそうになりながら立ち上がる。
「大丈夫ですか?」
古泉は慌てて立ち上がり、俺の体を支えてくれた。
「んん……平気、だが……帯、苦しい……」
打掛を脱ぎ捨て、床に打ち捨てる。
本当は髷も潰してしまいたいところだが、ヘタなことをやらかして後で大目玉を食らってはまずいという程度の理性は働くので、それは抑える。
それでも、脱げるものは脱いでしまいたくて、
「古泉…、帯、解くの手伝え……」
「…ええ」
なにやら神妙な顔で頷いた古泉は大仰な帯の端に手をかけると、するすると器用にそれを解いて行く。
「手慣れてるな……って、当たり前か」
思わず声を上げて笑っちまったが、古泉は気を悪くした様子もなく、
「それを分かっててこれだけ無防備でいられるというのも凄いと思いますけどね」
と訳の分からんことを言う。
ともあれ、帯を解き落とし、掛下も放り出して襦袢だけを残すと、随分楽になった。
「あー…苦しかった……」
髷を潰さないようにとうつ伏せで布団に身を投げると、
「苦しかったのに、僕のためだけに装ってくださったんですね。…嬉しいですよ」
とか何とか言いながら古泉が隣りに寝転がる。
「もう二度としたくない……」
「それは勿体無い気もしますけど、あなたが大変なら、これまで通りで結構ですよ」
「勿体無いだぁ…?」
なんだそりゃ、と眠い目を無理に開いて古泉を見ると、眩しいくらいの笑顔で、
「よくお似合いですから」
と言われた。
「……ばぁか」
何が楽しいのか自分でも分からんが、くすくす笑いながら俺は目を閉じ、そのまま眠りに落ちた。