自慢するような話ではないが、俺は古泉以外の男と付き合ったことがある。 と言っても中学生の時だから、至って清純なもので、どちらかというと、知識を教え込まれただけという気もする。 付き合った相手の多数は俺より年上の、根っからのゲイという人だったし、だからこそ、無理はさせられなかった。 付き合うというのもむしろ、友人感覚に近かったのかもしれない。 別れる時に大泣きしたのはほんの一握り。 ゲイだからというよりもその人に本気で惚れて付き合った、ノン気相手の時だけだ。 あとは大人しく諦めた。 そういうものだと思っていた。 だから、正直、古泉にここまで執着している自分に驚き呆れていたりする。 第一、年下というパターンが初めてだ。 はじめは同い年だと思っていたにしても、俺がリードしたのは紛いもない事実であり、この執着心も、それゆえじゃなかろうかと思う。 もし、古泉に別れ話を切り出されたりしたら、これまでになく泣き喚くんだろうな。 考えるだけでもため息が出る。 赤信号で自転車を止めたところで、声を掛けられた。 「よ、少年。久し振りだな」 聞きおぼえのある声に顔を上げると、知った顔が笑っていた。 名前も知らない、ただ、一時期付き合っていて、そこそこ好きだった人だ。 彼は俺を少年と呼び、俺は彼を先輩と呼んでいた。 今でも並んで歩いている時に先輩と呼べば何の違和感もなく、彼も高校生位と思われるのだろうというくらいこの人は若く見えた。 実年齢は俺より十近くも上だったと思うんだが。 彼はもう二年ほど前に見た時と変わらない笑顔で言った。 「元気か?」 「元気ですけど…珍しいですね」 俺が走っていたのは駅前に至るそこそこ大きな通りだ。 彼が通ってもなんら不思議はないが、夜の仕事に就いているはずの彼が日曜の午前中に道を歩いているのが珍しかった。 「ちょっと用事があってな。少年は?」 「俺はこの先の駅前で人と待ち合わせです」 「男か?」 ニヤリと笑った顔は誰かに似ている。 俺は悪辣な笑みを返しながら、 「男です」 「若いってのはいいね。相手は? おっさんか? それとも俺くらいの奴か?」 「どっちも違います。俺より年下ですよ」 「あれ、少年はおっさん好きじゃなかったっけ」 「なんでそうなるんですか」 「付き合ってたのは大抵年上だったろ」 「そりゃあそうですけど」 中学生のうちから自覚して盛り場と称される夜の公園をふらつくようなゲイなんてそんなにいないだろう。 結果として、年上にご教授願う形になっていただけだ。 「いつしか少年もリードする側に回っていたか」 「放っといてください」 図星を刺されて赤くなった俺に、彼は楽しげに笑いながら、 「今、いくつだっけ?」 「十六ですよ」 「知り合ってから結構経つのに、まだ若いんだから羨ましいな」 「それ、日本語として変ですよ」 「どうだい少年、今度一晩――」 「お断りです」 言い終わる前に俺はすっぱりと言った。 「二年前には少年の方から抱いてって言ってきてたのになあ」 残念そうに言った彼に、俺は苛立ちを込めて笑った。 「それを拒んだのはあんたでしょうが」 そうして固めた拳を彼の腹へ叩きこむ。 あの時傷ついた俺の痛みの一欠片でも思い知れ、とばかりに。 「っ……少年、力がついたな…」 「それくらい堪えないでしょう。それじゃ、遅刻するんでこれで。…言っておきますけど、人といる時に声を掛けてきたりしたらあんたでも許さないんで」 「へいへい」 痛そうに顔を歪めながら彼が歩いていくのを見てから、俺は時計を見た。 時間ギリギリになりそうだった。 古泉のことだからどうせ先に着いていて、主人を待つ犬の如く大人しくしているんだろう。 俺は自転車を放り出すように止めると、待ち合わせ場所に立った。 これもまた珍しく、古泉はまだ来ていないようだった。 時計を見ると、ちょうど待ち合わせの時刻だ。 古泉でも遅刻することがあるのか。 俺は小さなベンチに腰を下ろして少し待った。 五分が経過し、十分が経過しても、古泉は現れない。 どうしたんだ? 何かあったんだろうか。 心配になりながらももう少しだけと待つ。 待ち合わせの時間を二十分も過ぎたところで俺は携帯を取りだし、古泉へ掛けた。 しかし、繋がらない。 電源を切っているらしい。 古泉はあのバイトの連絡が入るからか、滅多に電源を切らない。 妙だ、と思うと共に胸騒ぎを覚えた。 俺は自転車に乗ると古泉のマンションへ向かった。 合鍵は随分前に渡されたきり、ほとんど使ってない物を持っている。 使っていない理由はひとつ。 あいつがいない部屋に用はないからだ。 何度も通った通路を抜けて、古泉の部屋の前に立つ。 ドアホンを鳴らし、乱暴にノックするが応えはない。 いきなりバイトが入ったとかいうなら連絡を寄越しそうなものだし、それならなおさら携帯の電源が切れているわけが分からない。 部屋の中で倒れていたりしないだろうな。 