帰省
  二日目(後編)



やっと着いた展望台に、僕たち以外の人影はなかった。
酷く暑いからだろう。
それに、紅葉の季節ならいざ知らず、真夏の今の時期では見えるものといえば一面の青い山々とこじんまりとした街並みで、景観に少々変化が乏しいのも原因のひとつかもしれない。
「腹も減ったし、ここで弁当にするか」
というお兄さんの言葉に否やがあるはずもない。
僕は笑って、
「いいですね」
と頷いた。
これだけ汚れていればピクニックシートがないなんてことは少しも気にならない。
気になることといえば手の汚れだけれど、気の利く誰かがお弁当の包みにお手拭を紛れ込ませておいてくれたので、汚れた手を拭くことが出来た。
「いただきます」
と儀礼的にではなく手をあわせて、ふたを開けたお弁当の中身は、なんだか、お兄さんが作ってくれるお弁当と似ていた。
「そりゃそうだろ。俺もお袋に教わったんだからな」
「でも、ちょっと味が違うんですよね。お兄さんのも、お兄さんのお母様のも」
「……お前、そうやっていちいち長々と言ってて嫌にならないか?」
「え?」
「お袋のことだよ」
俺ならうんざりする、と言いたげにそう呟いたお兄さんは、
「様付けするようなもんでもないけど、略してお母様とかその辺でいいんじゃないのか? 俺は、お袋って呼んだんでいいと思うが、お前がそんな風に呼んだら、俺がお袋に叱られそうだな」
と笑ったお兄さんに、僕は慌てて首を振り、
「そんな、僕がそんな風に呼んだりなんて出来ませんよ!」
「なんでだよ?」
「だって、」
「お前は家族も同然だって言っただろ。いつまでも長ったらしく呼んだ方が、お袋としては楽しくないと思うぞ」
「しかし……」
「いいから、今度呼んでみろよ。それとも………やっぱり、冗談でも他人を母親と同列に並べたりなんて出来ないか?」
そう言ったお兄さんはどうしてだろう。
とても、悲しそうに見えた。
自分の無力さを感じているような、辛そうな表情。
そんな表情をする流れではなかったように思うのに。
「そんなことはないですけど……」
「本当か?」
「ええ」
じっと僕の目を見つめたお兄さんは軽くため息を吐き、聞こえないほどかすかな声で、
「……自分でも気づいてないのか?」
と呟いた。
「何にです?」
「何でもねえよ」
そう吐き捨てたお兄さんは、ともかく、と言って話題をそらし、
「それなら今度呼んでやれ。多分、こっちが恥かしくなるくらい喜ぶだろうからな。その際、俺に代わって息子になれと言われたら快く交代してやるから遠慮すんな」
「何言ってるんですか」
笑いながら、僕はまだ手をつけていなかったお弁当に、やっと箸を伸ばした。
見事な厚焼き玉子を口に放り込み、のりを巻いたおにぎりをかじる。
玉子焼きの塩加減を絶妙だと思うのに、物足りなさを感じてしまうのは多分、お兄さんの作る玉子焼きがしばしば塩分過多になってしまうからだ。
口の中を空にしてから、僕はしみじみと呟く。
「お兄さんの料理が食べたいです」
「一昨日食ったところだろうが」
「でも、食べたいんです。ねえ、」
僕が言い切るより早く、お兄さんは冷たい視線と共に、
「作らんぞ」
「どうしてですか」
「面倒だからだ。こんなところで料理の腕を披露してみろ。けちょんけちょんに貶されるならまだいい。下手に『あらーキョンくん料理上手になったのねぇ』なんて言われてみろ。その時から俺はことあるごとに厨房係に任命されるに決まってる。今の子守係でさえ大変なんだ。それ以上の苦行をわざわざ引き受けるほど俺は聖人でもなければマゾヒストでもねえ」
「そういうものなんですか」
「そういうものなんです」
はぁ、とため息を吐いたお兄さんは、僕が残念がっているのを見て取ったのか、ぽふんと僕の頭に手を置くと、
「……その、帰ったら作ってやるよ。お前が食いたいもんなら、何でも」
その優しさが嬉しくて、僕はつい唇を弧の形に歪めながら、
「…はい、楽しみにしてます」
と答えた。
「……ほんと、なんでお前はそんなに可愛いんだ」
またお兄さんの世迷言が始まった。
僕は既に諦観の域に達しつつあるらしく、もはや反論をしようとも思わない。
「好きに言ってください」
「おう、言われるまでもない」
でしょうね。
苦笑しながらも食べるお弁当は本当に美味しくて、これが作ってくれた人のおかげなのか、この景色のおかげなのか、それともお兄さんが隣りにいるからなのかと考えると、なんだか申し訳ないような気持ちになった。
おにぎりをぱくつきながら、僕は慎重な姿勢を崩さない。
何についてかと言うと、頬っぺたにご飯粒、なんて、べたなことをしてお兄さんに笑われないように、だ。
