きっかけは悪戯



古泉一樹、という男の話が、うわさ話に疎い俺の耳にも届くようになったのは、あいつが五人目の相方をふいにした頃のことだった。
「五人目って……なんだそれ」
呆れて呟いた俺に、よく聞きなさい、と女の子たちが詳しく教えてくれた。
なんでも、そいつは若くて顔がいい上に、どこだかの大店の主で、番頭の腕や性格がいいのか、遊び歩いてても平気なくらいの身代だそうだ。
頭もよく、会話もなかなか気が利いているとかで、最初、吉原にやってくるようになった時にはあちこちの見世の女の子から袖を引かれたらしい。
ところがだ。
こいつの遊び方がよろしくなかった。
最初の相方には指一本触れず、彼女を泣かせたまま他所の見世へと通うようになり、次は心中立てまでした女を振り捨てて遁走。
その後も、まあ、そんな調子で、とうとう五人もの女の子を泣かせたのだという。
「…最低だな」
「でしょ?」
と、うちで一番どころか、この吉原で一番のイイ女であるところの太夫、ハルヒは憤然と言い放った。
「そんなやつ、もしうちに来ても相手なんてしてやらないわ」
そうしてしまえ。
それにしても、そいつの遊び方はおかしい。
何しろ、何を思ったか大門に近い北の端の方から順に見世を変えてるんだからな。
何か探し物でもしてるのかと訝って当然だ。
しかし、
「それなら、うちの見世までは来ないかもな」
そういううちは、お歯黒溝からは離れているものの、ほとんど南の端に近い大見世だ。
それまでにはその乱行も収まることだろう。
そう思ったから、
「そうかもね。もし来たりしたら、あんた、説教くらいしてやりなさいよ。あたしは勿論のこと、誰にも相手なんてさせないからね!」
なんてハルヒの言葉にも、
「へーへー」
と頷けたのだが、予想に反して、古泉の乱行は収まらなかった。
それこそ、嵐か何かのようにそいつは南の方へと進んでくる。
そうなると、使い走りの途中に見かけるなんてこともあるわけで、遠目に見かけたそいつはなるほどいい男だった。
あれなら、どんな稼ぎ頭だって身請けしてもらいたがるだろう。
しかし、もういくつの見世に行ったんだ?
決して安い見世ばかりじゃないし、聞こえてくる名は太夫まではいかないもののなかなか立派な女の子ばかりだ。
だとするとその度に相方のために新品の布団なんかを用意しているとして、宴席やら祝い金だの馴染み金なんかを含めて、一体どれほど金が掛かる?
……なるほど、大店と言うのも間違いじゃないようだ。
それにしても、そいつの武勇伝がもはや伝説の域に達しようとするほどに、ハルヒの機嫌が悪くなる。
そして、ハルヒの機嫌が悪くなるってことは、爆発するのが目に見えており、ハルヒが爆発したら目も当てられない。
何しろあいつと来たら、あれで当代一の太夫として女の子たちの筆頭であり、しかも他の見世の女の子たちにも人気があるからな。
古泉とやらが吉原中の女の子にそっぽ向かれる日も遠くないのかもしれない、と思った俺は正しかった。
それからしばらくして、古泉の訪いを断る見世が出始め、それは瞬く間に広がり、古泉が南の方に流れてくるのも早くなった。
そうしてその嵐は、とうとううちの見世にたどり着いちまったのだ。
「申し訳ありませんが、」
と見世の主である国木田がにこやかに頭を下げた。
「お客様の相手をしたくないと、みんな首を振ってしまいまして、申し訳ありませんが、うちでは少々用意しかねます」
「困りましたね」
と言いながら、古泉は笑った。
本当に困ってんのか?
