どうやら俺は、俺以外の全てが変わってしまった世界に唯一の例外として存在しているらしい。 あるいは俺以外の全てが少しずつ違っているというパラレルワールドに放り込まれたというところだろうか。 何にせよ俺は古泉のようにロジックを弄ぶ趣味があるわけでもないのでその辺の考察は古泉に任せたい。 しかし――と俺は古泉を見た。 少し前、俺は古泉に、かつて古泉が語ったところである「涼宮ハルヒ=神説」をさらっと説明してやったところである。 その少し前にはハルヒは店を飛び出している。 それを追う少しの間になんとか説明してのけたのだが、その後に、古泉は意外なことこの上ない言葉を言ってのけたのだ。 曰く、「僕は涼宮さんが好きなんですよ」と。 おいおいおい、超能力者と言う怪しいことこの上ない肩書きがなくなっただけかと思ったら、性癖まで変わっちまったのか? 変わったようには見えないんだが。 「お前、ゲイじゃなかったか?」 俺が問うと、古泉は軽く目を見張って見せた。 「驚きですね。あなたの知る僕はそうなんですか」 「…やっぱり、お前はあいつとは違うんだな」 ちょっとした仕草や言葉に見える距離が、精神衛生に優しくない。 数日前まで、人目を忍ばなければならないとはいえ確かに恋人であったはずの男と、どう見ても同一人物なのに、こいつは違う。 俺の古泉ではない。 ――俺の古泉に会いたい。 「その僕に会いたいって顔、してますよ」 「…そうか?」 俺は思わず苦笑する。 そんなにも顔に出ていたんだろうか。 そうであっても不思議じゃないかも知れない。 何しろ、この世界がおかしいと気付いてすぐあいつを探しにいこうとしたら、教室さえもがなくなっていたんだからな。 その上、見つけだしたこいつはハルヒと肩を並べて下校していた。 俺じゃなくても参って当然だと思うね。 「あなたも、その……ゲイ…なんですか?」 「……まあな」 「それで、……僕と付き合っていたと」 「ああ」 俺が正直に答えると、古泉は何を思ったか穏やかに笑って見せた。 「仲がいいんですね」 目の前の古泉があいつと同じ顔、同じ声でそう言う。 「……お前に言われてもな…」 「多分、僕もあなたに会いたがっているでしょう。そんな気がします」 これが改変された世界だとしたらその僕とは即ちお前になるのだが、だとすると妙な言い方じゃないか? だが俺は、自分で思う以上にこの状況に疲れ、そしてあの状態を恋しく思っているらしい。 「…だといいな……」 妙に弱った声が出た。 もしもこれがただのパラレルワールドだったとしたら、元の世界にいる古泉はどうしているんだろう。 そっちにも俺が現れて、何かやらかしているんだろうか。 逆に、これが改変された世界だとしたら、この古泉はあの、俺のよく知る古泉と同じということになるのだが……とても同じには思えなかった。 勿論、外見も思考回路も同じに思えないこともない。 だが、目の前のこいつは俺の知るあいつではなく、あいつはいなくなってしまった。 会いたい。 何をしても、どうなっても、一度だけでもいい。 あいつに会いたい。 抱きしめたい。 抱きしめられたい。 もう一度、キスをしたい。 ――そう思った瞬間、キスをされた。 誰に? 目の前のこいつしかないだろう。 驚いて言葉もない俺に、古泉は笑って言った。 「失礼。ちょっと試してみたかったんです。あなたの言う僕とこの僕は、果たして本質的におなじであるのかを」 俺は声に怒りを乗せながら問い返した。 「ほう? それで?」 「そうですね…」 と古泉は考え込み、 「もし、元の状態に戻れなくとも、大丈夫です。僕があなたの面倒を見ますから、といったところでしょうか」 「何だそれは」 「僕もあなたを好きになりそうだということです」 「……はっ!?」 「冗談です」 「……ほざいてろ」 古泉は笑っていたが、その目は本気以外の何物にも見えない。 やっぱり、古泉は古泉なのだろうか。 その後、俺がエンターキーを押すのを躊躇った理由は、口が裂けても言えない。 彼が階段を転がり落ちて、もう三日目になる。 あれからずっと彼は目を覚ましてくれない。 長門さんと交代で病室に入った僕に、涼宮さんがため息を吐いてもらした。 「起きないわね、キョン」 「ええ」 「全く、キョンのクセにあたしに迷惑掛けたりして。授業くらいいくらサボっても平気だけど、SOS団の活動時間を削るなんて許せないわ。後でどう責任取らせてやろうかしら」 でもあなたはまだ彼が目覚めることを信じて、諦めずにいられる。 あなたのその強さが羨ましい。 僕はもう何度後悔しただろう。 あなたがそう考えている限り彼が死ぬことはないと思いながらも、彼が死んでしまったらと考えて、一体何度悔やんだだろう。 