気をつけなくてもそんなことにはならないと思うのに、ついそうしてしまうのは、隣りからあからさまに期待した視線を向けられているからだ。
「…あの、お兄さん」
「ん?」
「くすぐったいんですけど……」
そう注視しないでください。
「だって……なぁ?」
なあじゃないですよ、全く。
呆れる僕の頬に、お兄さんがぺたりとご飯粒をくっつけた。
「……何やってるんですか」
「期待には応えるべきだろ」
悪戯っぽく笑ったお兄さんは、自分が今くっつけたご飯粒をひょいと抓み上げると、それを口の中に放り込んだ。
僕はほとほと呆れ果てて、
「僕のこと、何だと思ってるんですか?」
と聞いてみた。
当然、弟みたいなもの、とかなんとか返されるものだと思いながら、だ。
しかしお兄さんは意外にも黙り込んでしまった。
それどころか、妙に真剣な表情で考え込んでいる。
こんな表情、テストの時にだって見せないんじゃないだろうかと思うような顔だ。
どうしてそんな風に考え込む必要があるんだろう。
そんな戸惑いがやがて、お兄さんは僕のことをそれほどに思ってくれてないんじゃないだろうかと言う不安に変わりかける頃になって、やっとお兄さんは、
「……何だろうな」
と呟いた。
「うまい言葉が見つからん」
と途方に暮れたように呟く。
僕としては何も言いようがなく、難しく眉を寄せたお兄さんを見つめるしかない。
「帰るまでの宿題、ってことにして、帰ってから答えたんでいいか?」
「ええ、いいですけど……」
本当に、どうしてだろう。
そんなに難しい質問だったかな。
けれども、僕の答えにほっとした表情を見せたお兄さんは、まるで何事もなかったかのように昼食を再開し、食べ終った後も、さっきのを忘れたようにはしゃぎながら、一緒に山を下りた。
本当に忘れたりしたわけじゃないのだろうけれど、そんな風にするお兄さんを見ると、お兄さんは意外と自分の本心を隠すことがうまいんだなと思えて、そうなると、なんだか複雑な気分になった。
寂しいような、それなのにお兄さんの考えていることが読み取れることのある自分が嬉しいような、そんな気持ちだ。
ともあれ、山から下りた僕たちを迎えたのは、お婆さんの、
「いい年して何やってんだい、あんたたちは」
という呆れきった言葉だった。
「体に付いた泥をちゃんと落とすんだよ」
と言われ、今お湯を出し始めたばかりのお風呂に、二人一緒に放り込まれた僕たちは顔を見合わせて笑った。
「まあ、こうなるよな」
「本当に、汚れちゃってますからね」
「出かける前に、沸かしといてくれって頼めばよかったな」
そう言いながら、お兄さんの機嫌はいいままだ。
「先に体洗ってやるよ」
「ええ? お兄さんからでいいですよ。洗います」
「いいって」
「いいですよ」
そんな風にしばらくお互い譲り合った後、お兄さんがしかめっ面で言った。
「仕方ない。夏とはいえこのままじっとしてたんじゃ風邪を引くからな。ここは公平にじゃんけんで決めよう」
「分かりました」
「なお俺は…」
ぐーを出す癖がある、とでも言おうとしたんだろうお兄さんを制して、
「心理作戦は結構です」
と言えば、お兄さんは詰まらなさそうに舌打ちした。
ただ単に洗う順番を決めるだけだというのに、僕たちはやけに真剣にじゃんけんをした。
本気以外の何物でもない三回勝負の結果、珍しくも僕が勝ち、お兄さんを先に座らせる。
「くそ……、古泉にじゃんけんで負けるとは…」
「じゃんけんなんて所詮運の要素が強いんですから、そこまで言わなくていいと思うんですけどね」
苦笑しながら、僕はお兄さんの頭にお湯を掛ける。
「熱…っ」
唸るように言ったお兄さんに、
「え? すみません、そんなに熱かったですか?」
手で確かめたのだけど、お兄さんには熱かっただろうか。
「いや、いきなり掛かると熱く感じないか?」
「…そういうものなんですか?」
「……後でやってやるよ」
「遠慮します」
笑いながら、僕はお兄さんの頭だけでなく全身にざっとお湯をかけた。
それでもまだ乾いた泥がこびりついているけれど、やっぱり頭から洗っていくべきだろう。
掃除と同じで、基本は上からのはずだ。
「どのシャンプーにします?」
「別に、石鹸でいいだろ」
「髪の毛、傷みますよ? せっかく綺麗なのに…」
そう言いながら、僕はお兄さんの意見を無視してシャンプーを取る。
僕の荷物にお兄さんが入れてくれていた、旅行用のものだ。
お兄さんは軽い不興を示すような声で、
「お前みたいなイケメンなら髪にだって気を使うんだろうが、俺みたいな平々凡々とした並の下みたいなのはいいんだよ」
「何が並の下ですか」
それとも、新手の冗談ですか?
