俺は古泉が好きだ。 そしておそらくあいつも俺のことが好きなんだろう。 それならくっついてしまえばいいと思われるかも知れないし、俺も実際そう思わないでもないのだが、事態はそう簡単ではないらしい。 あいつは俺があいつが好きだと知っているはずだ。 頭は悪くないらしいし、仄めかされたことも少なからずあるから、まず間違いはないと見ていいだろう。 それでもあいつは俺に対して好きだとは言わない。 理由は簡単――ハルヒだ。 古泉に言わせるとハルヒは俺のことを憎からず思っているそうで、そのハルヒが俺と古泉の交際を許すはずがないという考えらしい。 どうせゲイだってことを隠し通すつもりなら、隠す相手が世間一般でもハルヒでも変わらないと、俺なら思うのだが、本気かどうかはともかく古泉はハルヒを神と崇めているらしいのでそうもいかないらしい。 更に言うなら、ハルヒの精神的ストレスによって発生する閉鎖空間で神人を倒すという役目を負っていることも大きいらしい。 もしかすると、機関の考えも理由としてあるのかもしれないが、機関は古泉が俺を食おうがどうしようが味方に引き込めるなら構わないというようなことを考えていると、冗談だか本気だか分からない感じで古泉が以前言っていたから、その辺りはよく分からない。 また実際機関がそう考えていたとしても、たとえ古泉越しであっても納得がいかなければ俺は絶対に機関に味方したりはしないつもりでいる。 まあ、そんな諸々のことがあって、あいつは俺に告白もしようとしない。 それなら俺からすればいいと普通なら考えるのかも知れないが、これだけ障害があってあいつが了解するとも思えない。 礼を言って断るということさえしかねない。 だから俺はあいつに告げない。 俺のこの苦しみも、思いも。 ――と、そう誓っていたものの、どうも踏ん切りがつかないのはおそらく、古泉の接触過剰のせいなんだろう。 向かい合ってゲームをするくらいならともかく、ちょっとした会話でどうしてキスでもするみたいに顔を近づけるんだ、あいつは。 公衆の面前で擦り寄ってきたこともあったな。 そのくせやけに真摯な表情で話しかけてくることもしばしばだ。 どれも狙ってやっているとしか思えないくらい、俺の決意を揺らがせる。 それじゃあまずいんだろう? 古泉。 俺とお前はあくまでも友人、SOS団の団員でなければならないとお前の神様は言うんだろ? それならいっそのこと見向きもしないでくれ。 俺のことなんか邪魔な路傍の石か何かのように扱ってくれ。 その方がずっと楽に違いないから。 中途半端が辛いことは誰だって知っているはずだ。 それとも、俺が古泉に接触を許すのがまずいのか? それなら――と、俺はまたひとつ、決めたのだ。 授業が終って、俺はいつものように部室に向かった。 そこには、どうしてか常にと言っていいほど高確率で俺より到着が早い三人が揃っており、いないのは団長であるハルヒだけだった。 全く、団長ってのは社長出勤でいいのかね、と思いながら俺は椅子に腰を下ろし、――定位置にあったそれを、横に少しずらした。 そうすると古泉を正面に捉えずに済むからだ。 古泉は怪訝そうな顔をしていたが、ひとりでいじっていたオセロを手で示して見せたが、俺は黙って首を振り、カバンの中から薄っぺらい文庫本を一冊取りだした。 長門と違って俺は厚物好きじゃない。 人生における道標のひとつも得たいのならともかく、時間を潰したいというだけなら内容も薄いライトノベルで十分だ。 「珍しいですね。今日は読書ですか」 わざわざ尋ねてくる古泉に俺は出来うる限り素っ気無く、 「ああ」 と答えながらも、さもそれが読みたくて堪らないのだと言うように本から目を離さない。 実際は文字の羅列をなぞっているだけに過ぎない。 おかげで一ページ進むのにも時間がかかる。 古泉はなんとなく察したのだろうか、少し困惑する様子を見せながらも再びひとりオセロに戻った。 普段と違う、俺の、あるいは俺と古泉の様子に朝比奈さんが戸惑っているのは、見ていて心苦しいものがあったが、事情を説明するわけにもいかず、心の中で手を合わせた。 それからもう数日が経過するのだが、俺はまだそのストライキ染みた行動を続けていた。 