古い別れ歌のように



エレベーターを下り、こつこつとあえて足音を響かせるようにして歩く。
いつの間にか手に馴染んだドアノブを握り、くっと力を込めてみるが、ガチャリと硬い音と感触が帰ってくるだけだった。
俺は嘆息しながらポケットから引っ張り出した鍵を鍵穴に差込み、ぐるりと回す。
カチリと今度は快いはずの音がしてドアが開いた。
「ただいま」
と言いながら一応ドアを潜りはしたが、当然のようにマンションの冷たい一室は何の音も返してはくれなかった。
誰のいない部屋ってのはこんなに寂しいものなのかね。
それだけで気持ちが暗くめり込んでくるような気がしながら、俺は自分の寝室に直行し、荷物を投げ出すのと共にベッドに倒れこんだ。
「…古泉の……阿呆…」
恨めしく唸っても何もなりやしない。
むしろ、あいつの名前を口にするだけ苦しくなる。
固く目を閉じ、口を吐いてでそうになる泣き言や恨み言を必死に堪えた。
なんでこうなっちまうんだろう。
苦しい苦しいと胸の中で渦巻く何かごとつぶれてしまいたい。
こんなんじゃ、一緒に暮らす意味なんてない。
むしろ、一緒に暮らしてなければ、あいつが帰ってきてないのかなんてことも知らずに済んだだろうに。
ぼろっと涙が零れても、拭ってくれる手はない。
情けなく歪んでいるだろう面をシーツにこすり付けた。
大学進学を機に、古泉と暮らし始めてからもう二年ばかりが過ぎた。
その間、一度の揉め事もなく平穏無事に過ごしてきたなんて大ボラを吹くつもりはないが、それにしたってこんなのは初めてだ。
新しくバイトを始めたというわけでもないのに、最近忙しいとか何とか言って帰りが遅い。
おまけにあいつはお忙しい理系学生だから、それが理由で帰ってこない日もある。
外食も多くて、最近なんか俺は自分一人のために飯を作るのが虚しく思えて、カップ麺やコンビニ飯の世話になる自堕落っぷりだ。
それに古泉がちらとでも気付いてたしなめてくれれば、俺だってすぐに改めるのに、古泉は気付いてもいないらしい。
そもそも、会う時間そのものが減っているから気付かないのかも知れないな。
ヤることも滅多になくて、ここのところ俺はひとりで処理してる始末だ。
少しでも会いたくてあいつのバイト先に顔を出したら出したで素っ気無い態度に傷つくだけだし、あいつの迷惑そうな顔を見るとそれだけでどうしようもなくなる。
これはやっぱりあれなんだろうな。
赤くなっているだろう目元を擦りながら、俺は天井を仰いだ。
「…別に男が出来たかなんかなんだろうなー……」
ぼんやりと呟くと、またじわりと涙が込み上げてきた。
ああ嫌になる、鬱陶しい。
あいつに関することだとどうして俺はこう涙腺が弱くなるんだ。
唸りながらぐしぐしと乱暴に涙を拭って考える。
古泉に他に好きな奴が出来たんだったら、解放してやらなきゃいけないと思う。
俺ばっかりが未練がましくまとわりついたってあいつを幸せになんて出来やしない。
だが、俺は自分から別れ話なんて出来ないし、そもそも離れたくない、離れられないと思うほど、あいつのことが好きなんだ。
かつてあいつにも話したことがあるが、それくらいならいっそ殺してほしい。
あいつに直接手を下してくれとまでは言わない。
あいつに言葉でもなんでもいい。
死んでくれと言われたら、俺はそれだけで喜んで死ねる。
だから、その一言がほしい。
突発的に出た一言でもいいから、言ってほしい。
「どうしたら、古泉は言ってくれるかな…」
そんなことをぼんやりと考える。
怒ったら、言ってくれるだろうか。
その手を下してくれるだろうか。
考えながら俺はのそのそとベッドを下り、カバンを掴む。