「お兄さんはかっこいいですよ。もっと自信を持ってください」
と僕はシャンプーを泡立て、お兄さんの髪を洗い始めた。
普段何もしていないのに、傷んでなくて強い髪が少しだけ羨ましいのは、僕の髪の毛がその対極に近いからだ。
すぐに色は抜けてしまうし、細くて絡みやすくて嫌になる。
「…お前みたいな、変なフィルターを目に装備した奴に、かっこいいのなんのと言われてもなぁ…」
「それはお兄さんには言われたくないですね」
「なんでだよ」
「お兄さんこそ、よっぽど酷いフィルター装備してるでしょう」
「…かもな」
珍しく非を認めた、と思ったけれど、どうやらそう思うには早かったらしい。
「だが、」
と拳を固めたお兄さんは力強く、
「それもこれも全てお前の責任だ。俺は一切悪くない」
「何言ってるんですか」
こういう時はお兄さんの方がよっぽど子供みたいだ。
「お前が可愛いのが悪い」
「もう、勝手にしてください」
苦笑と言うには甘い笑い声を立てながら、僕はお兄さんの髪を洗った。
「痒いところ、ありませんか?」
「んー…特にないが、その辺気持ちいい」
「その辺ってどこですか」
「その辺だって。右手の当たってる辺り」
「ああ、分かりました」
そこを少し力を込めて洗うと、お兄さんが気持ちよさそうに目を細めた。
…猫っぽい。
「お前今、何か失礼なこと思っただろ」
「そんなことありませんよ」
「嘘吐け」
不機嫌に言ったお兄さんを誤魔化すように、
「ほら、シャンプー流しますよ」
と言って下を向かせ、シャワーのお湯を掛けてゆすぐ。
「リンスなんて、」
「するわけないだろ」
ですよね。
そんなことだろうと思った。
しかし、しようとしても無駄だろうと判断して、僕はボディタオルに手を伸ばすと、
「背中も流しますよ」
「ん」
とお兄さんがあっさり頷いたのはやっぱり、慣れのせいだろうか。
タオルに石鹸をつけて泡立て、背中を少し強めに擦ると、お兄さんが気持ちよさそうにするのが分かった。
「お前、背中流すのうまいよな」
「お兄さんの好みを覚えただけだと思いますけど」
「そうか?」
なんて言ってる声が、少しとろんとしてる。
やっぱりお兄さんも疲れたんだろう。
今日は早く眠ることを提案しよう。
背中をしっかり洗って、タオルをお兄さんに渡すと、お兄さんは手早く体を洗った。
泡を洗い流したお兄さんに、
「先に湯船に浸かった方がいいと思いますよ」
と言ってみたのだけれど、お兄さんは小さく笑って、
「頭を洗わせてくれないつもりか?」
と切り替えしてきた。
「そういうつもりじゃありませんけど…」
「それなら、大人しくしてろ」
そう言ってお兄さんは少しばかり荒っぽく僕の頭にお湯を掛け、洗い始める。
少し乱暴なんだけれど、優しいのが嬉しい。
人に髪を洗われたりするのは気持ちいいことなんだということも、僕はお兄さんに教えてもらった。
そんなことを考えていると、ふと気がついたことがある。
僕は結局、お兄さんが僕のことを何だと思っていても関係ないのだと。
どう思っているにしても、お兄さんは僕を大切にしてくれる。
そのことに、きっと変わりはないだろう。
その気持ちに応えられる人になりたい。
応えられる人でありたいと、心の底から思った。