古泉が風邪を引いて休んだというので、俺と長門は連れ立って見舞いに行くことにしたのだが、 「手ぶらじゃやっぱりまずいよな」 前に看病に行った時の経験からして、あいつの家にまともな看病セットがあるとは思えん。 多少は残ってるかも知れんが、あてにはならんだろう。 となると、必要なのはなんだ? 熱が出てるなら熱冷ましのシートがいるだろうし、風邪薬もあるのかどうか怪しいから市販薬を一応持っていくとしよう。 風邪薬といえば、葛根湯が効くのは効くんだが、あれは初期症状向けだしなぁ。 他には、塗る風邪薬ってのが世の中にはあって、かなり凄いメントールだかユーカリだかの匂いがするんだが、喉の痛みや鼻づまりには効くんだよな。 しかし、べたつくのもあって、人によって好悪が分かれるから、とりあえず今日はやめておこう。 薬は適当にそろえるとして、問題は食事か? 消化にいいもの、と言えばお粥が定番だが、栄養面が少しばかり心配だ。 ここは玉子を入れた雑炊を作ってやった方がいいだろう。 ネギと生姜をたっぷり入れて、体が温まるようなのだ。 だが、それだけ買出しをしていると時間を食いそうだな。 ……本当なら、弱った古泉の元に一番に駆けつけるという美味しい役どころを他の誰であろうと誰かに譲りたくはないのだが、弱ったあいつをいつまでも放っておくことも心配だ。 背に腹は変えられん。 「有希、悪いが、先に一樹の部屋に行っててくれるか?」 言いながら、俺は古泉から預かっている合鍵を長門に渡した。 いいの、とばかりに長門が俺を見る。 「言っとくが、宇宙人的能力でもって治すのはなしだからな」 「…?」 首を傾げて疑問――あるいは不満――を示す長門に、 「風邪を引いて寝込むのもいい経験だろ」 なにより、せっかく古泉を存分に甘やかせられる機会なんだから放り出せるものか。 あいつだって、甘やかされる理由がはっきりしている方がいいだろ。 そんな理由で長門に制限を課した俺は、断腸の思いで長門を先にひとりで古泉の部屋に向かわせると、足早にスーパーとドラッグストアに向かった。 急いだ理由など、言うまでもない。 長時間、長門を古泉と二人きりにしたくなかっただけだ。 俺がエレベーターを待つのももどかしく階段を駆け登るような真似までして急いだからか、古泉の部屋に着いた時、長門はこれといって何かしたような様子もなかった。 だが、それでも病に臥した古泉には嬉しいものだったのだろう。 ほんのりと喜色をにじませ、安心しきった様子が見て取れた。 くそ、やっぱり先に行かせるんじゃなかった。 ちゃっかり手まで繋いでるし。 ともあれ、 「一樹、具合はどうだ?」 と聞くと、古泉の顔が更に安堵で緩んだ。 そんな些細な反応に、俺がどれだけ嬉しく感じちまうかなんて、おそらくこいつは気付いてないんだろうな。 俺は古泉に近づいてその顔色を見た。 多少熱っぽいが、青褪めたりしてないだけいいだろう。 大丈夫ですとでも言いたげな古泉に、 「ああ、思ったほど酷くないみたいだな」 と小さく笑い、 「腹減ってないか?」 と聞けば、古泉は首を振った。 熱があったらそんなもんかもな。 だが、 「まあそれでも食え。食わなきゃ薬も飲めないだろ。今、雑炊を作ってやるから」 苦笑混じりに言えば、古泉も苦笑した。 どうせ食えと言うならわざわざ聞くななんて無粋で野暮なことは思いもしないらしい。 そういうところが可愛いんだよな。 にやけそうになるのを抑えながら、手に持っていたビニール袋から熱冷まし用の冷却シートを引っ張り出した。 「それ、額に貼ってやれ。多少は楽になるだろうからな」 「分かった」 頷いた長門がちゃんと貼るかどうかを見ている必要はないだろうから、俺はひとまず寝室を出た。 本当のところ、俺がついていてやりたいところだが、雑炊を作るのは長門より俺の方が向いているだろうから、古泉は長門に任せる。 寝室のドアを開け放しておくのは、二人が心配と言うよりも、何か物音がした方が古泉も落ち着くだろうと思ってのことだ。 