廊下を歩いてきたそいつの姿を見つけて、俺は思わず笑みを浮かべた。 これまで付き合ったことのないタイプ。 得体が知れなくて、素直じゃなくてどうしようもないようなところもあるというくだらないことだけは分かっているのに、どうしてそいつが好きなのか、俺はよく分からないままでいる。 それでも、好きなんだということは分かっているんだから、行動するしかないだろう。 「古泉」 そいつの名前を呼びながら姿を見せると、古泉はぎょっとしたように目を見開いた。 しかしすぐに浮かべた笑みでそれを隠すと、 「また僕を驚かせにきたんですか?」 失礼な奴だな。 俺が廊下にいたら悪いのか? 「悪くはありませんけど……あなたが自分の教室に行くためにここを通るとは思えませんが?」 気にするな。 「…困った人ですね」 肩を竦めた古泉だったが、 「ストーカーみたいですよ」 俺はそこまで暇じゃない。 精々こうやって待ち伏せするのが限界だ。 「やっぱり待ち伏せしてたんですね」 ほっとけ。 別にこれくらいいいだろ。 ほら、もうお前の教室だ。 今日も短かったな。 「教室までの距離は変わりませんから」 お前の歩調もな。 ため息を吐きながら俺は古泉を見送り、自分の教室へ向かった。 よく分からないうちに発生し、そして消滅していった閉鎖空間の中で、古泉に好きだと告げ、また告げられたのはすでに十日ばかりも前のことだ。 遠慮しないと宣言した通り、俺は遠慮のかけらもなくこうして古泉を待ち伏せたりしているわけだが、笑顔のマスクを被った古泉は俺が思っていた以上に意志が固かった。 放課後の部室での接触を多くしてみたりもしているんだが、それへの反応も芳しくない。 むしろ、以前より悪化しているのではなかろうか。 警戒して、硬直しているような古泉を見るのも楽しいといえば楽しいが、流石に愉快とは言えない。 どうするべきかな、と俺はため息を吐いた。 退屈な授業の間に、つらつらと考える。 必要なのは勢い、あるいはあいつが流される状況だ。 その勢いをつけるために色々と工作してみているのだが、どうしてああもあいつは理性的なんだろうな。 やっぱり年齢を誤魔化していて、本当は俺より年上なんだろうか。 いつか聞きだしてやろう。 少しでも接触出来る時間を増やせれば変わるかと思っての待ち伏せ作戦だったのだが、いまひとつだな。 一般にはここで少し引いてみて様子をみるんだろうが、引いてみるという作戦はすでにやった。 その時も古泉のポーカーフェイスは変わらず、しかも俺の方に出た影響の方が大きかったため、無意味に等しかった。 いや、結果だけを見ればそのおかげであいつの本音を聞き出せたわけだから、よかったのかもしれない。 だが、あんなことはもうごめんだ。 よって引いてみるというのは却下。 口説くというのも俺のキャラじゃないし、大体どう口説けっていうんだ。 俺のボキャブラリーにはそんな時に使える用語はほとんど入っていない。 そうなるともう選択肢はほとんどなかった。 次の休日、それも夕方になってから、俺は古泉に電話を掛けた。 すぐさま電話を取るのは習慣なんだろうか。 『なにかありましたか?』 第一声がそれかよ。 確かに俺がお前に電話をするといえばハルヒ絡みで何やかやあった時が多いが、その反応はないだろう。 『すみません、つい』 と笑う気配がした。 どんな顔で笑ってるんだ、と思いながら俺は尋ねた。 「お前、今家にいるか?」 『いますが…まさか、家にくるつもりですか?』 なんだそのまさかってのは。 素で驚いた声を出しやがって。 「昨日、生物のノート借りただろ。それを返しにいこうと思ったんだが、まずいか?」 『あなたを煩わせるまでもありませんから、月曜日でいいですよ』 「うるさい。家にいるんだな?」 俺は言いながらドアホンを押した。 「さっさと開けろよ」 電話の向こうからため息が聞こえ、俺は苛立ちながら通話を切った。 少ししてドアが開く。 「邪魔するぞ」 「…どうぞ」 古泉の顔に諦観と書いてあるような気もしたが、気にしないでおく。 夏以来、と言っていいのかいけないのか分からないが、とりあえずあの時と部屋の状態は変わっていないようだった。 まるでそうしなければいけないと厳命が下されているかのように古泉は俺にソファに掛けるよう勧め、俺の前にアイスコーヒーを出したが、その顔にはやっぱり警戒が見えた。 