彼に後悔させないような愛し方が僕には出来ていただろうか。 少なくとも僕は後悔してばかりだ。 会うのはいつも彼の家か僕の家で、会えばまるでそうと決まっているように体を求めた。 今更ながらそれが悔やまれる。 彼が、目を覚ましたら。 無事、目を覚ましたら。 今度こそもっと真剣に、彼のことを考えて、そしてちょっとだけ、ちょっとだけ僕の希望も言わせてもらって、今までよりももっとよく、愛し合いたい。 生きていきたい。 涙がこぼれそうになるのをあくびで誤魔化した時、涼宮さんが言った。 「怪我もないのにずっと眠り続けてるなんて…まるで眠り姫みたいね」 「…そうですね」 「いくらあたしでも百年は待てないわよ」 そう言って彼女は彼の鼻の頭をちょんと突いて、 「じゃああたし少し寝させてもらうわね。キョンが起きたら絶対に起こしてよ?」 「確かに承りました」 「それじゃ、おやすみ」 涼宮さんはそう言って持参の寝袋にもぐりこみ、すぐに寝息を立て始めた。 彼女も疲れているのだろう。 静かな病院の病室で聞こえてくるのは彼と涼宮さんの寝息と僕のため息ばかりだ。 彼は本当に静かに眠っていた。 寝返りひとつ、身動ぎひとつしないで。 人形のように、すでに生を失った器のように。 神様、と僕は眠る凉宮さんの方へ目を向ける。 その姿はここからは見えない。 あなたが彼を死なせるはずはないと思います。 彼は無事に目を覚ますのでしょう。 その時に彼がどうなっているか、僕には分かりません。 彼が僕を忘れようが憎むようになろうが構いません。 全てはあなたを裏切った、そしてあなたを裏切るように彼を唆した僕への罰なのでしょう。 僕はどうなろうが構いませんから、どうか、早く彼を目覚めさせてください。 「眠り姫」 凉宮さんの言葉が頭の中をちらつく。 それは啓示でもなければただ僕の頭が自分の都合のいいようにしようとしているだけだ。 そう思っても、止まらなかった。 僕は彼の顔のすぐ側に手をつき、身をかがめ、そっと、恐る恐る、彼に口づけた。 乾いた唇。 それは僕を迎えることも応えることもしない。 泣きそうになりながら離れ、ただ彼の顔を見つめた。 すると、彼がぎゅっと眉を顰めた。 それはおそらく初めての変化だ。 そうしてそれは朝に弱い彼が起きる時のそれとよく似ていた。 僕は慌てて飛び退き、反射的に、サイドテーブルに置いてあったりんごとナイフを手に取り、さも何もなかったかのように座って皮を向き始めた。 なんでそんなことをするのか自分でも分からなかったから、つまりは慌てていたのだろう。 そうしてすぐに彼が目を覚まし、僕は二重の意味でほっとした。 状況が分からないのであろう彼にとりあえず状況を説明する。 嬉しいことに、彼は以前の彼のまま、記憶を失っている様子もなかった。 記憶喪失など、凉宮さんの好みそうなパターンだと思ったのだが、どうやら今回のことに関しては彼の安全が第一であったらしい。 理由はともあれ、僕にしてみれば幸いというほかはない。 だからいくらか気分よく、彼に言ったのだ。 「とにかく今は、あなたが真っ先にしないといけないことがあるでしょう?」 ずっとあなたが目覚めるのを待っていた涼宮さんを起こして、喜ばせて差し上げなくては。 それは言わなくても通じたらしい。 彼は少し照れたように、 「そうだな」 と頷き、いきなり僕の頭を引き寄せるとキスをした。 触れるだけのキスは先程と変わらないはずなのに、不思議と彼の暖かさを感じた。 状況がよく分からず戸惑う僕に彼はかすかに笑って、 「口直しって程でもないんだが、」 口直し? まさか、あのキスの段階ですでに意識が戻っていたのだろうか。 内心びくつく僕をよそに彼は言葉を続けた。 「俺の方も色々あってな」 色々? 彼は事故で意識を失った後ずっとここにいたはずなのだが。 問いたくなる僕を軽く制して、 「まあ、それはおいおいってことで今は、」 彼は珍しく満面の笑みで言った。 「ただいま」 「お…お帰りなさい…?」 彼が滅多に見せない笑顔に、僕は魂さえも飛んでいってしまいそうな気分になった。 それなのに彼はまだ僕を喜ばせるようなことを言う。 「またお前に会えてよかった」 「え、ええと……本当に、あなた…ですよね…?」 「何だと?」 「いえ、いつものあなたと余りに違うものですから」 ひょっとすると自分の夢なんじゃないだろうかと思えてくる。 彼は小さく苦笑して、 「俺も、それを思う様味わったよ。さてと、ハルヒを起こすとするか…」 彼が涼宮さんへ手を伸ばすのを見ながら、僕は心の底から神に感謝を捧げた。 あなたが意識を取り戻してくれて、本当に良かった…。 |