三日目は、筋肉痛に呻くお兄さんと二人、家の中で大人しく過ごした。 僕としては、どうせ家の中で過ごすのなら少しでも宿題を片付けたかったのだけれど、お兄さんが僕の荷物の中にも自分の荷物にも課題をひとつも入れてこなかったおかげで、無為に過ごすことになった。 「せっかくの旅行なんだからその間くらい宿題なんぞ思い出すな」 とはお兄さんの言だけれど、そう言って夏休みの終りに慌てるのはかえって勿体無い気がする。 僕はため息を吐いて、 「帰ったら、今年こそゆとりを持って新学期を迎えられるように宿題を見て差し上げますから、逃げたりしないでくださいね」 「うげ」 嫌そうに唸ったお兄さんに、僕はあえてにっこりと微笑み、 「それくらい、いいでしょう? 僕があなたに教えられることなんて、それくらいしかないんですから」 「何言ってやがる」 不機嫌に眉を寄せたお兄さんは、 「…お前に関しては我ながらどうかと思うくらい評価が甘くなってるとは思っているが、ここだけは譲れん。……お前はなんでそう自虐的と言うか、自分を過小評価するんだ?」 過小評価についてはお兄さんにそっくりそのままお返ししたいが、どうやらそれが許される雰囲気ではない。 「だって、実際そうでしょう? 僕の生活能力が低いことはあなたもご存知のことですし、家事全般にわたってご指導いただいているのも事実なんですから」 「にしたってな、」 「そうして僕のことを思ってくださるのは嬉しいですけれど、それこそ過大評価と言うものですよ。でも……そうですね、僕に少しでも自信を付けたいのでしたら、僕に勉強を教えさせてくださいませんか?」 お兄さんは一瞬嫌そうに顔をしかめた後、大袈裟なほど深いため息を吐いて、 「…分かった、俺の負けだ」 「ありがとうございます。帰ってからがまた楽しみになりましたね」 「そうかい」 げんなりと呟いたお兄さんだったが、ふと唇を意地悪に歪めると、 「そういや、言い忘れてたな」 「何をですか?」 お兄さんがこういう顔をした時は、いいことが起きるか悪いことが起きるか全く予想出来ない。 分かるのは、お兄さんにとって面白かったり楽しかったりすることがあるということくらいだ。 「前に言った通り、お前の休みは一週間分きっちりぶんどった」 「はあ」 「が、うちの帰省予定は二週間だ」 「……え、じゃあ、僕だけ先に帰るってことですか?」 言われてみれば、一週間後ではまだお盆も過ぎてない。 それでは帰省の意味もないというものだろう。 寂しいけど仕方ないかな、と思った時だった。 お兄さんが一層笑みを深めて言ったのだ。 「お前だけ先に帰らせたりするわけないだろ」 「え? それは、どういう…」 「俺も一緒に帰る」 「……え」 「で、その後うちで過ごすかお前の家で過ごすかは俺たち次第ってことらしい」 「えええ…!?」 驚く僕に、お兄さんは楽しげな笑みを見せ、 「嬉しいだろ。もう一週間余計に、しかも今度こそ余計な気兼ねもなしで 一緒に過ごせるぞ」 「う、嬉しいですけど……あなたはいいんですか、それで」 「いいも何も、悪けりゃそうするわけないだろ」 「でも、せっかく帰省してるのに……」 「どうせ年に何度も帰ってるんだから一回くらい構わないだろ。嬉しいなら余計なことは気にせず、素直に嬉しがってろ」 そう言って、ぽかりと僕の頭を叩くまねをする。 構えに反して優しく触れた手が嬉しくて、そっと頭をすり寄せると、お兄さんが小さく笑った。 それから二人、ごろごろ寝そべりながら扇風機の風を浴びつつ過ごした。 帰ってからどうしようかなんて相談しながら。 小さな子達は庭で思い思いに遊んだり、あるいは年長者に叱られながら宿題をやっていたりする。 こんな環境だからこそ、お兄さんは今みたいに育ったんだなと思うと、微笑ましいような、あるいはそのことに感謝したいような不思議な気持ちになった。 いつもなら、夏休みもひとりで過ごして、むしろお兄さんとか涼宮さんからの呼び出しを心待ちにしているような僕だから余計に、自分が一緒に過ごさせてもらえていることに驚きすら感じる。 でも、嬉しい。 こんな夏休みもいいなぁ、とのんびりしていた僕に、宿題をひと段落させたらしい甥っ子さんたちが、 「いっちゃん、一緒に虫取りにいかない?」 と聞いてきた。 「虫取り…ですか?」 「うん。夕方のうちに山の木に蜜を塗っといて、明日の朝早くに取りに行くんだ。いっちゃん、都会の人だからしたことないだろ?」 「そうですねぇ…」 蝉取りならやらせてもらったけれど、それとは違うんだろう。 お兄さんはどうするのかな、と思って横目で伺うと、お兄さんは首を振り、 「俺は行かんぞ。早朝になんか起きれるか」 ですよね。 僕は苦笑しつつ、 「僕でよければ一緒に行きますよ。