あ

あ、キスしたい。
何でか知らんが唐突にそう思った。
古泉にも言われるし、自覚もあるのだが、どうやら俺はキス魔らしい。
言われてみれば、古泉にもキスばかりしてきた気がする。
俺がキス魔とまで言われるのは、古泉からのキスが大抵触れるだけでつまらんから、俺の方からするせいもあるんだろうが。
古泉は俺が思っていたよりずっと初心で経験も浅いようで、ディープキスなんか滅多にしてこない。
触れるだけで十分って、どれだけなんだと俺は呆れるしかない。
まあ、確かに、触れるだけでも気持ちいいと思う。
古泉の唇はちゃんと手入れでもしてるのか、空気が乾燥してきてもがさがさしてなくて、綺麗だ。
キスする時だけじゃなくて、指でちょっと触れるだけでも楽しいくらいには。
しかし、俺の唇はそんな上等なもんでもないのに、何が楽しいんだろうな。
キスするってそれだけで嬉しいとか言いそうで怖いんだよな、古泉は。
怖いと言うか……恥ずかしい？
古泉を見ていると、時々、普段の素振りとは逆にガキっぽい真っ直ぐさが見えることがある。
純粋さとか、純真さとか、つまりは俺が小学生や中学生だった頃に失くしてしまった諸々の物を、古泉はまだ持ってる気がするのだ。
そこいらのすれた女子高生なんかよりもずっと乙女だと思うのは俺の思い違いではないだろう。

「どうか…しましたか？」
古泉が訝るように俺を見た。
「いや、別に」
別にじゃねえよ、素直に言えばいいだろ。
いや、素直に言うのは長門も朝比奈さんもいるのにまずいから、せめて遠回しに外に行こうとか言えばいいだろ、俺。
なんでこうかっこつけるんだよ。
恥も外聞もないくらい欲しいくせに。
というか、古泉、お前も気づけよ。
目の前で恋人が悶々としてんだぞ。
いや、悶々となんかしてない。
してないぞ俺は。
ああもう何言い訳してんだ、俺…。
「今日はオセロの気分じゃなかったんですか？」
「そういうわけじゃないんだが…」
そういうわけだろ。
さっきはともかく今はオセロなんか放り出したくてしょうがないくせに。
「興が乗らないようでしたら、やめましょうか？」
「いや、いい。続ける」
やめるって言えよ！！

ああ……キスしたい。
思わずため息が漏れるが、目の前でオセロの白石を黒石に反転させている野郎はちらとも気付いた素振りを見せやしねえ。
珍しく自分が優勢なのが嬉しいのか、唇が楽しげに緩んでいる。
その薄いピンク色をした唇が、見た目以上に柔らかいことを、俺は知ってる。
昼にもハミガキをきっちりする習慣なのか、いつキスをしたって歯がツルツルして舌触りがいいことも知ってる。
キスで気持ちよくなって、声を上げそうになるのを必死に堪えてる顔も。
時々うっかり上げてしまう声も。
……そういやこいつ、タチなのに喘ぐ時あるんだよな。
流石にあんあん言うわけじゃねえけど、「くっ」とか「はぁっ」とかやけにエロい声で。
エロいと言えばこいつの唇もエロいと思う。
表情も、結構エロい。
やってる時とか、俺がネコのはずなのに、それを忘れそうになるくらい、こいつの表情はエロい。
だから俺は羞恥心を忘れてこいつを押し倒したりしてしまうのかもしれん。
つまりはすべてこいつが悪い。
俺が今キスしたくて堪らないのも、こいつが真正面にいて、唇も頬も首筋もよく見えるのが悪い。
あるいはここが部室で、しかも他のメンバーがいるのが悪い。
いなかったら無理矢理引き寄せてでもキスしてるところだ。
何の前触れもなくキスすると、古泉は一瞬素の表情に戻る。
その表情が、結構好きだ。
驚きと、困惑と、嬉しさが混ざったような微妙な表情。
それを知っている人間が少ないこともあって、好きなのかも知れない。
あの顔が見たい。
キスだけで喘がせてやりたい。
声を上げてしまったことを恥ずかしがっている顔も見たい。
なんだかんだ言って、俺って面食いだよな。
古泉の場合、顔だけじゃなくて声も結構好きだけど。
…ってヤバくないかこれ。
キスしたいって考えてるだけならまだしも、なんでこんな古泉のことばっか考えてんだ。
せめて目の前のオセロに集中して考えをそらせ！
…と、考えるだけで出来るなら不可能はないんだろうな。
さっきから凡ミスばっかりだ。
ああもう頭も回らん。
盤上に落としていた目を上げ、古泉を見る。
いっそのことこの恥ずかしいことこの上ない思考が届けばいい。
そうしたら少なくともこうやってひとりで考え込む必要はなくなるはずだ。
俺はキスがしたいんだよ。
気づけこの馬鹿。
しかし、古泉はいつもの察しのよさを発揮してはくれなかった。
不思議そうに小首を傾げ、微笑んでいるだけだ。
かわいいとか思うな俺の頭！
絶対、今日の俺はおかしくなってる。
何か得体の知れない病気に感染したとか、変な暗示を掛けられたとか、つまりいつもの俺じゃなくなっているに違いない。