「ノートを返しに来ただけ、ではないんでしょうね」 とため息を吐いた。 とことん失礼でムカつく奴だな。 それなのに嫌いになれない自分にもかなり腹が立つ。 「そうだ、と言ったらどうするんだ? 追い返すのか?」 「追い返せるものならもうしてますよ。僕としても、聞きたいことはありましたし」 聞きたいこと? さて、何のことだろうか。 こいつは時々思いも寄らない方向に思考を発展させた挙句一人合点する時があるから、質問の内容も予想出来ないんだが。 「それならお前から言え」 俺の方が多分話は長くなるだろうから。 そう言うと古泉は少し躊躇った後、真剣な顔で言った。 「あなたはどうしてあんなに大胆なんです」 大胆、と言われるほどのことをした記憶はないんだが…。 「人目の多い所で不自然に話しかけてきたり、涼宮さんがいる部室でもやけに顔を近づけてきたりするでしょう?」 おいコラ。 それをお前が言うのか? どちらかと言うと顔を近づけてきたりするのはお前の得意技だろう。 確かに、待ち伏せたりするのはあれだったかとは思っていたが、なんで俺だけが責められなければならんのだ。 自分のことを棚に上げるな。 「僕、そんなに顔近いですか?」 自覚なしだったとは恐れ入るね。 だが、誰に聞いてもお前は距離を詰めすぎると答えると思うぞ。 しかも、俺限定でな。 というか、自覚があって、俺を誘っているとばかり思っていたんだが、それも違ったのか? 「さ、誘うだなんて…」 顔を赤らめてみせるのはいい。 だが、なんだ? 無自覚のお前に踊らされてたのかと思うと非常に情けないような気持ちになるんだが。 俺は脱力の余り、ため息と共にソファに沈みこんだ。 こうなると決心が鈍るんだが、どうしたものか。 「あなたの話はどうなったんですか?」 今それを聞くのかよ。 俺はもうひとつため息を吐いてから体を起こした。 すると古泉がくんと鼻を鳴らし、 「何かいい匂いがしますね」 それには気付くのかよ。 本当にこいつのパラメータはどういう風になってるんだ? ひたすら適当に振り分けてあるんじゃなかろうか。 「風呂上りだからな」 自暴自棄になりかかりながら俺がそう答えると、古泉はいつもの憎たらしい笑顔のまま、 「こんな時間帯にですか? それはまたどうしてです?」 「……本気で聞いてるんじゃないだろうな?」 しかし、古泉は本気で聞いていたらしい。 軽く首を傾げて見せた。 俺はため息を吐き、内心で唸り声を上げた。 ――いっそ帰ってやろうか、こん畜生。 しかしこれで帰れるようならわざわざ準備万端でここに来たりしているはずがないわけで。 俺はこれ以上の会話を諦めて、ソファから立ち上がった。 「お帰りになられるんですか?」 問い掛けてきた古泉へ違うと首を振り、古泉の膝にすとんと腰を下ろした。 古泉が驚きと焦りに目を見開き、 「なっ…、なんですか!?」 俺は、どうすればお前が落とせるのかとずっと考えてたんだよ。 お前ときたら変に鈍いし頭も固いし、妙なところで律儀なくせに無自覚に人を誘惑してくれるからな。 「ゆ、誘惑って…」 そうやって顔を赤らめて、絶対誘ってんだろ。 違うとは言わせん。 言いながら俺は古泉の唇にキスした。 唇に噛み付いてやろうか。 それとも舌を吸い出してやろうか。 物騒なことを思いながら、時代物のように「口吸い」とでも表現した方がいいようなキスを繰り返す。 正直に言うと、今日はこれが目的で来たんだった。 なかったことになっているとはいえ、夏に一度こいつを押し倒しているし、その時も、それからこの前にも、こいつは俺を好きだと言った。 それなら必要なのはきっかけだろう。 俺は、そのきっかけとして、押し倒してやろうと思っていた。 一人掛けのソファの背に、まだショックが抜けていないらしく腑抜けている古泉を押し付け、そのシャツのボタンを外していく。 色白なのと優男風の顔立ちのせいで体も細いのかと思わされるが、古泉の胸板は意外としっかりしていた。 露わになった肌の色に、確実に興奮しかかっている自分がいる。 このまま流されてくれ、と願った次の瞬間、 「や、…めてください!」 思い切り突き飛ばされた。 おかげで俺はソファから落下し、テーブルで強かに背中や頭を打った。 