決して、長門が不埒な行いに出るなどと心配している訳ではない。 これまで古泉がひとりきりで眠っていたなら、さぞかし寂しかっただろうからな。 「さて、と…」 廊下に放り出していた食材の入ったスーパーのビニール袋を拾い上げ、台所に入る。 案外綺麗に片付いていると言うことは逆に問題だ。 ろくに物も食べずに横になっていたらしいと分かるからな。 朦朧とした状態で調理されるのとどっちがマシか考えるとどっちもどっちかも知れないが、あいつにはもう少し食欲と言うか、食べることへの執着を持ってもらいたい気がする。 そのためにも、美味しいものをもっと食わせてやらんとな。 だから、病人相手でも手抜きはせず、ちゃんとした雑炊を作ってやろう。 流石に、出汁から取るのはやりすぎだと思うから、今日は顆粒状の出汁を使うが、快気祝いには鰹出汁でも昆布出汁でも取ってやろう。 いっそのこと、新しく料理本でも買ってくるかね。 そんなことを考えながら、人参を刻み、玉ねぎを薄切りにする。 煮立った出汁に鶏ミンチを少しと切った人参やら玉ねぎやらしいたけやらを放り込み、火を通したら、これもやはりスーパーで買ってきたレンジで温めるだけのご飯をそのまま入れた。 多少水っぽいが構わんだろう。 最終的に煮立てた後にとき玉子でとじ、刻んだ細ネギを散らしたら出来上がりだ。 簡単すぎて逆に悪いくらいだな。 後はもう煮立つのを待って玉子でとじるだけだ、と思いながらネギを刻んでいたのだが、食べさせるついでに体を拭いてやった方がいいかと思い出す。 「有希、来てくれるか?」 そう大きくはない声で呼んだが、やはり長門には十分だった。 音もなくやってきた長門に、 「悪いが、焦げないように掻き混ぜててくれ」 と言ってお玉をバトンタッチする。 それから急いで洗面所に向かうと、風呂から引っ張り出した洗面器にお湯を張り、タオルを浸した。 そのタオルをよく絞り、しかし冷めないうちにと慌てて寝室に入ると、古泉は眠っていた。 いくらか呼吸も楽そうになっているようだ。 それを妨げるのは悪い気がするのだが、やはり寝汗をかなりかいているらしいからな。 起きてもらうとしよう。 「一樹、悪いがちょっと起きてくれ」 薄目を開けた古泉が、それでもこっちをちゃんと見ようとするのが分かった。 可愛い。 「汗かいただろ。拭いてやる」 風邪引き相手にろくでもないことを考えていると悟られないよう、ぶっきらぼうに言っても、古泉にはそんな余裕もないらしい。 「すみません…」 と言いながら、体を起こそうとするので、慌てて支えてやった。 一応、上半身を起こしていられるくらいではあるらしい。 その顔をタオルでぬぐってやりながら、 「熱くないよな?」 「ええ、気持ちいいです」 目を細める古泉にほっとしながら、汗ばんだ体を拭いてやった。 「もう少ししたら雑炊も出来るからな」 かすかに古泉が頷くのを確かめつつ、俺は古泉の服を脱がせてやり、体を拭って、用意していた新しい寝巻きに着替えさせた。 さっぱりしたのだろう。 古泉が少しばかり嬉しそうに笑った。 それがあまりに可愛かったから、我慢ならず、俺はタオルを放り出して古泉の頭を撫でた。 「今日は泊まるからな。余計な心配せずに、体を治すことだけ考えてろよ」 「はい…」 「よし」 名残惜しいが古泉の頭から手を離し、台所に戻ると、雑炊がよく煮えていた。 使ったのが普通の飯じゃなかったからか、とろとろになっているくらいである。 が、病人には食べやすくていいだろう。 それを器に盛り、刻んだネギを散らして完成だ。 「有希、ちゃんと見ててくれてありがとうな」 長門は頷いたが、その目は器を見つめている。 「…お前が食べさせたいのか?」 こくんと長門が頷く。 ……本当なら、俺が手ずから食べさせてやりたいところなのだが、ただでさえ古泉を独占しがちで長門に恨まれてそうなので、ここはぐっと堪えるとしよう。 それに、俺は今晩中古泉といるつもりだが、長門は帰らせなきゃならんからな。 