オセロの盤上をほとんど真っ黒に塗りつぶされて、ゲームは終了した。
初めてじゃないかと思われるような勝利に、古泉は嬉しそうだが、俺としては途中で全て投げ出さなかったことをむしろ褒め称えてもらいたい気分だ。
理性って素晴らしい。
古泉はニヤニヤしながら、
「僕の初勝利ですね。いやあ、嬉しいものです」
「そうだろうな」
素っ気無く答えた俺を誰が責められる。
全然気がつきもしないこいつに苛立っているんだ俺は。
と、そこへ名案が降って湧いた。
俺は出来るだけ自然に立ち上がり、
「よし、じゃあ俺がコーヒーでも奢ってやろう」
「え？　でも、いつも僕が負けてもそんなことは…」
「お前が負けるたびにコーヒー奢ってたら、俺は今頃コーヒーで溺れ死んでるだろうよ」
いいから来い、と俺は古泉をつれて部室を出た。
向かった先は中庭だが、自販機には近寄らず、古泉の腕を引っ張って物影に連れ込む。
校舎にもたれさせるように古泉の体を押し付けても、古泉はまだ得心のいかない顔で、
「ど、どうしたんですか？」
まだ分からないとしたら鈍感で、分かっていてそんなことを言っているならお前はカマトトだ。
カマトトという言葉ももう死語になってるのかもしれないが。
「えぇっと…」
「もういいからお前は黙ってじっとしてろ」
両手で古泉の頬に触れる。
やっぱりすべすべしてて気持ちいい。
触れたかったものが目の前にある。
親指でなぞると、形のいいそれがくすぐったそうに歪む。
ああ、もういい。
人に見られても知るもんか。
俺はキスがしたいんだ。
目を閉じて、唇を重ねる。
柔らかい。
乾燥してないからリップクリームくらい塗ってるんだろうかと思っていたんだが、古泉の唇はやっぱりさらっとしていて、べたべたしてない。
それが気持ちいい。
それで満足出来るならまだいいだろうにな、と思いながら俺は舌で唇をなぞる。
くすぐったさにか緩んだそこへ舌を割り入れ、滑らかで整った歯列を確かめるようになぞる。
恐る恐るといった感じに応える舌に自分の舌を絡ませて、俺は古泉の首へ腕も絡ませる。
誰かに見られたらいいわけすら出来ない状況だ。
なのに、いや、だからか、俺は余計に興奮して、もっと気持ちよくなりたいと思う。
もっと、と古泉に体重を掛けてやろうとしたところで、古泉ががくんと膝を折った。
そのままずるずると、校舎に体を預けるように沈んでいく。
俺は一緒になって座りこみながら聞いた。
「どうした？」
顔を真っ赤にした古泉は片手で口の辺りを押さえながら、俺から目を逸らして答えた。
「…腰が抜けました」
「……はあ？」
あれだけでか。
「あなたがどう思っているか知りませんけど、僕はこう見えてもそこそこ普通の男子高校生ですから」
と古泉は苦笑し、
「あなたのキスと、艶かしい表情にどうかなりそうです」
俺はお前の顔と声でどうかなりそうだ。
何度も体を繋げてるのに、今更キスで腰抜かすとか……情けないといいたいところだが、勘弁してやろう。

古泉だから仕方ないさ。