休日



その日は何の予定もない休日だった。
暇だから妹の相手でもしてやろうかと思ったのだが、妹の方がミヨキチと一緒に遊びに行っちまったので手持ち無沙汰だ。
古泉でも呼べればいいんだろうが、今日は朝からバイトで出かけると聞いていたからそれも出来ない。
どうしたものかな、と思っていると、玄関からピンポーンと電子音が響いた。
誰だ、と思いながら顔を出すと、長門が玄関先に突っ立っていた。
「珍しいな。何かあったのか?」
長門の返事は首を振る仕草だった。
「遊びに来た」
水晶よりもずっと澄んだ、綺麗な瞳がじっと俺を見つめてくる。
俺が思わず唇をほころばせながら、
「よく来たな、有希」
と言うと、長門もほっとした様子になった。
そのまま長門を部屋に上げ、俺の淹れた、うまくなければもまずくもないお茶を二人で飲んだものの、長門と会話を成立させるのが難しいことは経験上よく分かっていることだった。
それに、初対面の頃とは違って、わざわざ会話をしなくてもいいことも学習済みだ。
だから俺は長門とふたりで部屋の床に座って適当に過ごした。
長門は持参した本のページを静かにめくり続け、俺は買ったまま放り出してあった本を読んだり、ゲームをしたりした。
つまりは一緒に何かしたということではないのだが、それでも、なんでだろうな。
ひとりで部屋にいた時よりもずっと楽しく感じた。
長門も、ひとりでいたくなかったんだろうか。
だから、わざわざ俺の家に来たのか?
そう思うと、くすぐったいがそれ以上に嬉しい。
「有希、昼飯何がいい?」
時計が正午を過ぎたのを見て、俺が聞くと長門は顔を上げ、
「いいの?」
「当たり前だろ。昼になったからって追い返すとでも思ったのか?」
冗談交じりに言うと、長門はふるふると首を振った。
当然だ。
「いっそ、一緒に何か作るか?」
と俺が言ったところで、俺の携帯が鳴った。
メールの着信を告げるそれに携帯を開くと、古泉からのメールが届いていた。
『今から行ってもいいですか』
という簡潔なそれに思わず笑みを漏らしながら、
『これから昼食だから、腹を減らして来いよ』
と返してやり、長門と共にキッチンに向かった。
「三人分か。…何を作るかな……」
考えながら冷蔵庫の中身を確認する。
それなりに揃ってるから、大抵のものは出来そうだが、何が手間がかからなくていいかな。
『分かりました』
という古泉からのメールを確認した後、
「冷ご飯もあるし、炒飯でも作るか?」
と長門に聞くと、頷き返された。
「じゃあ、材料を刻むから手伝ってくれ」
「…分かった」
二人並ぶには少しばかり狭いキッチンなので、俺はまな板を長門に任せ、少し前にお袋が買ってきた安っぽいカッティングボードを手にテーブルに移動した。
そうして二人がかりでやれば、みじん切りなんていう面倒な作業もさっさと終る。
ちょっとした悪戯心で、長門に玉ねぎのみじん切りを任せてみたのだが、長門は平然と刻み続けていた。
「長門、目は痛まないか?」
「平気」
「そうか」
長門のことだから何か玉ねぎの飛沫を遮断するようなことでもしているんだろうか。
長門の目に涙が滲んでるところなんてちょっと見てみたくもあったのだが。
と思いながら長門を振り返ると、その目から涙が望陀として零れ落ちていた。
「な、長門!?」
「……何?」
声はいつも通りだ。
「目、痛いんじゃないのか?」
「痛くはない。気化した硫化アリルによって粘膜が刺激され、涙が出ているだけ。通常の反応であり、問題はない」
涙が出てるってことは痛いということだと思うのだが、長門は痛みを感じる神経も違っているのだろうか。
「大丈夫なのか?」
「大丈夫。…もう少ししたら切り終わる」
と長門が言った時、玄関でチャイムが鳴った。
古泉か。
「ちょっと出てくる」
俺がそう言うと長門は頷いて作業を続行した。
「悪いな。切り終わったらすぐに手とか顔とか洗った方がいいぞ」