つまりは、古泉を構うのをやめ、出来るだけ接触を避けるようにしたのだ。 そうすれば多少はあの落ち着きのない動悸息切れ思考混乱その他の症状から逃れられるかと思っていたのだが、どうやらそれがもうひとつ上手くいっていないことは誰の目にも――そう、不本意ながら誰の目にも、明らかだった。 自覚症状としては妙にぼーっとしたり、なんでもない時に突然古泉のことを思いだしたり、脳内にあの甘ったるいと言っていいような声が自動再生されたりという程度なのだが、それでも十分おかしいと思う。 だが、周囲で客観的に俺を見ている国木田や谷口に言わせると、俺は季節外れにもかかわらずインフルエンザ脳症を発症しているか、タミフルだかタニフルだかいう薬によって脳を犯されているとしか思えないくらい挙動不審であるらしい。 恋に悩むとかいった表現がそこにちらとも現れないことを、人目を忍ぶマイノリティーとして喜ぶべきなのだろうか、はたまた一個の人間として嘆くべきなのだろうか。 ハルヒにはことある毎に「あんたおかしいわよ」と連呼され、朝比奈さんには薬のような味のする、体にいいらしいお茶を飲まされた。 今日も今日とてハルヒの非難するような視線を受けながらひたすらに読み進まない文字の羅列を悪戯に目で追っていると、不意にハルヒが言った。 「ねえ、最近はキョンとゲームとかしないの?」 尋ねた相手は古泉であるらしい。 俺は興味ないような顔をして、じっと耳をそばだてた。 「ええ、彼が本に夢中なもので。もう秋ですし、読書の秋ということではないでしょうか」 「でも、それからよね。キョンがおかしくなったのって」 お前、仮にも本人がいるところでそういうことを話すなよ、と思うも突っ込む気力もなければ必要もなかった。 何故ならハルヒの思考は妙な方向に暴走を始めたからだ。 「もしかしてその本に何かあるとか? もうずっと同じ本よね、それ」 それは否定しない。 何故なら恐ろしくページが進まない上に数ページ進むともう数ページ前のことを忘れ、登場人物の名前さえ覚えきれないという状態なのだ。 一冊読み通せる訳がない。 「実は呪いが掛けられた本とか?」 見なくてもハルヒの嬉々とした顔は予想出来たのだが、俺は呆れながら顔を上げた。 「ただの市販の文庫本に呪いも何もあるか」 そんな量産品の呪いの本があったら真っ先に書店か出版社が潰れるだろうよ。 だがハルヒはまだ妙な考えを捨てられないらしい。 「わかんないわよ。たまたまあんたが手に取ったそれだけがそうだったのかも」 やめてくれ、冗談じゃない。 特にハルヒの発言のせいで、いや、ハルヒがそう考えただけでこの本に呪いがかかったら面倒だ。 俺は本を閉じ、ハルヒに言った。 「おい、今パソコン使ってるのか?」 「ううん、もうメールチェックとかしたから、いいわよ。何かするの?」 「お前が活動記録を更新しておけって言ったんだろうが」 「そんなのもう大分前じゃない。まだしてなかったの?」 「うるさい」 俺は団長席であるデスクに座り、ハルヒは入れ代わりに俺が座っていた椅子に移った。 そうしてハルヒは身を乗り出し、 「ねえ、古泉くん、キョンとけんかでもしてるの?」 内緒話ならもうちょっと小声でやれ。 「うるさいわよキョン。で、どうなの? 古泉くん」 古泉はちらっと俺を見た。 俺はすぐに目を逸らす。 目を逸らしたから古泉の顔は見えなかったが、いたって普通に、 「してませんよ」 と答えるのが聞こえた。 しかしそんな返事では我等が団長殿が承知するはずはない訳であり、案の定ハルヒは眉間に皺まで寄せながら、 「じゃあなんであんなに露骨に避けてるのよ」 「それは僕が何か彼の気に食わないことをしてしまったからではないでしょうか。身に覚えがないと言い切れないこともないではないですし」 それは身に覚えがあるのかないのかどっちだと言いたくなるな。 「ケンカならさっさと仲直りしなさいよ。SOS団全体の士気に関わるんだからね」 ハルヒは団長らしく偉そうにそう言ったが、そりゃあ全体の五分の二が険悪なら全体も奮わんだろうな。 俺はツッコミを口に出す気も起こらず、結局SOS団のサイトを更新することもなく、だらだらと時間を過ごした。 