呆れながら見ていると、ハルヒが下りて来て、
「なんの騒ぎよ」
騒ぎも何も、お前のせいだろう。
「ああ、あれが噂の……」
「どうする? お前が相手をしてやるか?」
「……そうね」
にやっと笑ったハルヒに、嫌な予感がしたんだ。
「じゃあ、あんたちょっとあたしの部屋を片付けてて」
と言って俺を追い払うと、国木田に何か耳打ちしていたが……何を企んでるんだろうな。
分からんが、
「あんまりいじめてやるなよ」
と釘を刺すと、ハルヒは軽く唇を尖らせて、
「何? そんなに気に入ったの? まあ、あんたって面食いだもんね」
「あほか」
俺はそう吐き捨ててハルヒの使っている部屋に上がり、支度を整えてやる。
「あいつ、また散らかして……」
化粧道具やらお菓子のくずやら、あれこれ自由奔放に散らかりまくった部屋を片付けつつ、俺は小さくため息を吐く。
ハルヒに気に入られたなら、まだいい。
問題は、中途半端に嫌われた時だ。
ハルヒのことだ、尻の毛まで抜くくらいの勢いで金を巻き上げても不思議じゃない。
そうならんように、と祈る程度にあいつに対して同情的になるのは、ここしばらくあちこちの見世で断られ通して帰る、残念そうな背中を見送っちまったからかね。
等と独り言ちていると、不意に襖が開いて、古泉が顔を出した。
ぎょっとしながらも、
「申し訳ありません、今片付けて下がりますので、」
と俺が顔を伏せると、
「え?」
と古泉が声を上げる。
「ええと……僕は、もう既に部屋には相方候補の花魁がいるとご主人に言われて来たんですが……」
「………は?」
「……」
「……」
黙り込んだまま二人して見詰め合うことしばし。
古泉が、
「…っく、」
と喉を鳴らしたかと思うと、そのまま声を上げて笑い出す。
それを俺はぽかんとして見上げるしかない。
一体何なんだ。
やがて、笑いを納めた古泉は、
「なるほど、どうやら担がれたみたいですね」
と言う。
「…すいません、うちの太夫は…その、悪戯が好きなものですから…」
「いえ、構いませんよ。でも、…そうですね、このまま素直に恥をかかされて帰ったのでは面白くありませんし、少しばかり意趣返しをしたい気もします」
だから、と古泉は自分で座布団を引っ張り出してきたかと思うと、その上にきちんと座り、
「あなたに相手をしていただきましょうか」
「……え…?」
「いいでしょう? お酒と食事の用意を。出来れば、幇間も呼んでもらいましょか。せっかくお近づきになれたんです。華やかに……ね」
それを聞いて俺は気色ばむのではなく、にやりと笑った。
なかなか洒落の分かる粋人だと思ったからだ。
「畏まりました。少々お待ちください」
「あ、ちょっと、」
呼び止められ、振り返ると、古泉はにっこりと笑って、
「あなたの名前は?」
「……俺は、キョンと呼ばれてます」
「僕は古泉一樹です。…よろしくお願いいたします」
そう頭を下げ様、俺に向かって金の包みを寄越した。
取っておけということだろう。
変わったやつだ、と思いながら俺はとにかく支度をしようと部屋を出て一階に下りる。
帳場で帳面を見ていた国木田が顔を上げ、
「やあキョン、どうなった?」
「お前らな……」
「そう怒らないでよ。しょうがないだろ? 涼宮さんがやっちゃえって言うんだから。僕としても、これで彼が怒って帰ったならそれはそれで構わないかと思ってたから、丁度よかったんだよ。それで、どうなったの? 下りてこないってことは、キョンがうまいことなだめてくれたのかな?」
「いや、あいつはあれでなかなか面白いぞ」
「そう?」
「ああ。…宴会の準備をしろとさ」
と金の包みを見せると、
「へえ」
にこっと笑った国木田は、
「それじゃ、ちゃんとおもてなししようかな。相方はキョンってことでいいんだね?」
「それはどうか知らんが、そういう面白い奴なら、ハルヒあたりも気に入るんじゃないか?」
それじゃ、頼んだぞと俺は言い置いて、うちに入り浸っている幇間の谷口にも声をかける。
「谷口、仕事だぞ」
「仕事って……」
布団部屋で寝そべっていた谷口は一瞬腰を上げかけたが、
「古泉のことだろ? 俺は断る」
とまた寝転がる。
俺は呆れて、
「はぁ? お前、そんな仕事を選り好みできると思ってんのか?」
「思ってねーよ。だから出来ないんだろ」
は?
「あいつの座敷に出たりしたら、他に呼んでもらえなくなるっつうの」
「…ハルヒは幇間にも手を回してたのか」
「鳴り物もまず無理だろうな」
なんてこったい。
しかし、谷口の言ったことは本当だった。
他の誰に声を掛けても断られる。
仕方なく、俺は自分で膳を抱えて部屋に戻った。
「お待たせしてすみませんっ」
作法も何もなく、がらりと襖を開いた俺が見たのは、窓辺に肘をつき、寝こけている古泉の姿だった。
頬杖のせいで顔が歪んでいてもなお、端正な顔は綺麗なままで、うっかり見惚れそうになる。
女の子の可愛いのは見慣れていても、綺麗な男ってのはあまり見た記憶がないから、耐性がないんだろう。
しかし、このまま転寝してたんじゃ風邪を引くだろう。
俺はハルヒがこの前から捨てるのなんのと言っていた古ぼけた綿入れを引っ張り出してくると、それを古泉に掛けてやった。
一瞬、
「ん……」
と声を上げて薄目を開くが、
「寝てろ。…疲れてんだろ」
反射的にそう言った俺を咎めもせず、古泉はふわりと微笑み、
「……おやすみなさい…」
「…ああ、おやすみ」
そうして眠ったのはいいが……お前、いつの間に俺の着物を掴んだ。
そんなことされてたら、引き剥がそうにも剥がせられんだろうが!
かくして、その夜の内に俺に冠せられた、「古泉一樹の新しい相方」という不名誉な称号が吉原中に広がったことも知らず、うっかりと一晩を過ごしちまったのだった。