痛くて声も出ないというのが久し振りであって、初めてじゃないというのもどうかと思う。 だがそれ以上に、古泉にここまであからさまに拒まれたのが痛かった。 「す…すみません! 大丈夫ですか!?」 我に返ったように古泉が俺を助け起こそうとしたが、その手を振り払った。 俺は自分で体を起こし、そのまま床に座りこんだ。 目の辺りが濡れてる気がするんだが、頭から血でも流れてるのか? そうじゃないと分かっているくせに、そうやって自分を誤魔化そうとする。 見苦しく、汚い自分。 ぼろぼろと涙が零れ落ちていく。 脳裏をよぎるのは、あの九千何回目だかの8月31日の夢についての古泉の感想だ。 ――『手慣れた感じがいくらか残念』。 そんなことを今更言われたって、俺にはどうしようもない。 これまでの経験値を全部ゼロに出来て、それで古泉が喜ぶなら、いくらだってしてやるさ。 知らないフリをしてカマトトぶるのも嫌だ。 俺を今のまま、認めて、好きになって欲しい。 それも心だけじゃなくて、体も繋げてしまいたいと願う。 その浅ましさが、嫌なんだろうか。 図々しさが。 「あの…」 古泉の声に引かれて顔を上げると、俺の前に膝をついた古泉が困りきった顔をしていた。 それを見ていられなくなった俺は、もう一度視線を床に落とし、情けない涙声で尋ねた。 「…嫌いに、なったか……?」 そうならそうと言って欲しい。 中途半端な希望や期待は余計なだけだ。 答えが来るまでが怖かった。 だがそれは本当に短い時間だったらしい。 「嫌いになんかなりませんよ!」 慌て、焦った声に驚く俺を、古泉が抱きしめた。 「あなたのことが好きだと、言ったでしょう? あなたに想われて、どうしてあなたを嫌いになるんです」 「なら、なんで…」 「…あなたのことを想うからこそ、僕はあなたと付き合ってはいけないと思うからです」 なんだよ、それ。 「もし、僕とあなたが付き合ったとして、それを涼宮さんに知られたら、どうなると思います? 涼宮さんはきっと傷つき、閉鎖空間を発生させ、それで済むならまだしも、世界を改変させるかもしれません。あなたが自分に無関心で、しかも朝比奈さんと仲良くしていたというだけで世界を改変させようとしたほど、涼宮さんはあなたに特別な感情を抱いているようですから」 それだけじゃありません、と古泉は話を続けた。 「隠さなければならないのは涼宮さんだけではありません。誰かに見られて、それで噂になってしまってはいずれ涼宮さんの耳に入り、結局同じことになるでしょう。また、機関にも知られるわけにはいかないでしょう。機関がそれを知った場合、なんとしてでも僕をあなたから引き離そうとするでしょうから」 古泉は力なくも健気に笑みを作り、 「ですから、――今の状況が一番いいんです。友人としてでもあなたの側にいられる、それだけで」 俺は満足出来ないぞ。 それにだな、機関もなんだかんだと偉そうに情報収集をしておきながら、俺が真性のゲイだってことにも気がついてないんだぞ。 それなのに恐れる必要があるか? ハルヒや世間にしても同じだ。 これまで自分の性癖を完璧に隠し通してきたんだ。 相手が神でも変わるものか。 それにだな、と俺は目の前で情けない顔をしている古泉を睨みつけて言った。 「自由に生きられないなら、生きてたって意味ないだろ。好きな相手の側にいられるだけじゃ俺は嫌なんだ。友人で満足出来るならゲイになっちゃいねえよ。恋愛くらい、好きにさせろ」 俺は生まれついての許婚がいるわけでもなければ、どこかの王族でもないんだ。 自由恋愛を責められる筋合いはない。 言い切った俺を呆れたように見つめていた古泉が、ふっと微笑んだ。 自然な笑みだ。 思わずそれに見惚れた。 「あなたがそんなに情熱的な人だとは思いませんでした」 うるさい、それは聞き飽きた。 可愛げの欠片もなく吐き捨てた俺を優しく抱きしめ、古泉が囁いた。 「一蓮托生どころか、世界をも巻き込んでしまうことになるかもしれません。あまりにもリスキーですけど、でも、あなたとなら、なんだって乗り切れるような気がしてくるから不思議ですね」 そりゃあ覚悟してるからな。 「愛してますよ」 甘ったるい声でそう囁いて、古泉が俺を床へ押し倒す。 絨毯がちくちくと痛痒いということにさえ気をとめず、俺は笑みを浮かべながら、言うまでもない言葉を口にしたのだった。 |