その夜、俺はこれ以上ハルヒに文句を言われないよう、もう少し読みかけの本を読み進めようかとベッドにだらしなく横になったまま本を開いた。 読もうと思えばそれなりに進むもので、これまでの遅れを取り戻すようにページを繰っていたのだが、不意に、世界が半回転するように視界が回った。 まさか、ハルヒの突拍子もない発想が実現してしまったのか? 俺は長門に確かめなかったことを悔やみながら、意識を失った。 ――目を覚ました時、そんなに時間が経っているとも思えなかったが、辺りの様子は確実に変わっていた。 灰色をした決して居心地がいいとは言えないような空間も、建物の様子も確実に見覚えがあった。 閉鎖空間――それも、古泉につれてこられたあの場所だ。 そんなところにどうして俺がいるんだ、と思うと共に俺はひとつ疑問に思う。 神人とかいうあのバカでかい青色の塊の姿が見えなかったのだ。 だからというわけでもないだろうがこの閉鎖空間はあの時よりもかなり小さく見えた。 精々直径数十メートルといったところだろうか。 目測の上、かなりいい加減だが、まあそんなものだろう。 そして、神人がいないからか、あの赤い飛行体も見当たらなかった。 とりあえず出られないだろうかと俺はぼんやりと立っていた交差点を離れる。 試しにと、ドーム状になった空間の、俺からおそらく一番近いだろう端に行ってみたのだが、それはハルヒと共に閉じ込められた時のように俺を弾いた。 参ったなんてものじゃない。 俺はどうなるんだ? こんな人の気配もないどころか生き物の気配さえしないところにたったひとりで閉じ込められるなんて、考えてもみなかった。 当然、心構えなどもない。 ほんの少しの間居ただけでも気が狂ってしまいそうな気がするほどの静寂が、恐ろしかった。 縋れるのは小さな可能性だけだ。 つまり、機関とやらのメンバーがこの閉鎖空間に気付き、かつここにきてくれると言う可能性だ。 だが果たして神人もいない、つまりは消すこともできないであろうこの閉鎖空間に超能力者たちが気付くのだろうか、また気付いたとしてもわざわざ入ってくるだろうか。 あるいは、この空間に入ってこれるのだろうか。 それさえも阻まれる可能性がないとは言い切れないだろう。 俺はおそらく生まれて初めて、神様とやらに祈った。 勿論それはハルヒではない。 俺にとってハルヒは神ではなく、とりあえずただのクラスメイト兼あまり尊敬したくない団長でしかないからな。 そんな信心深いとは言えないだろう俺の祈りらしきものを、神は聞き入れたらしい。 赤い球体がひとつ、空に見えた。 全く、慈悲深いね。 しかし、空を飛んで現れた赤い球体は俺の目の前で古泉に変わった。 神様ってのもなかなか皮肉が上手いらしい。 どんな顔をすればいいのか分からない俺に、古泉はあからさまにほっとした顔を見せた。 「よかった…」 そのまま俺の存在感を確かめるように俺を抱きしめ、背中に回した手できつく締め付けてくる。 泣き出しそうな声で、古泉が言う。 「長門さんから…あなたがいなくなったと聞かされて、どれだけ心配したか……」 「長門が?」 「ええ。あなたが閉鎖空間に取りこまれたと」 「それでお前ひとりで探しに来てくれたのか?」 「いえ、そうではないんです。事態はもっと複雑でして…」 と古泉はため息をついた。 「あなたもお気づきでしょうが、ここは普通の閉鎖空間とは違います。神人の姿が見えないこともそうですが、僕以外の仲間はこの空間に入ることさえ出来なかったのです。入ることが出来た僕も、どうやら出ることが出来ないようで……」 ちょっと待て。 それじゃあ八方塞だろう。 助けも期待出来ないまま、お前と二人っきりでここにいろってことか? 「長門さんが解析を進めてくださっているはずですので、脱出は可能になるとは思いますが」 少なくともしばらくはお前と二人きりと言うことか。 「……参ったな…」 思わずそんな呟きが口をついて出たのだが、古泉は聞こえなかったのか何も言わなかった。 俺たちはほとんど言葉も交わさないまま適当に歩き、見つけた階段に並んで座りこんだ。 古泉がいるだけでも、ひとりで突っ立っていた時よりはずっとマシなはずなのだが、どうしたらいいのか分からないせいで、よっぽど絶望感が増した気がする。 