どこかに行きたい。
こんな寂しい部屋にひとりでなんかいたくない。
俺はあてもなく部屋を出て、それこそ夜明けまで街をふらついた。
時間が遅くなると、古泉もそろそろ帰っているだろうと思い始めるのに、それで帰ってまたいなかったらと思うと怖くて帰れなかった。
携帯の電源を切ったのは、あいつから連絡が来ることを期待するのが苦しかったからだ。
電源を切っていればそもそも携帯は鳴らないんだから、あいつがどうしたって関係ない。
そう自分に言い聞かせるようにして、夜明けまで過ごした。
特に何をしたということもなく、ただ街を歩くだけの夜がこんなに長いなんて思わなかった。
ネカフェやなんかが繁盛するのも頷けるなと眠たい頭でつらつらと思いながら帰ると、今度は鍵が空いていた。
「ただいまー」
今度こそいくらか明るい――しかしながら多分に眠気を含んだ――声で言ったのに返って来たのは、
「こんな時間までどこに行っておられたんですか」
という古泉のいつになく硬質な声だった。
起きて待っていてくれたなんて、心配してくれたんだろうか。
そう嬉しく思いかけるのをぐっと押さえ、
「…お前だって、朝帰りとか増えてるだろ。俺がちょっと遊んできたからって文句言えんのかよ」
と恨み言を吐き出せば、古泉は余計に渋い顔になって、
「どこに行ってたんです?」
と咎めるように問い詰める。
「どこだっていいだろ。ちょっとその辺をぶらついてただけだ」
「それでこんな時間になったと?」
きつく睨まれても俺は動じない。
それが事実だからだ。
「ああ」
「……にわかには信じ難いですね」
「…そうかい。信じないなら勝手にしろ」
つんと冷たいものが胸の中に落ちて痛み始めるのを感じながら、俺は古泉を押し退けるようにして奥に進み、
「全然寝てないんだ。寝させてくれ」
「……おやすみなさい。僕はもう少ししたら出ますから」
「ああ、行ってこい」
それだけ話して、俺は寝室に入り、何時間か前の再現でもするようにベッドに倒れ込んだ。
なんか、もう、疲れたな。
いっそのこと、眠っちまって、そのまま息が止まればいいんだ。
自暴自棄みたいなことを思いながら、俺は目を閉じたが、残念ながらその目が二度と開かないなんてことはなく、昼過ぎに目が覚めた。
と言っても寝た気はほとんどしない。
覚えてはいないが、酷い夢ばかりみていたような気もする。
「あー…くそ、最悪だな」
唸りながら起き出して、冷蔵庫に入っていた飲みかけの牛乳を飲む。
食欲はまるでなかった。
胸の辺りが詰まったような気がしてならん。
「…古泉のばか」
小さく呟いてソファに座り、テレビをつける。
音のない部屋には耐えられそうになかった。
どうでもいい雑音の中でぼんやりと考えるのは、これからのことだ。
古泉は昨日くらいのことじゃあれくらいしか怒らないらしい。
それならもっとやらないとだめなんだろう。
遊び歩いてるようなふりでもしてみせようか。
そうしたら古泉は……俺を死なせてくれるだろうか。
ダメでも、そんな俺にはきっと愛想を尽かしてくれるだろう。
別れ話を口にされたら、いっそ殺してくれと縋ろうか。
別れるくらいなら殺してやるとでも言って襲い掛かったら、抵抗してくれるだろう。
その弾みで俺を殺してくれたらいい。
…ああ、それがいいな。
そうしよう。
自分でも頭がおかしいと思いはする。
思っても、だが、止まれない。
俺にとっては今の状況の方が耐えられない。
こんな苦しさは嫌だ。
だから、と俺は一人の部屋から逃げ出すように飛び出した。
そうして、その日から俺は滅多に部屋に帰らない日々が始まった。
