赤玉



その朝、何か不可思議な夢から目覚めると、古泉一樹はベッドで小さな赤玉に変身している自分を発見したのである。
「冗談じゃないんでやめてください」
泣きそうな声――いや実際泣いてるのかもしれんが、今はちょっと判別し難い――で言った声は間違いなく古泉のそれである。
「にしたって…本当に見事に赤玉だな。そうなっても可愛いってのはどうなんだ」
アブか蜂の如く頭の周りをひゅんひゅん飛び回っているそれをつんとつつくと、人肌程度に温かくて柔らかかった。
「お前なんだその感触。気持ちいいにもほどがあるだろ」
「知りませんよう…。それより、なんとかしてください…」
「なんとかって…」
とりあえずこうしよう。
俺は携帯を取り、電話を掛ける。
相手?
そんなもん、言うまでもない。
「有希? ……ああ、こっちに向かってる途中か。早く来いよ」
「ええええええ!? ちょっ、な、なんでそうなるんですかー!?」
抗議の声を上げる古泉に、俺はしれっとした顔で、
「困った時の長門頼みだろ?」
「それとは違う意図を感じますけど!?」
だろうな。
「どうせなら長門にも触らせてやりたいくらいの触り心地なんだからしょうがないだろ」
「酷いですよ…」
「泣くなって」
「泣いてませんよ。泣いてませんけど…」
うう、と唸る古泉を軽く撫でてやる。
そのまま膝に乗せてみるが心許ない。
むしろ手の平の上で十分なくらい、今の古泉は小さかった。
丁度手の平サイズだ。
それも、握りこめるくらい小さい。
「一樹」
と呼ぶと、ぐしぐし涙ぐんでそうな情けない声で、
「なんです?」
と返ってくる。
「乗れ」
「……はぁ…」
肯定だかため息だか分からん呟きを漏らして、古泉は俺の手の平の上に乗った。
やっぱり暖かくて手触りがいい。
重みは少しずっしりしているが、重いというほどでもない。
つんつんと指でつつき、その質感を確かめながら、
「今回はなんのせいだろうな?」
「分かりません。涼宮さんに何らかの心境の変化でもあって、僕の持つ力の現れ方が変わったのかもしれませんし、あるいはちょっとした気紛れでこうなってしまったのかもしれません。…お姉さんが何かしたという可能性もないとは言い切れませんけど」
「それにしては、有希の来るのが遅いけどな」
あるいは、こういうことになった時、古泉が一番に泣きつくのは自分だと高をくくっていたということだろうか。
当てが外れて残念だな。
古泉は真っ先に俺のところに飛び込んできたぞ。
「そういや、お前、空を飛んできたのか?」
「そうです。途中、何度か酷い目に遭いかけましたよ」
と返す声が力ない。
「例えば?」
「カラスに目をつけられて追いかけられたり、子供に見つかって、虫取りアミで追い回されたり…」
「…そりゃ、大変だったな」
労わってやろうと撫でてやると、その体が嬉しそうに明るく光った。
「ああもう、本当にお前って奴は…」
「えっ? な、なんですか?」
「可愛い」
ぎゅっと抱き締めてやりたいところだが、それをすると今の古泉では潰れそうだからと堪える。
その代わりにぐりぐりと撫で回すと、更にその体が輝いた。
「一樹ー…」
「なんですか?」
「お前、当分そのままでいたらどうだ?」
「はっ!?」
「いや、抱き締めたり出来ないのは物足りないものもあるんだが、こんな風に小さくて可愛いお前も悪くないと思って…」
「他人事だと思って、酷いですよ」
不貞腐れた古泉が不満げにその赤味を暗いものに変える。
色味の変化が表情の変化のようなものだとすると、随分と分かりやすい。
俺はぷにぷにと古泉をつつきまわしつつ、
「押されると痛かったりするか?」
「そうでもないですけど…流石に爪を立てられたりしたら痛みそうです」
「じゃあこれくらいしてもいいのか?」
と親指と人差し指でつまむようにして持ち上げてみても、
「大丈夫ですよ」
と言うから、
「じゃあこれは?」