俺はポケットから鍵を取り出し、鍵を開けた。 室内はやけに静かで、薄暗かった。 電気が点いていないから、やっぱり留守なんだろうかと思ったが、玄関に古泉の靴とカバンが散乱と形容していいような状態で置いてあった。 「古泉、いるんだろうな?」 声を掛けながら靴を脱ぎ、上がりこむ。 居間をのぞいても人影はなかった。 それなら、と寝室へ向かうと、妙な物音が聞こえた。 すすり泣き、とでも言うんだろうか。 要するに、鼻をすするような音と、しゃくり上げる音だ。 「古泉、入るぞ」 ドアを開けると、そこはやはり電気が消えたままだった。 空が曇っているせいもあるんだろうが、かなり遮光性が高いらしいカーテンのせいで、昼と思えないほど暗い。 手探りで電気を点けようとすると、 「点け…ないで……っください…」 情けなく嗚咽に滲んだ声がした。 「点けないと見え難いだろうが」 「見ないで…ください……っ」 そんな風に泣かれて、放って置けると思うのか? むしろ加虐心をあおられ……いや、なんでもない。 俺は電気を点けると、布団の中で丸くなって泣いているらしい古泉の隣りに腰を下ろした。 「どうしたんだ? 古泉」 古泉は黙ったまま答えない。 答えないと話しようがないんだが……どうしたものかな。 しかし、古泉がここまで泣くって、一体何があったんだ? 分からんな。 「俺に、話せないことなのか?」 問いながら、俺は放り出されていた携帯の電源を入れる。 「俺でダメなら森さんなり新川さんなり、とにかくお前の話を問題なく聞けそうな人を呼ぶぞ」 「…めて、ください」 やめてくださいと言ったんだろうか。 俺はため息を吐きながら、 「古泉、話してくれないと分からん。何とか言ってくれ」 すすり泣く声が少し続いた後、古泉が小さく聞き取り辛い声で言った。 「今日……あなたが来る頃だと、思っ、て、……あなたの、いつも、来る道へ……行ってみたんです……」 それで分かった。 納得した。 お前、俺があの人と話してるところを見たんだな。 しかも、途中までしか見なかったと見た。 「だ、って、……ひっく…あなたが、あんな、楽しそうにしてるところなんて……見てられま、せん……」 最後まで見てたら、俺があの人の腹をぶん殴るところも見えただろうに。 「あの人は……なんなんで、すか…」 「何って……」 俺は答えるのを躊躇った。 この状態の古泉に言って、果たしてまともに話し合えるんだろうか。 むしろ古泉が余計に自暴自棄になる気がする。 かといって嘘を言ったり黙っているのもまずいだろう。 「言えないんですか…?」 古泉の声が震える。 俺は諦めて答えた。 「あれは…昔付き合ってた奴で、今は何でもない」 だから、と俺は古泉の布団に手を掛ける。 「お前が妬く必要は欠片もない。いいからとっととそこから出て来い」 「い、嫌です!」 「なんだと」 古泉のくせに逆らうのか? 「こんな情けない姿を、見せたくありません…」 「情けない姿くらいこれまでにも見てるし、今の状態だって十分情けない」 イライラしながら言うと、古泉はまたぐずぐずと泣き始めた。 こういうところだけは年相応、あるいは年以上に子供みたいだな。 「言っておくがな、」 俺はむかつきを隠しもせずに言った。 「前にも言った通り、最後までいったのはお前だけだぞ」 最後までじゃないなら数人いることは今は黙っておこう。 「なのになんで過去の野郎にまで嫉妬するんだ?」 というか、これで万が一にでも古泉に振られるような自体になったりした日には、俺はかなり割を食うんだが、その辺りの補償は誰に求めればいいんだ? 「なあ、古泉、出て来いよ」 そもそも今日は何のために待ち合わせたんだった? 前にまともに過ごせたのが二週間前で、今日こそはやる気だったはずなんだが…。 この調子でなかったことにされたら俺の欲求不満はどうなるんだ? 「古泉、出て来い」 言いながら俺は羽織っていたシャツを脱ぎ捨てた。 Tシャツも脱ぎ捨て、ベルトに手を掛けたところで、布団の塊と化していた古泉が口を聞いた。 「なんだか…不穏な音が聞こえる気がするんですけど…」 不穏とは何だ失礼な。 「今出てきたら俺のストリップ状態を見れるわけだが、それでもまだ出てこないつもりか?」 「……あなたはアメノウズメですか…」 「そんないいものじゃないだろ」 いいからとっとと出て来い。 出て来ないと俺の方から布団に入るぞ、と俺はズボンも何も脱ぎ捨てた足を布団の中へ突っ込んだ。 ぶつかったのは古泉の脚か。 「ちょ、っな、何する気ですか!!」 そんなもん聞くなよ。 「そうやって、誤魔化すつもりなんですか?」 誤魔化すつもりはないとも。 ただ、言葉で語らないなら身体で語らせてやろうというだけで。 俺は足で古泉を押さえ込み、布団を引っ張った。 ずるずると布団を引き摺ると俺が布団の中に入る代わりに古泉が押し出された。 