とは言っても、昔そうしていたように盛り場をうろついたりしたわけではない。
そんな気力さえなかった。
ひとりで、極普通のバーで飲んで過ごすか、それさえ面倒なときはネットカフェで夜明かしをしたりするだけだ。
俺の匂いを嗅ぎ付けてか、時折声を掛けてくる人間もいたが、ことごとく断った。
他の誰も要らないし、慰めにすらならない。
俺が欲しいのは古泉だけで、あてつけとしてでも他の男に抱かれたいとは思わない。
古泉から電話かメールでも来るんじゃないかと期待してしまうのが嫌で、携帯の電源は切りっぱなしにする。
古泉の寝ちまった部屋に帰ってから電源を入れても、メールなんかは届かない。
ああ、やっぱりもう俺なんかどうでもいいのかと思うと泣けそうだが、涙は絶対に見せられない。
いつ古泉が起きてくるか分からん状況で涙なんかこぼせるものか。
必死に堪えながら自分のベッドに突っ伏す。
少し前まで、倒れこめばもうそれだけで古泉の匂いがして落ち着いたはずだってのに、今はもう自分のそれしかしない。
もうどれだけ、シてないんだろう。
以前だって、俺からねだることの方が多かったが、こんなにも空くなんて初めてじゃないだろうか。
あいつから求めてくれない。
足りないなんて素振りもない。
それが悲しくて苦しくて、自分で自分を慰める気にもなれない。
早く解放してほしくて、俺の挑発は更にエスカレートしていった。
小さい吸盤でニセモノのキスマークを作ってみたり、俺が付けるはずのない男物の香水の匂いや普段使っているのとはまるで違う安っぽく甘ったるいシャンプーの匂いをぷんぷんさせながら帰ったりした。
それで古泉が反応してくれるのが嬉しかったというのも、エスカレートした理由だったのかもしれない。
「どこに行ってたんですか。誰と会ってたんです?」
嫉妬か憤りか分からないものに満ちたきつい眼差しにすら、恍惚としそうだった。
それを表に出さないように堪えて、
「どうだっていいだろ」
と吐き捨てる。
「よくありません」
きっぱりと言って、古泉は横を通りぬけて自室に向かおうとした俺の肩を掴み、強引に俺を正面から見据えた。
「なんだよ」
低く唸る俺に、古泉は苛立たしげに、
「どういうつもりなんですか」
と問い質す。
「だから、何がだ」
「そんな風に夜遊びをしたりするような人じゃないはずでしょう。何があなたをそうさせているんです」
「……」
分からないのか、なんて問い返せば、胸の内で騒ぎたてるものをどうにも抑えられなくなるような気がして、俺はわざと悪辣に笑う。
「俺のことをお前がどう思ってるか知らんが、俺は自分の好きにするだけだ」
文句あるか、と居直ってみせる。
「…っ、嘘です……」
「じゃあ、なんだって言うんだ? あぁ?」
どこかのチンピラか何かのように唸り、俺は古泉の手を振り解いた。
「もう離せ。寝てないんだ。寝させろ」
「…嫌です」
「は?」
と返した俺を、古泉は抱き締めた。
「今から寝て、それからいつ頃起きて、どこに行くんです? 誰に会うんです? ……そんなことのために、こんな夜更かしをして、今から寝るなんて言うなら、寝かせたくありません」
「古泉……」
それがたとえ、持っているものを他人に取られたくないという程度の感情であっても、嫉妬しているのかと思うと嬉しかった。
同時に、古泉を騙し、苦しめている自分が嫌で、申し訳なくて、胸が苦しくて死にそうになる。
いっそ死にたかった。
古泉の腕の中で、古泉に思われたまま、呼吸を止めたかった。
それでも無理に自分を奮い立たせて、
「っ、離せ」
と暴れる。
「お前だって、どこで誰と何をしてるか、知れたもんじゃないくせに…!」