「…分かった」
俺はキッチンを出て玄関に向かうと、ドアを開いた。
そこには予想通り、嬉しそうに微笑む古泉がいた。
「こんにちは、お邪魔します」
「ああ、よく来たな」
そう迎えてやったのだが、古泉はちょっと首を傾げ、
「誰かいらっしゃっているのですか?」
どうやら、靴と物音で気付いたらしい。
「有希が丁度来てたんだ」
「それはそれは……もしかして、お邪魔でしたか?」
そんなことはありえないと分かってて言うのは何なんだ。
そう呆れながらも、俺はちょっとした悪戯心を起こして、
「ああ、その通りだ」
「おや」
意外そうに軽く眉を上げた古泉は、くすくすと笑いながら、
「お邪魔してしまってすみませんね。涼宮さんには内緒にしておきますから、どうぞ心おきなく仲良くなさってください」
「なんでそこでハルヒの名前が出てくるんだ」
「いけませんか? …ああ、でも、そうですね。お姉さんなら、お兄さんと交際されても、涼宮さんは許してくださるかも知れません。なんと言っても、同じSOS団の仲間ですからね。そうでない、全く無関係な女性とあなたが付き合う、なんてことになったら、涼宮さんは許してくださらないだろうとは思いますが」
ハルヒ以前にそんなことを許しそうにない奴がよく言うぜ。
「そうですね。お兄さんの仰る通りです。どんな組織が背後にいるとも知れないような方とお兄さんが付き合う、なんてことになったら、真っ先に反対させていただきますよ」
「アホか。ほら、冗談はいいからさっさと上がれよ」
「はい。お邪魔します」
小さく声を立てて笑った古泉を家に上げてやり、キッチンに連れて行く。
「昼飯にはもう少しかかるから待ってろよ。全く、予想以上に早くきやがって……」
「すみません。実は、メールをした段階で既にこちらへ向かっていたんですよ。今日ならきっと家にいらっしゃるだろうと思いまして」
別にそれくらい構わないし、お前ならたとえ俺がいなくても他に誰かいれば部屋に上げるくらいのことはするだろう。
「ありがたい限りですね」
と笑っていたはずの古泉がぎょっとした様子で目を見開いた。
その視線の先には長門がいる。
包丁を使う手を止めた長門がこちらを向き、
「…いらっしゃい」
と古泉に言ったのはいい。
だが、あの長門が泣いているばかりか、零れ落ちる涙を拭いもせず、頬を伝わせるに任せたまま、というのはあまりにも衝撃的な出来事だったのだろう。
呆然としたまま微動だにしない古泉に、俺は苦笑しながら声を掛けた。
「一樹、よく見ろ、玉ねぎのせいだ」
「…あ……」
と古泉は、やっと我に返った様子を見せた。
「まあ、長門が大泣きしてるところなんて見慣れないものを見たら驚くのも仕方ないだろうが…」
「ええ、本当に驚かされましたよ」
そう苦笑した古泉は、すぐにその笑みを悪戯っ子のようなものに変え、
「お兄さんがお姉さんを泣かせたんだとしたら、どうしようかと思いましたよ」
「どうしようかって、どうするんだよ?」
「そうですね……」
と古泉は考え込んだが、やがてにこっと笑うと、
「お兄さんからお姉さんを引き離して、『いくらお兄さんでもお姉さんを泣かせたりしたら承知しません!』と叫ぶ、というのはどうでしょう?」
「いい」
と呟いたのは、玉ねぎを刻み終えた長門だった。
いい、という返答の場合、拒否のニュアンスを含んだ場合と、肯定の場合とがあるが、今の長門の呟きはどうやら、肯定であったらしい。
唖然とする俺を他所に、長門は古泉に目を向けると、
「もし、お兄さんに泣かされるようなことがあったら、一樹に言う。その時は、助けてくれる?」
古泉は困ったように視線をさ迷わせた。
さっきのは冗談です、とでも言いたげなのだが、それくらいのことは長門にも分かっているだろうと判断したのか、
「はい」
と頷き、
「もし、万が一にも、そのようなことになったら、すぐ呼んでください。僕に出来ることであればなんでもしますからね」