その上このところ古泉を避けていたこともあって気まずさも強い。 何かどうでもいい話でもいいからするべきか、と俺が考え込んでいると、古泉が先に口を開いた。 「このところ、僕を避けていた理由をお聞きしてもよろしいですか?」 こんな時にする話でもないだろうと思ったが、他に話題もない。 答えずにいるのも、数日の「古泉断ち」で古泉との会話に飢えていたらしい俺の口が許さなかった。 「お前ならわざわざ聞かなくても分かってるだろ」 「そうですね…。予想はついています。ただ、それが正解だと言う保証はないでしょう」 言ってみろよ。 違ってたら訂正してやる。 「分かりました。多分に僕にとって都合がいい解釈なので自意識過剰だと罵られるかもしれませんが。――僕があなたに対してはっきりしないから、あなたの方から僕を切ることにしたのでしょう? だから未練を断ち切るため、僕との接触自体を避けた。ここ数日様子がおかしかったのはその禁断症状といったところでしょうか」 俺の葛藤も何もかも無視した、恐ろしく簡潔な表現だがまあ間違ってはいない。 だが、 「分かるんだったらなんでわざわざ聞…」 言い掛けて、俺は絶句した。 古泉が見るからに嬉しそうに笑っていたからだ。 その笑いの意味が、俺には分からなかった。 俺の都合のいい様に考えていいのだろうか。 それとも最悪のケースを考えておくべき何だろうか。 「よかった」 古泉は今日二度目と思しきセリフを発した。 「古泉?」 古泉はくしゃりと顔を歪めた。 苦笑、いや、これは照れているのか? 「僕自身にも意外だったのですが、思ったより、堪えていたらしいんです。あなたと触れ合う機会どころか、会話を楽しむこともなくなって、自分でも分かるくらい、おかしかったんですよ。あなただけでなく、僕も。普段ならしないような凡ミスはするし、ぴりぴりして、声を掛けてくる人もいませんでしたね。ああもちろん、SOS団では別ですが」 「そうは見えなかったがな」 どこからどう見ても、古泉はいつも通りだった。 「そうですか? でも、嘘ではありません。本当のことですよ」 そう微笑んで、古泉は言った。 「僕は――あなたが好きです。あなたも……そうですよね?」 もらえるはずのなかった言葉をもらい、俺は心臓が止まるかと思った。 あるいはこれも全て夢かと。 だが、何にせよ、答えずにいられることなんか出来るはずがない。 「ああ、好きだ。…愛してる」 こんなに動悸が激しいのも、普段なら軽々しく言わないようなことを簡単に口にするのも、この極限にも似た状態のせいに違いない。 それに、少なくとも今この時にこの空間にいるのは俺と古泉の二人だけなのだ。 言葉を惜しむ必要があるか? 「好きなんだ。お前が…」 聞こえなかったと言わせたくなくて、俺はそう繰り返した。 古泉はしかし、申し訳無さそうに視線を伏せた。 「ありがとうございます。あなたの気持ちは本当に嬉しいです。ですが…僕は……」 「言うな」 今更何を言い出すんだこいつは。 「先に好きだって言ったのはお前の方だろ」 先にこの奇妙な均衡を崩したのも。 「お前の気持ちをちゃんとした言葉で聞かずにいた時に戻れるわけでもない以上、俺はもう遠慮なんかしない」 俺は古泉の胸倉を掴んで乱暴に引き寄せると有無も言わせずキスした。 たとえこれがただの夢だったとしても、離してやるものか、忘れさせてやるものか。 怒りにも似た思いで、噛み付くようなキスをした。 そうしてダメ押しに、 「分かったな?」 と言うと、古泉は一瞬呆けたような顔をした後、くっと笑って答えた。 「はい」 すると、まるでそれを待っていたかのように空がひび割れた。 閉鎖空間が崩れて消えていく。 「どういうことでしょうね」 古泉が不思議そうに呟いたのへ俺は、 「神様が許してくれたってことじゃないのか」 と言ってやった。 それから俺は古泉に送られて帰ったのだが、部屋をどれだけ探しても読みかけの本は見つからなかった。 閉鎖空間に閉じ込められたのはハルヒの意思だったのか、それとも本に込められた呪いだったのかは分からず仕舞いとなったが、そんなことはもうどうでもいい。 俺は明日から古泉にどんな攻撃を仕掛けるかを考えるので手一杯だからな。 |