役に立てるかどうか分かりませんけど」 と答えると、男の子たちが嬉しそうな声を上げた。 「明日、起こしてあげるから!」 と言われたのは、今日の僕がお兄さんと一緒に昼近くまで寝ていたせいだろう。 苦笑しながら、また遊びに向かう彼らを見送った僕に、お兄さんが言う。 「助かったって思ってるのがいるんだろうな」 「どういう意味ですか?」 「本当に早いんだよ、虫取りに行く時間ってのは。いつもなら俺とか他のやつが付いていかされるんだが」 なるほど、それで助かるということか。 僕は笑って、 「それくらいで、役に立てるんでしたら頑張りますよ」 「じゃあ、今日はさっさと寝た方がいいな」 「あなたが邪魔しなければ早く寝れますよ」 ニヤリと笑って言えば、お兄さんは軽く眉を寄せて、 「じゃあ、邪魔してやろうか。夜中に布団に乱入するのと小声で百物語ならどっちがいい?」 なんて聞いてくる。 「もう、意地の悪いことを言わないでくださいよ」 「なんだ、布団に乱入して欲しくなかったのか?」 「え?」 どういう意味だろうか。 「その方が、お前はよく眠れるくせに」 したり顔で言ったお兄さんに、僕の顔は真っ赤になった。 「…添い寝してくれるってことですか」 「まあ、隣りの布団で寝てりゃ同じようなもんだから、今更いらんか」 「え、いえ、その……」 要る、って言ったら流石に呆れられるだろうかとびくつく僕に、お兄さんは滅多にないほどイイ笑顔を見せ、 「してほしいことがあるならちゃんと口に出してお願いしないとな?」 と言って、僕にその言葉を言わせた。 ……どうでもいいことだとは思うんですけど、お兄さん、言い回しがなんか卑猥です…。 「殴るぞ」 と言った時には既にお兄さんの拳が僕の頭に当たっており、 「なんでばれたんですか」 口に出さなかったのに。 「ばれるに決まってるだろうが。分かりやすいんだよ、お前は」 憤然と言ったお兄さんだったが、 「早く寝るなら風呂も早く入らなきゃなー…」 なんて言いながらお風呂の支度に向かうんだから、本当によくできた人だと思う。 意地悪を言ったりするのがなければ、本当に最高なのになぁ…。 そう思っていると、 「いっちゃん、蜜塗りにいくよー」 と縁側から声を掛けられた。 「ああ、はい。それでは行きましょうか」 立ち上がった僕は玄関に回って表に出た。 虫取りに行くのはどうやら、小学生の男の子ばかりらしい。 それでも5人もいるんだから、なかなか凄い。 少子化なんてどこ吹く風だ。 彼らが手に手に持っているのがどうやら蜜らしいのだけれど、一体何を混ぜたのか、少々強烈過ぎる匂いが漂っている。 「凄い匂いですね。どうやって作ったんです?」 「えへへー、内緒ー」 にやにや楽しそうに笑っている顔は、やっぱりお兄さんとどこか似てる。 くんと鼻を鳴らした僕は、 「…お酒、と……お酢ですか? この匂いは。それから何か甘いような…腐ったような匂いが……」 「凄いね、いっちゃん」 感心したように年長の子が目を見開いた。 「鼻がいいんだ」 「それほどでもないですけど」 と苦笑した僕は、 「それにしても、蜜と言う割にお酒やお酢が入ってるものなんですね」 「こういう匂いが虫を惹き付けるんだってさ」 「そうなんですか」 他にも色々と取れる虫のことやどういう木によく虫が集まるのかなんてことを聞きながら、山に分け入る。 と言っても、そう深いところまでは行かない。 ちょっと林の中に入るという程度だ。 明日の朝、まだ暗いうちに来るということだから、あまり足場が不安定なところに行くわけにもいかないということなんだろう。 それぞれが目星をつけた木に、自分で混ぜ合わせた蜜を塗っているのを見つめながら、小さな子供って可愛いなと思った。 ちょっとした動きやまだバランスの悪い体型のせいだろうか。 見ているだけでも微笑ましい。 お兄さんやお姉さんが僕に対して可愛いなんて言うのも、僕にそんな子供みたいなところがあるからなのかと思うと、少しばかり複雑な思いがしないわけでもないけれど。 それでも、子供を見ていて感じるこの気持ちは悪くないと思うし、それと同じ感覚をお兄さんとお姉さんが持ってくれているなら、それはそれで嬉しいと思う。 ニコニコしながら眺めていたら、 「いっちゃん、ぼんやりしてると置いてくぞ?」 と言われてしまったのは、ちょっと恥かしかったけど…。 翌朝、夜が明ける前に、僕は叩き起こされた。 夜中にのそのそと布団に侵入してきて、 「…あっつい……暑いぞ…」 なんて唸りながら薄いタオルケットを跳ね飛ばしておいて僕を抱きしめて寝たたお兄さんはと言うと、朝までそのままの体勢で寝ていたがゆえに、僕と一緒にちびっ子達に飛び乗られ、 「っ、俺まで起こすな! 古泉だけ起こせ!!」 