とむにむにとその感触を味わうべく押し潰す。
「平気ですけど…調子に乗って潰さないでくださいね?」
「俺がそんなことするわけないだろ」
そうして遊んでいると、玄関でインターフォンの鳴る音がした。
長門だろう。
「ちょっと待ってろよ」
と古泉に声をかけた俺は、こそこそと自室を出て、階下に向かう。
どうやら妹はお袋に連れられて買い物にでも行っているらしい。
日曜だからと遅くまで惰眠を貪っていた俺は置いていかれたようだが、それで丁度よかったな。
「有希か?」
「そう」
「今開ける」
短いやりとりの後、玄関の鍵を外してドアを開けると、心なしか頬を紅潮させた長門が、
「一樹は?」
と勢い込んで聞いてくるので、
「俺の部屋だ。有希、飲物でもいるか?」
「気遣いは無用」
「じゃあとっとと上がるか」
いくらか早足になりながら二人して二階に上がり、俺の部屋に入り、そして惨劇を目の当たりにした。
ベッドの上で満足気に丸くなっているのはシャミだ。
そしてその口元には赤い……って、
「一樹ぃ!?」
慌てて駆け寄ると、驚いたのかシャミが飛び退く。
そうしてシャミがいた場所には鮮やかさに欠く色となった哀れな古泉の姿があった。
「どうした、何があったんだ!?」
「あ……うぅ……」
弱々しい返事が返ってくる。
よかった、生きているらしい。
「いきなりシャミセン氏に襲われまして……」
「逃げ切れなかったのか…」
「はい…。シャミセン氏に捕まってそのまま…」
どんな目に遭わされたんだ、と息を飲む俺に、
「…舐められてかじられました」
と古泉は告げた。
……。
「それだけか?」
「僕にはかなりの恐怖でしたよ!」
それはそうだろうが。
「てっきり食いちぎられでもしたかと思っただろ」
「それは大丈夫でした…」
「怪我とかもないんだな?」
「はい、おそらく…。この体はどうやら傷つくということがないようです。かと言って何にでも強いのかと言うとそういう感じはしないので…」
「…つまり、無事か無事じゃないかの二択ってことか?」
「…そうですね」
嫌なオールオアナッシングもあったもんだな。
呆れていると、
「お兄さん」
と長門に呼ばれた。
「ああすまん、有希も一樹に触りたくて来たんだったのに悪かったな。ほら」
俺は無造作に古泉を掴み上げると、そのまま軽く長門に向けて放り投げた。
「ひやあああああ!?」
朝比奈さん顔負けの素っ頓狂な叫び声を上げて、古泉は綺麗な赤い放物線を描く。
当然長門はそれを見事にキャッチした。
そうしてマジマジと古泉を見つめ、
「……可愛い」
「だろう。当分このままでいいと思わないか?」
「…いい」
おそらく目を回していたんだろう古泉はそこではっと我に返ったように、
「ななな、何を言い出すんですか! お兄さんもお姉さんも、そんな笑えない冗談はよしてください! 今日はまだ日曜日だからいいですけど、明日は学校があるんですよ!?」
なんて必死に訴えるのがまた可愛いって分かってくれないのはなんなんだろうな?
「そこが一樹の可愛いところ…」
「なんだけどな」
「うええ…訳の分からないところでばかり意気投合しないでくださいぃ…」
小さな赤玉になっちまっているからか、精神的にも随分幼くなってる気がする。
今度こそ泣き声を上げた古泉に、長門は慈母の如き眼差しを注ぎながら、
「大丈夫…泣かないで」
と優しく撫でてやる。
しゃくり上げるように体を震わせる古泉も、しばらく撫でられているうちに落ち着いたのか、その体も明るさを取り戻す。
「それで、有希、原因は分かるか?」
「…おそらく、ちょっとした手違い」
手違い?
「情報統合思念体とは違う別種の情報生命体が彼をはじめとする超能力者の能力に何らかの改変を加えようとした形跡がみられる。おそらくは能力の弱体化を図ったものと推測される。…ある意味成功」
…そうだな、こんな風になっちまったんじゃ戦いようはないだろう。
「そうでもない」
は?