仕方ない。 「じゃあ、任せる」 俺から受け取った器に風邪薬を添え、長門は慎重すぎるくらい慎重な手つきで寝室に運んでいく。 微笑ましい。 やっぱり長門も可愛いな。 古泉と比べると、油断や迂闊さがある分、俺としては古泉に軍配を上げるものの、十人ばかり男を捕まえて、どちらが可愛いか聞けばまずたいていは長門の方が可愛いと答えるだろうという分かりやすい可愛さがある。 その長門の分もと多めに作っておいた雑炊を器によそって待っていると、長門が空になった器を手に戻ってきた。 「一樹はちゃんと完食したんだな」 安堵しながらそう確認を求めた俺に、長門は軽く首を振った。 「うん? どういうことだ?」 「……半分こ」 ……長門の返事は非常に分かりやすかった。 俺はため息を吐き、 「つまり、一樹は半分しか食べきれなかったのか」 「……そう」 で、残りを長門が食べたと。 「お前の分も用意してあったのに」 「それも食べる」 そりゃそうだろうが……。 「……有希、お前、もしかして、一樹と半分こしてみたかったのか?」 こくんと長門が頷き、俺は脱力した。 それならそうと言えばよかったのに。 「…楽しかったか?」 苦笑混じりに聞いてやれば、長門はどこかくすぐったそうにして、 「……嬉しかった」 と言う。 「そりゃよかった」 くしゃりと長門の頭を撫でてやると、長門は不思議がるように俺を見た。 どうした。 「…お兄さんには、嫌われているかと思った」 「んなまさか」 「……少なくとも、一樹との接し方からすると、私たちはライバルのようなものではないの?」 確かに、そう考えても仕方ないだろう。 敵視とまではいかなくても、俺は長門をライバル視しているだろうから。 それくらい、古泉を可愛がりたいし、それを他の誰にも譲りたくないと思っている。 だが、 「だからと言ってお前を嫌うわけがないだろ。お前も俺の可愛い妹分だ」 俺が言うと、長門は一瞬の躊躇いの後、俺に抱き着いてきた。 その小さな体を抱きしめてやりながら、 「一樹を甘やかすのもいいが、たまには俺にも甘えてくれよ?」 と言えば、長門が頷くのが分かった。 それから、俺と長門は向かい合わせで夕食をとった。 メニューは雑炊と冷蔵庫の中に忘れられつつあった梅干しに、萎びた野菜の簡単な浅漬け、卵焼きという慎ましやかなものだったが、これはこれで悪くない。 「おいしいか?」 と聞くと、長門が頷いた。 「ならよかった」 それだけで、どうということもない料理がいくらか美味しくなったように思えた。 食後はまた、古泉の枕元についていてやったのだが、古泉は薬が効いたのかよく眠っていた。 俺たちはそれを妨げないように、本を読んで過ごした。 勿論、俺は本なんぞ用意してなかったのだが、古泉の本ならいくらでもあったから、勝手に拝借させてもらった。 前に一応許可はもらってたしな。 適当に選んだ、最近よく名前を聞くミステリ作家の、聞いたこともないタイトルの少々埃っぽい文庫を読んでいると、長門が羨ましそうに見ていることに気がついた。 「……お前も読むか?」 読みたい、と頷くのはいいが、ちょっと待て、 「もうこんな時間じゃないか」 時計の短針はとっくに9を通り過ぎて10に近づいている。 俺は泊まるつもりだからいいが、 「有希、お前はそろそろ帰った方がいいんじゃないか?」 「……どうして?」 どうしてって。 「……おまえ、まさか一緒に泊まるつもりでいたのか?」 まさかと思いながら尋ねると、長門ははっきりと頷いて肯定した。 「だめだ。お前は帰りなさい。一樹には俺がついてるから」 「何故」 何故って、 「お前は女の子だろうが。男の家に外泊なんて却下だ」 「……」 不満そうな長門に、 「兄として、たとえ自分が一緒でも、そんなことは許さん」 きっぱり言い放つと、長門はよく分からんが、 「……兄として?」 と何故かそこだけをリフレインした。 なんでそこにこだわるのかよく分からんまま、 「そうだ」 と俺が頷いてやると、 「…分かった」 どうやら帰宅を了承してくれたらしい。 