狼狽



その日は珍しく谷口たちと過ごした。
たまにはあいつらにも付き合ってやらないと、何かあった時に協力を得られなくなるとか、古泉との噂が余計に酷くなるとか、そういういくらか打算的な考えがあったからこそそうしたのだが、思ったよりも楽しく過ごせたのは、谷口がアホだからだろうな。
今日のことは、あらかじめ長門にも古泉にも伝えてあったから、俺の携帯には二人からのメールも届いていない。
それでいい、と確かに思ったはずなんだが、気がつくと俺は自分の家ではなく、古泉の部屋に向かっていた。
完全に何もない日、あいつは何をして過ごしているんだろうかと興味もあったし、寂しがってないかという不安もあった。
そんな風に心配するのは、我ながらおこがましいと思うし、何様だとも思うのだが、古泉が俺に依存してしまっているということは、困ったことに紛れもない事実であるらしい。
俺の思い上がりではなく。
更に困ったことは、俺がそれを意外に心地好く思っていることだ。
自分よりもでかくて出来のいい奴にこんなことを思うのは妙だとも思うのだが、俺はどうやら古泉に懐かれているということが嬉しいらしい。
勿論、長門が俺を慕ってくれていることも嬉しい。
しかし、それ以上に古泉が懐いてくることの方が嬉しいのは、なんでだろうな。
考えながら古泉の部屋の玄関チャイムを鳴らした。
電子音が室内から漏れ聞こえてきたのだが、返事はない。
「…寝てんのか?」
首を捻りながら、少しばかり心配になって鍵を開けた。
部屋の中が薄暗いから、やっぱり寝てんだろうか。
寝てるなら起こさない方がいいだろうなと思いながら、足音を忍ばせて寝室に向かう。
寝室に入る前に、念のため、小さくノックしたが返事はなかった。
……頼むから、突然の発作でお陀仏なんてのは勘弁してくれよ。
俺は死体の第一発見者なんてもんにはなりたくねえ。
縁起でもないことを考えながらドアを開けると、ベッドに古泉が横たわっているのが見えた。
「…一樹」
声を掛けたが返事はない。
それどころかピクリともしない古泉に、慌てて近寄ると、
「ぅ……ん……」
と小さく声を上げながら古泉が寝返りを打った。
結局寝てるだけか。
「やれやれ」
人騒がせなやつめ。
そう呟きながら、自分の表情が緩んでいるのが分かった。
しかしそれは、俺がおかしいのではなく、古泉の寝顔が余りにも子供っぽく、幸せそうなものだったせいだ。
可愛い、と思ってしまう自分の思考回路が末期症状の如き様相を呈していることについては今更否定のしようもない。
俺は諦めながらベッドの側に座ると、古泉の寝顔を覗き込んだ。
夕食を作ってやってもいいのだが、今から作り出すのは早すぎるだろう、と古泉の側を離れなくていいような口実を考え出す。
無邪気な寝顔に、少しばかり良心が疼くのは、古泉の素の表情が見たいからという理由でからかってしまったりするからだ。
こうして穏やかに眠っているのを見ると、悪いことをしたという気になるのだが、作り笑いをしてハルヒにお追従を言っているところなんかを見ると、ついつい虐めてやりたくなるのだ。
悪いな、と思いながら軽く古泉の鼻筋を撫でてやると、古泉がぴくりと身動ぎした。
その顔が歪み、眉間に皺が寄る。
珍しい表情だ、と思った瞬間、古泉が苦しげに小さく呻いた。
「一樹…!?」
驚いて俺が上げた声に反応したわけではないのだろうが、古泉が唇を開く。
そして、
「――おかあ、さん…」
いつになく幼く聞こえる声が響き、俺は動けなくなった。
それこそ、頭の中まで真っ白になったように思えた。
それくらい、衝撃的だったのだ。
その声も、言葉も。
古泉は自分の家族のことを俺にもほとんど話してくれない。
小さい頃に遭遇したこともあるのだが、あまりよく覚えていない。
随分美人で、優しそうだったことくらいしか。
その家族と、古泉は完全に断絶状態にあるらしい。
それも、自ら望んで。
そうなるに至るまでの話も、古泉はしてくれない。
俺も、古泉が話したがらない以上聞くべきではないと思っているから、聞きたいと思っても聞けずにいる。
だが、古泉が時折口にする言葉の端々から、憎んでいるのかと思っていた。
心底嫌っているのかと思っていた。
それなのに、あんな風に母親を呼んだことが、俺には驚きだった。
聞いてしまったこっちまで心臓を鷲掴みにされたかのように苦しく、切なくなるような声だった。
何だよお前、家族のことが嫌いなんじゃなかったのか?
顔も見たくないんじゃなかったのか?
憎んでるんじゃなかったのか?