「一樹の攻撃力に変化はない。このままでも十分、彼らが神人と呼称する存在を撃破することは可能」
……。
「それはそれで見てみたいな」
「冗談じゃないですよ…!」
抗議の声を上げた古泉は、
「お姉さんっ、どうしたら元に戻れるんですか?」
と長門に縋りつく。
困った時の長門頼みと言ったのは俺だし、実際長門に頼らなきゃ仕方ない状況とはいえ、そんな風に目の前で縋られると少しばかり面白くない。
後でまたつつきまわしてやろうなどと考えていると、
「…お兄さん次第」
と長門に呟かれてぎょっとした。
「俺次第?」
「そう。…直すためにはそのためのプログラムを注入する必要がある」
「……それはあれか。前に俺や朝比奈さんにやったみたいなことをこの状態の古泉にすると」
「…そうなる」
「……それはちょっとまずくないか?」
見た目的に。
あと古泉の精神的にも。
「……そう思う?」
「ああ。だからせめて、何かこう、注射とかそういう形には出来んのか?」
「…不可能ではない」
そう呟いた長門の声には残念そうな響きがあった。
「……したかったのか?」
「……」
微かに長門が頷いたのを、俺は見逃さなかった。
とは言っても、なぁ…。
「一樹」
「はい?」
「お前、元に戻るためとして、長門に歯を立てられるの、平気か?」
「……ええと…」
古泉はしばらく困ったように考え込んでいたが、
「…そうしなければ直せないというのであれば」
といっそ悲愴な声で言った。
「でも…心配なことがひとつあるんです」
「どうした?」
「…僕がこの姿になって気がついた時、僕の体の回りには僕の服が一つ残らず落ちていたんです。…つまり今の僕は服を身につけていないってことになると思うんです。それなのに、お姉さんの目の前で元に戻るのは……ちょっと……」
…それはよろしくないな。
「有希、悪いがやっぱり注射器か何かを用意してくれるか?」
「…分かった」
頷いておいて、長門はすぐにそうはしなかった。
感触を味わうように古泉を撫で回している。
「…えっと…お姉さん……?」
古泉が戸惑うような声を上げるが、俺には長門の気持ちがよく分かった。
「まだ時間はあるだろ」
そう笑って、俺は古泉をつんとつつく。
「せっかくの休みに叩き起こしてくれたんだし、もう少し遊ばせろよ。な?」
「えええ……」
不満げに言ってるが、
「いつも以上に可愛がってやるから」
「…いつもだって、十分ですよ」
「それに、今戻ったらここで裸になるってことだろ。どうやって帰るんだ? 俺の服でサイズがあうならいいが…」
「あ…そうでしたね。うっかりしてました」
「だから、これからお前の部屋に行って、存分に遊んでから戻ればいいだろ」
「…遊んでからってプロセスは要らない気がしますけど……」
「せっかくの機会なんだからいいだろ」
と笑えば、基本的に俺には弱い古泉が勝てるはずもなく、そのまま移動することになったのだが、そこで長門が取り出したのが小さな虫籠だった。
虫籠と言っても、よく夏休みの自由研究だなんだで小学生がお世話になる緑色のプラスチックで出来たあれではない。
もっとしっかりして風情のある、竹細工らしいものだ。
「……有希?」
「移動の際の安全を確保するにはこれがいいと判断した」
…なるほど。
言われてみれば、俺のところに来るまででも随分苦労したと言っていたからな。
こうやってガードした方がいいってことか。
「そういうことだから、一樹、」
「…僕…虫じゃないんですけど……」
「不満なのは分かるが、安全のためだろ」
「…うう……絶対面白がってるでしょう…」
泣きじゃくる古泉をなんとか宥めて虫籠に入れ、長門がそれを抱えて家を出た。
「思ったんだが、その虫籠を見られたらまずいんじゃないか?」
「大丈夫。中身が空に見えるよう、光学迷彩を施しておいた」
「そうか。じゃあ安心だな」
そんな話をしながらてくてくと道を歩いていくことしばし。
曲がるべき角で長門が曲がらず、そのまま直進しようとしたので思わず子猫の捕獲よろしく襟首を掴んだ。
「有希、」
「…どうかした?」
「どうかした、じゃないだろ。一樹の部屋はそっちじゃないぞ」
「……」
「そっちはお前の部屋だ。勝手に一樹をお持ち帰りしようとするんじゃありません」
「……分かった」
しょうがなさそうに言う長門に、俺は苦笑する。
「持って帰りたい気持ちは分かるけどな」
「持って帰られたら僕が困ります…」
泣きそうな声で言うなって。
「ちゃんと戻してやるし、有希が無茶しないように見てやるから安心してろ」
「…お兄さんも無茶しないでくださいよ?」
「……分かった」
「今の間はなんですか!?」
「冗談だって」
そう笑いながら、虫籠の格子越しに古泉を軽くつついてやった。