「悪いな」 「いい。仕方ないこと」 長門はちょっと古泉に近づくと、名残を惜しむようにその額に触れて、それから俺に向き直った。 もう帰るということなのだろう。 俺は長門と共に玄関に向かい、 「それじゃ、気をつけてな」 頷いた長門は、 「おやすみなさい…」 「ああ、おやすみ」 そんな短いやり取りで長門を見送った俺は、玄関ドアに鍵とドアチェーンをかけ、寝室に戻った。 俺たちのやり取りを聞いていたわけではないのだろうが、ベッドでさっきまで眠っていた古泉がうっすらと目を開けていた。 「気分はどうだ?」 俺が聞くと、古泉は小さく笑いながらも、 「ええ、随分とよくなりましたよ。お兄さんとお姉さんのおかげですね。……その、お姉さんは…?」 とえらく心細そうに聞くから、俺は苦笑すればいいのか長門に嫉妬すればいいのかよく分からなくなりながら、 「今帰らせた。…いくら有希が宇宙人でも、年頃の女の子なんだ。野郎の家に泊めるわけにはいかんだろ」 「ああ、それもそうですね」 頷きながらも、古泉はどこか不満そうに見えた。 俺にはそう見えたというだけだから、見る奴によっては呆れているようにも嫉妬しているようにも見えたかもしれない。 「有希に泊まってもらいたかったか?」 「え? …いえ、そういうつもりじゃないんです。ただ、ちょっと、」 と古泉はこれから埒もないことを言うとでも言いたげな苦い笑いをのぞかせ、 「お兄さんにとってはお姉さんも、可愛い妹であり、女の子に過ぎないんだなと思いまして」 なんのことだかさっぱりだな。 「それがどうだって言うんだ?」 「さあ」 さあってお前。 「僕にも分かりません。もしかしたらお姉さんに妬いているのかもしれませんし、そうではなくて、お兄さんがちゃんとお姉さんを女性として認識しているということに、羨望めいた危機感を抱いたのかもしれません」 「本当に調子はよくなったようだな」 「はい?」 きょとんとした古泉に、俺は苦々しく、 「何が言いたいのかさっぱり分からん」 「ああ」 合点がいったらしい古泉が、愉快そうに喉を鳴らして笑うのを聞きながら、俺はそっとため息を吐き出した。 「その調子なら心配ないな」 「帰ってしまうんですか?」 それはおそらく反射だったのだろうと思う。 反射と言っても、比喩的なものでも慣用表現的なものでもない、実際の現象として起こる方の反射だ。 古泉はそう言うと共に、縋るようにして俺のブレザーの裾を掴んでいた。 その必死さに思わず、 「ほんとにお前は可愛いな」 という言葉が口をついて出たばかりか、そのまま古泉を抱きしめていた。 「え……」 戸惑う古泉をしっかり抱きしめて、風邪引きで寝込んで汗までかいてたのになんでこいつはこんないい匂いがするんだなんて思いながらその髪をくしゃくしゃに撫で回す。 「帰ったりするわけないだろ。多少なりとも弱ってるお前を一人淋しく放っておくなんて、地球が逆回転でもしない限り俺には出来ん」 断言してやると、古泉はほっとした様子をあからさまなほどに見せた。 「嬉しいです。…ありがとうございます」 ぎゅっと抱きしめてくるのも可愛くて、俺は風呂に入りたいなんて思っていたのも忘れてそのまま古泉共々ベッドに縺れ込み、制服を皺くちゃにしちまったのだった。 「…なんてこともあったなぁ……」 感慨深く呟くと、古泉は苦笑して、 「ありましたね」 とかすれた声を出したので、 「風邪引きは黙ってろ。喋るな」 大人しく言うことを聞いて、返事をせずに頷いた古泉の可愛さににやにやしながら、俺は古泉の額にキスをする。 うつりますよ、とでも言いたそうにしている古泉には、我ながら呆れるほどに悪辣な笑みを返して、 「うつったらまずいから、マウストゥーマウスは治るまでお預けだな」 と言ってやれば、古泉は今度こそはっきりと苦笑した。 風邪引いて鼻水出てようが目が赤かろうが、やっぱり古泉は可愛い、と兄馬鹿らしい脳天気さで思ったのだった。 |