「どういう意味です?」
「違うとでも言うつもりか? 俺がバイト先に顔を出したら迷惑そうな顔するし、一緒に働いてる男の子にはあんな楽しそうに話してただろ…! 他に、も…っ……」
だめだ、声が震える。
せめてこれが怒りによるものだと思ってくれたらいいと願いながら、
「だから、俺はやり返してやっただけだ!」
ふてぶてしく言い放って、もう一度もがく。
もがくほど、古泉は強く俺を抱き締めてくれる。
そんな風にされるのもいつ以来かと思うと、嬉しさよりも苦しさが強くなった。
「俺が好きにするのが嫌なら、いっそ殺すかどうかすればいいんだ。じゃなきゃ、もっとしてやる…」
そう罵り、挑発したはずだったってのに、古泉は泣きそうな顔で俺を見つめ、優しく頭を撫でた。
やめてくれ。
今度こそ泣いちまう。
「…そんな顔でそんな悲しいことを言わないでください」
「……どんな顔だよ…」
「…今にも泣きそうな顔をしてますよ」
そう言われて、もう、限界だった。
ぼろりと涙が零れたかと思うと、後から後から溢れてくる。
「ひっ……く、ぅ……」
「ほら」
「う、るさい…っ…」
子供をあやすように優しく背中をぽんぽんと叩かれて、余計に涙が止まらなくなる。
いっそ、月夜の電車で裸足で泣いておくべきだった、なんて現実逃避染みたことを考えていると、古泉は殊更に優しい声で囁いた。
「誤解ですよ。…バイト先にあなたが来た時、素っ気無かったのは、あなたとのことがばれてあなたに酷いことを言われたりしたらと思うと怖かったのと、きちんと公私の別をつけなくてはと思っただけだったんです。それから、バイト先の彼のことですが…その、」
と古泉は少しだけ口ごもり、恥かしそうに白状した。
「…高校生の時のあなたに似ていて、懐かしく思っただけなんです」
そんな風に古泉は言い訳をしてくれた。
それが嘘か本当かはもう構わない。
古泉がそんな風に言ってくれて、俺の機嫌を取ってくれることが嬉しかった。
「……俺は…嘘、吐いた…」
泣き濡れた声で白状する俺に、
「…そうだったみたいですね。見抜けなくてごめんなさい……」
苦しかったでしょう、と古泉が言ってくれる。
「くるし、かった…。寂しくて、悲しく、って、でも……俺は、やっぱり、お前以外の誰も欲しくないんだ…」
俺はきつく古泉を抱き締める。
それこそ、力いっぱい、後先も考えずに。
そうして、そっと囁く。
「前にも言ったが、やっぱり、俺は本気でそう思うから、もう一回言っておく…」
「なんです?」
「……愛してる。お前しか要らない。だから……お前がもし、俺を嫌いになったら、俺よりも好きな奴が出来たら、お前に迷惑を掛けたりする前に……俺を殺してくれ。死ねって、言って…。そうじゃ、なきゃ、俺は……死ぬことだって、出来ないくらい…お前が好きだから……」
古泉は泣きそうな顔をして俺に口付け、
「約束します。あなたがそうと望むなら。……でも、」
そう言ってまだ泣きそうな顔のまま無理に笑い、
「僕の方こそ、あなたなしではいられないんです。ずっと一緒にいてください……」
「……ん」
「もっと一緒にいましょう。人に見られて、何を言われたって構いません。あなたのことは僕が守ります」
「……うん」
「…それでも守りきれなかったら、あなたを慰めるのは僕の役目にさせてください」
「…うん」
「……今度、バイト先にも来てくださいね。おまけしますから」
なんてにこっと笑ったその笑みが、俺はやっぱり好きなんだ。
「…ばか」
と小さく笑い返せてよかった。
ほっとしながら俺は古泉に口付ける。
「愛してる」
と馬鹿みたいに繰り返して。