問答



俺はいつもと同じように、教室で谷口と国木田と一緒に弁当を広げていたのだが、どうにも食が進まなかった。
胃の中が別の何かで埋め尽くされているかのように重く、食欲が湧かない。
残すのは、弁当を作ってくれたお袋に悪いからと、谷口に分けてやっていると、不意に長門がやってきて言った。
「……来て」
「どうしたんだ?」
「…いいから」
どことなく事務的に響く長門の声に訝りながら、俺は席を立った。
「谷口、弁当食ったら片付けとけよ」
と言い残してやると、
「お前本当に食わないのか?」
谷口なりに心配してくれているのだろうか。
「ああ、いい」
そう返した後は振り向きもせずに、前を歩く長門についていった。
長門が向かった先は、屋上だった。
本館の屋上はいつも鍵がかかっているはずなのだが、そんなものは長門の前では無力なものに過ぎないのだろう。
いとも簡単に開いたドアから、屋上に踏み出す。
空の青さがどこか堪えるのは、俺が今少しばかり憂鬱になっているからだろうか。
「説明を」
長門の第一声はその一言だった。
突然すぎて一体何について説明を求められたのかは分からなかったが、少しばかり思い当たるところがないわけでもなかった俺は、慎重に問い返した。
「何の説明だ?」
長門は少しばかり沈黙した。
迷っているんだろうか。
いつものことながら透明な瞳が俺を映し続けてはいるのだが、プレッシャーは感じない。
俺を見ているという感じがしなかった。
しかし、それも長い間は続かず、俺の方に意識が戻されたと思うと、長門ははっきりと言った。
「……あなたが、眠っている一樹の唇にあなたの唇を触れさせた、いわゆるキスという行為を行った理由を、説明してもらいたい」
「…って、まさか見てたのか!?」
そこまできっぱりと、見てきたように言われるとは思わなかった俺がうろたえていると、長門は小さく首を振った。
「見ていない。…あなたが少しおかしくなっているから、その理由を調べた」
それはつまり心を読まれたとかそういうことなのではないだろうか。
だとしたら、下手にあのシーンを見られてたとかいうよりもよっぽどまずい気がする。
俺だって曲がりなりにも一般的な男子高校生であり頭の中には長門みたいな女の子に覗かれたくないことの二つや三つや十くらいはあるからな。
それだけじゃ足らないかもしれないが。
パニックに似た状態がすぐに治まったのはやっぱり、相手が長門だったからだろう。
長門への信頼感があるから、余計なことまでは知られなかっただろうとか、たとえ知られたとしても見て見ぬフリくらいはしてくれるだろうと思えたんでな。
俺は深呼吸をして自分を落ち着かせながら、頭の中で言葉を選んだ。
どう言えば、うまく伝えられるだろうかと考えながら。
これがまだ、単純に表現できる感情のせいならよかったのかもしれない。
想像するだけでも薄ら寒いが、たとえば、俺があいつを恋愛対象として好きだとかな。
それだったら、その一言で説明も終る。
だが、俺のこれはそうじゃない。
そんな単純なものではなく、妙に複雑で、自分でもよく分からないようなことなのだ。
分からない、というのがもしかすると一番正確な答えかもしれない。
そんな曖昧な答えじゃまずいだろうな、と思いながらも俺は、軽く頭を掻きつつ、
「…正直、理由は俺にも分からん」
と答えた。
「……分からない?」
「ああ。…もしかすると、俺がそうしたかっただけなのかも知れん」
古泉がそうして欲しがっているだろうとか、そんなことを思った覚えはないからな。
「…一樹に対する恋愛感情が表出したということ?」
「いや、それは違うな」
今も俺は、古泉が彼女か俺以外の親しい友人か何かを作ればいいと思っている。
それに変化はない。
そりゃ、多少接触時間が減ったりしたら寂しく思いはするんだろうが、だからと言って丸出しの独占欲で束縛してしまいたいとか思ったりはしない。
古泉に彼女や友人――要するに、俺やハルヒと関わりのない人間関係が出来、これまでとは違った付き合い方が出来るようになったら、それは俺にとっても喜ばしいことだと思いもする。
…古泉が鬱陶しいとか、そういう意味だけでなく。