と怒鳴る破目になっていたけど、ええと…自業自得って言っちゃいけないんですよね、これは。 横向きになって眠っていたところを脇腹の辺りに飛び乗られたせいで、内臓がどうにかなってるんじゃないかと言いたくなるような痛みを感じつつ、僕は無理矢理笑みを作る。 「おはようございます」 まだ寝てる子達もいるからと小声で返すと、虫取り隊はすでに元気いっぱいで、 「いっちゃん、急ぐぞー!」 なんて言ってる。 すぐそこの縁側に、わざわざ僕の靴も持って来てくれたらしい。 僕は急いで着替えさせられ、連れ出された。 お兄さんは勿論再び夢の中である。 行って来いの一言もなかった。 まあ、朝早いし仕方ないかと思いながらまだ薄暗く、いくらか肌寒くすら感じられる道を歩いて山に分け入る。 虫を逃がさないように、とでも言うのだろうか。 誰も何も言わない。 足音さえ殺しながら、慎重に目的地へ向かう。 そうして辿り着いた場所では、昨日塗りつけた蜜にうんざりするほど虫が集まっていた。 虫が苦手な人なら逃げ出しそうな光景だ。 「大漁ですね」 なんて呟けたのも、虫籠の中に捕獲し終わった後になってからだった。 それまではあまりの真剣さに声を掛けることもままならなかったから。 口々に嬉しそうな言葉を言う子供たちと一緒に、僕まで上機嫌で山を下りる。 今日はきっと朝ごはんがいっそう美味しいことだろう。 「取った虫はどうするんですか? やっぱり標本にするんですか?」 「標本になんかしないって。可哀想じゃん。手間かかるし」 手間って。 「じゃあ、どうするんです?」 「デジカメで写真撮って、後で逃がしてやるんだ。カブトムシなんかは、あとで相撲とかもして遊ぶけど」 「ああ、なるほど。優しいんですね」 僕が言うと彼は笑って、 「ま、文明の利器は正しく活用しないとな」 とおそらく覚えたての言葉を使って、得意そうに言った。 こんなところもお兄さんとよく似てる。 美味しい朝ごはんを食べた後、子供たちは撮影会に大忙しになった。 庭で繰り広げられるちょっとした騒動を微笑ましく見守っていると、背中にずしりとした重みを感じた。 「…やっと起きたんですか?」 「誰かさんが変な時間に起こしてくれたせいで、寝足りん」 そう言いながらお兄さんは僕の背中に落ち着く様子を見せ、 「……楽しかったか?」 「虫取りですか? ええ、楽しかったです。と言っても、僕は見ていただけなんですけど」 「そうかい」 ならよかった、とかすかに呟いたお兄さんが、まるで甘えるように僕の頭に顔をすり寄せてくると、 「お前、自由研究はどういうことやった?」 「自由研究ですか…」 答えていいのだろうか、と習慣のようにちょっと考えかけて笑った。 隠すべきことなんてありやしない。 何故なら、 「忘れました」 と答えるしかないからだ。 「お前な…」 「本当ですよ?」 「ああ、そうなんだろうよ。だが……」 おそらく渋い顔になったんだろうお兄さんが声を更に潜めて、 「…そんなに、忙しかったのか?」 「そうですね……」 お兄さん相手に嘘を吐いたって仕方がない。 だから僕は子供たちに聞かれないように声を小さくして、 「忙しかったといえば、忙しかったですね。毎日何をして過ごしていたのか、思い出せないくらいですから。でも、それ以上にちょっと問題があるんですよ」 「問題?」 「僕が思い出したくないだけなんだろうとは思うのですが、中学以前のことは酷くおぼろげなんです。言われれば思いだすこともあるのですけれど。あるいは、その頃の僕が覚えていても仕方がないと思っていただけなのかもしれませんね」 そう思うくらい、辛い時期があったのは事実だから。 でも、 「その分以上に、僕は今、とても幸せなんです。あなたの……いえ、SOS団の皆さんのおかげで」 「…そうか」 少しほっとしたようにお兄さんは笑った。 それでも、お兄さんは僕に釘を刺すことを忘れない。 「けど、だからってこれくらいで満足するなよ。もっと楽しいこととか面白いことがあるに違いないんだからな」 「欲が過ぎると不幸になるとも言いますよ?」 「にしたって、お前は無欲すぎるんだよ。男子高校生なんて、普通はもっとギラギラしてるもんだろうが」 「そうですねぇ…。普通ならそろそろ本気で受験勉強を始めなきゃいけない頃ですよね」 「ぐっ…」 言葉を詰まらせたお兄さんに僕はあえてにっこりと笑い、 「帰ったら、しっかり勉強しましょうね。出来れば同じ大学に通いたいですから」 と言ってみた。 返事は正直期待していなかったのだけれど、お兄さんは数分間ああとかううとか呻いた後、 「…わ、かった…努力、する……」 と搾り出すような声で言ってくれた。 そのことが嬉しくて笑うと、 「ニヤニヤするな!」 と叱られてしまったけど。 |