今すぐにでも叩き起こして、そう聞きたくなるのをぐっと抑える。
しかし、ただの寝言だと思ってしまうには余りにも切実な思いが込められた声だった。
「…っくそ」
小声で毒づいて、古泉の手を握りしめる。
少しひんやりと冷えた手が、余計に悲しい。
古泉は、本当はまだ、母親が恋しいんだろうか。
家族が恋しいんだろうか。
……きっと、そうなんだろう。
そうでなければ、俺のことを「お兄さん」なんて呼ぶことをあんなに喜んだりしない。
なくしてしまった家族の代わりが欲しいんだ。
おそらく、無意識的にそう思っているのだろう。
普段からそれを自覚していたのなら、俺の方にもそれくらいのことは通じていただろう。
だが、それは少しもなかった。
だから、俺はてっきり、古泉は本当に家族のことを嫌っていると思っていた。
古泉が実際にどんな過程を経て家族との断絶状態に至ったかなんてことはよく知らないが、俺だって、家族から気違いでも見るような目で見られたり、その結果として離れなければならなくなったら、表面的には家族を嫌い、憎むだろう。
裏切られたという思いを抱くかもしれない。
けれど、それでも、家族と離れるということは辛いに違いない。
今の俺だってそうなんだ。
そんなことを中学生の時に体験しちまった古泉が、どんなにか辛かったかなんてことは、俺がいくら想像しても追いつかないだろう。
それくらい、少し考えれば簡単に分かることにさえ、俺は目を向けずに来たのだ。
単純に、古泉が懐いてきてくれることを喜んでいた自分が憎らしい。
古泉のことも考えずに何をやってきたんだと、頭を思いっきり殴りたいような気分になる。
それでも、俺は、古泉といて、楽しいんだ。
申し訳ないとは思う。
古泉が、欲しくもなかった超能力に目覚め、家族と別れてこの町にやってこなければ、俺は古泉に会うどころかその存在を知ることすらなかっただろう。
それを思うと、古泉にとっての不幸を喜んでしまうのも事実だ。
だから、俺が古泉に何かしてやりたいと思うのはただの偽善か欺瞞なのかもしれない。
俺に出来ることなんてたかが知れているわけだから、そんなことを思うことさえ余計なことで、本当は古泉のためじゃないのかもしれない。
それでも俺が古泉といたいと思うのは偽善じゃない。
自己満足ではあるかもしれないが。
「ん……」
古泉が身動ぎする。
目を覚ますか、と俺は反射的に身構えたのだが、古泉は寝返りを打っただけだった。
よっぽど疲れていたんだろうか、と向こう側を向いてしまった古泉の顔をのぞきこむ。
ベッドが揺れ、これで目を覚ますかと思ったが、そうはならない。
まだ苦しそうに眠ってるんだろうか。
そう思いながら覗き込んだ顔は少しだけ表情が緩んでいた。
しかし、その目元に一粒だけ見えた水滴に、俺はうろたえた。
それが何かということさえ考えたくない。
同時に、何があったのか、どんな夢を見たのか、今すぐ起こして聞いてやりたくなった。
それをぐっと堪えながら、考える。
夢の中でも笑っていて欲しいと思うのは、わがままなことなんだろうか。
起きている時に、作り笑いではなく、本物の笑みを見せて欲しいと思うことも、俺の身勝手な願望なんだろうか。
……考えているうちに、自分がどうしたいのかさえ分からなくなってきた。
そう、分からなくなったんだ。
だから、考えすぎて、何も分からなくなっちまった結果なんだ。

――寝てる古泉を抱きしめ、キスした、なんてのは。



目を覚ました時、自分の置かれている状況がよく分からなかった。
理由は分からない。
ただ、一瞬、本当に一瞬だけだけれども、自分がどこにいるのか分からなくなっていた。
突然知らない場所に連れて来られたかのような違和感はすぐに消えた。
ここは僕の部屋だ。
お兄さんのおかげで、以前よりは遥かに居心地がよくなってきた、僕の部屋。
今日はどうしていたんだったっけと考え、部屋の中をぐるっと見回して、思い出す。
そう、確か今日はお兄さんが一緒に遊べなかったから、部屋でのんびりしようと思ってたんだ。
それなのに早々に閉鎖空間に出動する破目になって、想像以上に体力を消耗して、心身ともに疲れきって家に帰った僕は、着替えも出来ずにベッドに倒れ込んだんだった。
今は何時だろう、と携帯を探すけど見当たらない。
サイドボードに置く余裕もなかったんだっけ。
ごそごそとポケットを探ると見つかった。
……19時?