こんな風に考えること自体、古泉に対して失礼なくらいの上から目線の思考回路だってことは分かっているのだが、もうすっかり古泉は俺にとって庇護の対象になっちまってるのだから、これくらいは仕方ないこととして諦めてもらいたい。
「あなたのその感情は、愛情と呼ばれるものに似ているように思われる。…違う?」
「それは…」
戸惑ったのは、長門がそんな風に抽象的な概念を持ってくるとは思わなかったからだ。
「…そうかもな」
小声で答えながら思ったのは、もしかすると長門は、俺に考えさせるためだけにそんな言葉を持ち出して来たのかもしれないということだった。
「確かに、愛情に似てるのかも分からん。あるいは、それそのものかもしれない。けどな、俺がもし、一樹に対して愛情を抱いているとしてもそれは家族愛に過ぎないだろう」
「……そう?」
「ああ、断言してやる」
理由は口にできないがな。
……言えるわけないだろ。
古泉に対して性的欲求を覚えたことがないから、なんてことは。
長門や古泉みたいに小難しい熟語を使って堅苦しく表現したところで、要約しちまえば、あいつじゃ勃たないと言うようなもんだ。
そんな言葉は長門みたいな女の子の前で口にすべき言葉じゃない。
「…プラトニックなのかもしれない」
「それは前に一樹にも言われたな」
と答えながら、俺は小さく笑った。
古泉がそう言った時のことが少しばかり懐かしく、長門も同じことを言うのが、古泉と長門が似てきた証のように思えて嬉しかったからだ。
「あなたは…どう思っているの?」
「……そうなのかもしれないと思わないでもない」
というのが俺の正直な気持ちだ。
「けど、だとしたら、今の状況から何か変わるのか? …何も変わらないだろう? 今と同じだ」
それを悪いとは思わない。
むしろ、それでいいと思っている。
「それに、」
俺はいくらか緩んだ表情を引き締めながら言った。
「俺たちには、約束がある」
古泉と交わした約束は、重要なものだ。
俺たちにとってはもちろんのこと、おそらくはSOS団全員にとって。
「あれは、一樹を生かす意味で重要なんだ。せめて、ハルヒに振り回されることがなくなるまでは、守りぬかなきゃならん」
そうでなければ、古泉があの聖人君子染みた自己犠牲精神で何かやらかさないとも限らない。
あいつを繋ぎ止めるためのものだからこそ、あの約束は大事にしたいものなんだ。
「だから、協力してくれ。有希」
長門はもう一度迷うような悩むような様子を見せたが、
「……分かった」
と頷いてくれた。
長門にとっても、古泉は大事な仲間で、守りたい弟分なんだろう。
それならもっと早く、そしてはっきりと、頷いてくれてもよかっただろうに、そうならなかった理由が少しだけ気になった。
…もしかすると、長門には分かっているのだろうか。
そのガラス球のような瞳には見えているのだろうか。
俺や古泉の心も、自分ですら掴みかねている感情の全体像も。
「なあ、」
――お前には分かっているのか?
と俺が問い掛けようとした時、突然ドアが開いた。
「ああ、やっぱりここにいらしたんですね」
笑顔で顔を見せたのは古泉だ。
その発言からして、俺がここにいるだろうと見当をつけて来たらしい。
本当にどういう力が働いているんだろうな。
双子のシンパシーだってここまでじゃないだろう。
「何か深刻なお話でもしてたんですか?」
「いや、大した話じゃない。…どうかしたのか? 一樹」
そう名前で呼んでやるだけで、古泉が喜ぶのが分かる。
「ほかのクラスで調理実習があったとかで、カップケーキをいくつもいただいたんです。お兄さんとお姉さんと一緒に食べたらいいかと思いまして」
と手に提げていた紙袋を俺たちに向かって差し出す。
俺は長門と顔を見合わせた後、
「それじゃ、もらうとするか?」
こくりと長門が頷き、三人でそれを食べた。
どれが美味しいとかこれは少し砂糖が多すぎるとか、あれこれ言いながら分け合って食べるのも楽しくて、長門さえ少しばかり微笑んでいたように思えた。

俺は、もしかすると古泉のことが好きなのかもしれない。
だが、だからといって独占したいというような激しい感情ではなく、こうして長門と三人で過ごすのも楽しければ、SOS団全員で過ごすのも楽しいというような穏やかな感情なのだ。
それなら、それが変質しない限りは、たとえあの約束がなくても、今のままでいいんじゃないかと、そんなことを思った。