「……ありがとう」
嬉しそうに長門が呟き、俺と古泉は顔を見合わせて小さく笑った。
「そういうことですから、お姉さんを泣かせたりしないでくださいね?」
「ああ、分かってる。そんなことになったらお前にまで泣かれそうだからな」
「よくお分かりですね」
「って本気で泣くつもりか」
「そういうつもりでなくても泣いてしまうと思いますよ。お兄さんがそんな人だったとは思いもしませんでした、とね」
「勘弁してくれ…」
もしうっかりと長門を泣かせてしまった時に古泉にまで泣かれたら、それこそどうしていいのか分からなくなる。
思わず天を仰いだ俺に、古泉は楽しげに笑って見せた。
それから狭いキッチンでもなんとか工夫しながら、三人で昼飯を作った。
出来上がったのは炒飯とインスタントスープにありあわせの野菜のサラダくらいだったが、文句を言う奴がこの場にいるはずがない。
三人揃って、
「いただきます」
と手を合わせて食べた昼飯は、適当に作ったにしてはなかなか上出来だった。
「美味しいですね」
「…美味しい」
「長門がうまく材料切ってくれたからだろ」
おかげで作りやすかった。
「ありがとな」
と俺が言うと、長門は小さく頷いた。
照れているように見えたのは見間違いではないだろう。
くすぐったいような、満たされるような気持ちになりながら、俺は昼飯を平らげ、長門と古泉が食べ終えるのを待って部屋に移動した。
ベッドにもたれるようにして座った俺の左側に長門が腰を下ろし、反対側に古泉が座る。
そのままぼんやりとテレビを見ていたのだが、俺はちらっと古泉の横顔を見ると、明らかに疲労を蓄積させている目元を指で押した。
「っ、な、なんですか?」
驚く古泉に、
「お前、疲れてるんだろ?」
と言ってやると、苦笑を返された。
「お見通しですか」
「お前は結構分かりやすいからな」
そうでもないと思うんですけど、などともごもごと口にする古泉の頭に手をやり、
「機関に呼び出しでも食らったかどうかして、そのままうちに来たんだろ? 疲れてるんなら素直に寝ろ。ほら」
と俺の膝の上に頭を押し付けるようにして倒してやると、
「膝枕ですか……」
「文句でもあるのか? ああ、長門の膝枕がいいなら、長門に頼め」
「いえ、そんな、」
古泉は慌てて、
「僕はお兄さんの方がいいです」
と言った。
……俺の硬い膝よりは長門の膝の方が、枕にしても気持ちがいいと思うが。
「お兄さんが、いいんです」
そう言った古泉の笑顔が――いつものことと言ってしまえば全く以ってその通りなのだが――非常に可愛かったので、俺は出来るだけ優しく、その柔らかな髪を撫でた。
古泉はしばらくの間くすぐったそうに身を捩っていたが、やがて丁度いい体勢を見つけたのだろう。
体を少しばかり斜めにねじり、両手をあわせるような姿勢になると、そっと目を閉じ、動きを止めた。
いつ見ても長い睫毛だなとか男のくせに綺麗な肌だなとか、俺がひそかに思っているうちに、規則的な寝息が聞こえ始める。
思わず表情を緩めたところで、隣りで本を読んでいた長門がぴったりくっついてきた上で、その手を古泉の頭に向かって伸ばした。
躊躇いがちに、古泉の髪を撫でる長門も可愛い、と俺は長門の頭を撫でた。
長門は少しの間じっと俺を見つめていたが、やがてこてんと俺の肩に頭を載せた。
髪の触れる感触が少しばかりくすぐったいが、それもまあ、悪くはない。
長門はそのまま本を読み続け、俺はぼんやりとテレビを見続けた。
くっついたままだったのは、それが俺にとっても心地好く、長門もその姿勢で落ち着いていたからだ。
会話もなく、部屋の中がひっそりと静まり返っていても息苦しくないのは本当に貴重だよなと、しみじみと思いながら俺は目を閉じた。
古泉の規則正しすぎる寝息が眠気を誘ったのが悪い。

数時間後、三人で引っ付きあって眠っているところを妹に発見され、笑われたことだけを追記しておく。