ちょっと、寝すぎたかな。
のそのそと布団から這い出ると、ベッドを降りてキッチンへ向かう。
「……あれ?」
「…よう」
キッチンのテーブルの上には、食事の用意が整っていて、そうしてくれたのだろうお兄さんが、ばつが悪いと言うような顔をして座っていた。
「やっと起きたのか?」
「ええ…。あの、どうしたんです? 谷口氏他ご友人の方々と一緒だったのでは……」
「んなもん、夕方には解散したに決まってるだろ」
それでは、その後すぐ、うちに来てくれたんだろうか。
もしかすると、自分の家に帰りもせずに。
だとしたら、とても嬉しい。
お兄さんがそれだけ僕のことを考えてくれることも、照れくさそうにしながらも優しくしてくれることも。
だから僕は、
「ありがとうございます」
と心からの感謝の気持ちを込めて言ったのだけれど、どういうわけか、お兄さんは顔をしかめてしまった。
「……やっぱり、何かあったんですか?」
「…なんでそう思うんだ?」
「勘です」
でも、下手な推論よりはよっぽど当てになると思う。
お兄さんも、そう思ったんだろう。
深いため息を吐くと、
「ちょっとな」
「教えては……くれないんですね」
そんな気がする。
「…すまん。お前が悪いとかじゃないんだ。悪いのはむしろ俺だ。……すまん」
「……どういう意味でしょうか?」
まさか、これっきりでもうお兄さんと呼ばせてくれないということなんだろうか。
今夜の夕食が、妙に手間のかかる、豪華なものばかりなのも気になる。
「心配しなくても、」
僕の不安を見透かしたように、お兄さんは困ったように笑いながら言った。
「お前を見捨てるとかそういう算段は立ててねぇよ。今更見捨てたり出来ないくらいには、お前のことも気に入ってんだからな」
「ありがとうございます」
嬉しくて締りのない表情になってしまったけれど構わないだろう。
ここに涼宮さんはいないし、お兄さんも咎めるつもりはないようだから。
僕は、お兄さんの向かいに腰を下ろしながら、
「もし、お兄さんがまた僕を突き放そうとしているのだったらどうしようかと思いましたよ。今度こそ、何らかの強硬手段にでも出て、お兄さんを引き止めなければならないのかと」
少しオーバーな表現をすると、お兄さんも笑いながら、
「強硬手段ってのは何だよ」
「そうですねぇ……」
と僕は唇に指を当てながら考え込んだ。
軽く目を閉じ、考える。
「例えば、お兄さんを押し倒すというのはどうです?」
思いついたことを口にしながらお兄さんに視線を戻すと、何故かお兄さんが目をそらしていた。
「……お兄さん?」
「あ、いや、…なんでもない」
「…えぇと、聞いてました?」
「聞いてた、が、聞かなかったことにしてやる」
「それは残念です」
そう答えて肩を竦めながら、僕は出来るだけいつもの調子を取り戻したいと思っていた。
お兄さんがいつもと少し違うことが、なんだか苦しい。
まるで、自分がお兄さんを傷つけてしまったような気分になりながら、
「あの、僕、何かしてしまいましたか?」
「なんだよそりゃ」
「いえ…お兄さんが、何か悩んでおられるようなので……」
「…確かに、ちょっと考えてたが、今はとりあえず考えもまとまってるからな。……俺がおかしいとしたら、自分の限界にぶち当たったせいだろうな」
「限界……ですか?」
「……」
お兄さんは黙って僕を見つめた後、軽くため息を吐き、
「俺じゃ逆立ちしたってお前の母親代わりにはなれねぇんだよなー…」
………。
「一樹? どうした、黙り込んで」
「……あ、の、それ、どういう意味ですか?」
「どういうもこういうも……そのまんまだろ」
「いえ、どうしてそんなことを仰るのかと思いまして……」
「そう思ったから言ったまでだ。何かおかしかったか?」
男のあなたがそんなことを言い出すこと自体が既におかしすぎる気がするんですけど、と言ってしまおうかと思った。
それを思い止まったのは、どうやらお兄さんがいたって本気に見えたからだ。
やはり、僕が何かしてしまったんだろうか。
お兄さんがそんな珍奇なことを言い出すような何かを。
状況は分からないし、お兄さんも教えてくれないだろう。
それなら、僕に出来ることはひとつだけだ。
「…僕としては、母親よりもお兄さんの方がいいですよ」
浮かべた笑みが苦味を帯びていることは咎めないでもらいたい。
「本当か?」
「ええ。お兄さんの方が、好きです。それに、僕には兄がいなかったので、余計に嬉しいんですよ」
「……そう、か。…俺でも、役に立ててるんだな」
独り言のように呟いたお兄さんに、僕は今度こそ明るい笑みを浮かべ、
「お兄さんはいつだって僕のことを支えてくれてますよ。お兄さんがいない状況なんて、考えられないくらいに」
「……ありがとな」
くすぐったそうにしながらもそう言ったお兄さんが微笑んで、その笑顔だけでも僕は幸せになれるんだと伝えたら、信じてくれるだろうかと、僕は少しの間考えた後、意外と大胆なくせに恥ずかしがり屋でもあるお兄さんの心情を慮って、黙っておくことにした。