ちらりと見えた古泉の顔は今まで泣いていたとはっきりと分かる顔だったが、ちらりと見ただけなので気にしないことにする。 俺は布団の中に潜りこみ、古泉の服に手を掛けた。 外に出て、帰って来るなりそのまま布団に突っ込んだんだろう。 服装は外出着らしくガードの固いボタンやなんかが多い服だ。 布団に入るならスウェットパンツでもはいてりゃいいのに。 脱がせ難いじゃねえか、この野郎。 「ちょ、何してんですか!!」 「脱がせてる」 「そういう意味じゃなくてですね…!!」 じゃあどういう意味だ。 俺は正直に答えたぞ。 ちなみに今はベルトを引き抜いているところだ。 「やめてください…っ!」 古泉の声が泣きそうになっている。 人を強姦魔か何かだと思っているんだろうか。 「今の状況なら似たようなものでしょう!?」 文句があるならお前の方から襲ってみろ。 「ど、どこを触ってるんですか!!」 「具体名を俺に言わせたいのか?」 「いえ、やっぱりやめてください。触ること自体もやめてください」 「傷心のお前を慰めようとしているのに、悪いのか?」 「そうじゃなくてですね…」 「うるさい」 俺は古泉を頭まで布団の中へ引きずり込み、口を塞いで黙らせた。 人間は、適度に身体を動かし、汗をかくことでストレスを発散出来るものだ。 しかも気持ちがよくて、連帯感をも感じられるなら、これ以上の方法はないと思わないか。 「そうやって、妙な方向に自分を正当化するのはやめてくれませんか…」 俺はすっきりしているのにどうしてお前はそんなにぐったりしているんだ。 「そういうことは自分の行動を見直してからにしていただけませんかね……」 それで、機嫌は直ってないのか? 「機嫌も何もありませんよ」 ため息を吐く古泉を抱きしめてやると、古泉に苦笑された。 呆れられているんだろうか、これは。 「呆れてはいませんよ。困っているだけで」 どう違う。 「あなたに誤魔化されてしまいそうな自分に困っているんです」 誤魔化されたくないのか。 「当然です。あなたのことを知りたいと思うのに、その機会を失いたくありません」 ……そんなに知りたいか? 「知りたいですね」 「仕方ない。好きなだけ質問しろ」 俺が言うと古泉はずいっと顔を近づけてきた。 「本当に、いいんですか?」 「ああ」 男に二言はない。 「じゃあ……今日話していたあの人は、あなたの何なんです?」 昔付き合っていた奴だとさっき言っただろう。 「それだけなんですか?」 それだけだ。 「随分、仲が良さそうに見えましたけど」 そりゃあまあ、酷い目に遭わされたというわけでもないからな。 基本的に悪い人じゃないし。 「あなたは一体どれだけの人とどういう付き合いをしていたんです?」 それは俺の男遍歴を説明しろということか。 俺は少し考え込んだが、誤魔化さずに答えてやることにした。 それくらいしてやってもいいと思ったのだ。 「古泉、お前、自分がゲイだという自覚を持ったのはいつ頃だ?」 「僕ですか? 確か、二、三年前です。それが何か?」 「俺は、気がつくとそうだったとしか言いようがない。小さい頃から好きになるのは男ばっかりだったからな。幼稚園の頃には数少ない男の先生にべったり貼り付いていたという話も残ってるくらいだ。それは小学校に上がっても同じで、中学生になる頃にはもう男しか見てなかったな。それで俺は、ゲイが集まるという噂の盛り場に行ったわけだ」 「さ…」 そう呟いて古泉は絶句した。 まあそうだろうなあ。 「言っておくが、いきなりあれこれやろうとしたんじゃないぞ。場所も、公園だったしな。俺はただ単に、マイノリティーであるが故に情報を得られないことに歯がゆさを感じた結果、自分の足で情報を集めようと思っただけだ」 「それにしても……凄いですね」 「放っとけ。――それでだな、俺はそこで知り合った連中に色々話を聞いたわけだ。そうこうするうちに恋人みたいなのが出来たわけだが、どちらかというと先生だったな、あれは」 ちなみにお前に腰を抜かさせたようなキスを教えてくれたのもそういう人たちの一人だ。 「皆俺より年上だったから、俺の事を気遣ってくれて優しかった。だからこそ、俺が痛がるようなことは全然しなくて、最後まではいってなかったというわけだ」 指を入れられたことくらいはあったが。 中学の二年の頃には何度かノン気の先輩に惚れて、告白して玉砕したり、付き合ってもすぐ振られたりして、まあ、散々泣き明かすような目にもあったわけだが、そこは割愛させてもらう。 「とにかく、まあ、なんだ? ……お前は、俺がちゃんと惚れて、最後までやった唯一の相手なんだから、馬鹿みたいに妬いてんじゃない」 なお、男遍歴に関しては具体的な人数を聞かれても答えられない。 何故なら人数を覚えていないからだ。 古泉はにこりと微笑み、 「分かりました。あなたを信じますよ」 そういう素直なところは嫌いじゃない。 俺は腫れぼったくなっている古泉のまぶたへ軽くキスしてやった。 |