懸念



俺が自分の部屋でテレビを見ていると、
「お兄さん」
と言って顔を覗かせた奴がいた。
当然古泉だ。
その状況が当然とされる現状もどうかと思わないでもないのだが、そうしたのは俺であり、つまりは自己責任として諦めよう。
それに、そうやって古泉の方から懐きにくるというのも、悪くはないのだ。
「どうかしたのか?」
と聞いてやると、古泉は明るい笑顔で、
「甘えたいだけです」
「お前な…」
呆れる俺のすぐ側に古泉が腰を下ろし、ベッドが揺れた。
「抱きしめて、いいですか?」
「……好きにしろよ」
「ありがとうございます」
ぎゅっと抱きしめられながら、俺は眉を寄せた。
何かがおかしいと思ったのだ。
古泉はいつも通りに見える。
だが、どこか奇妙な違和感があるように思えた。
何か隠し事をしているような、変に気を遣っているような感じだ。
そうでなければ、虚勢を張っている、とでも言い換えたら丁度いいかもしれない。
何を隠しているのかということまでは分からない。
ただ、無性に胸騒ぎがした。
古泉の頭を撫でてやりながら、
「お前、何か隠してるだろ」
とストレートに言うと、古泉がその表情をかすかに強張らせた。
「何のことでしょうか?」
「無駄な抵抗はやめろ。……隠してるんだろ。何かは分からんが、そんな気がする」
「……困りましたね」
と古泉は力なく笑った。
俺が顔をしかめてしまうほど、酷い笑みだった。
そんな顔は見たくない。
「聞かずにおいてはくださいませんか?」
「……その方が、お前は楽なんだろうと思う。それは分かる。だが、だからと言って放っておけないくらい、酷い顔だぞ」
「そうでしょうね。……お兄さん、」
古泉の手が、心細げに震えながら俺のシャツの裾を握り締めた。
「……もしかしたら、なんです。確定どころか、その可能性があるというだけの話で、つまりはただの杞憂に過ぎないのかも知れないんです。それでよければ、聞いてくださいますか?」
「俺が話せって言ってんだろ。…聞かせてくれ」
「……お兄さんから、離れなければ、ならない、かも、…知れないんです……」
一瞬呆然とした俺に、古泉が更に体重を掛ける形で抱きつき、俺は古泉共々ベッドの上に倒れこんだ。
俺はそれを咎めることも出来ないほど驚き、うろたえていた。
古泉が俺から離れなければならないかも知れない?
誰が言ったのかは分からんでもないが、どうしてだ。
何でそうする必要がある。
「もしか、したら…っ、北高から、転校しなくては、ならないかも、しれなくて…」
泣き出してしまった古泉を宥める余裕もない。
どうしてそうなるんだ。
「機関の内部に、ごたごたが、起きてるんです。元々、僕は主流から外れた位置に、いて、不安定な状況では、あったの、ですが…、今後、更にまずいことに、なるかも、知れないんです…」
そう言えば、大分前にそんなことを言っていた気がする。
それが今更、影響を与えるって言うのか。
「もし、そうなったら、何かこれまでと違った動きを、取らされるかも知れないんです。…転校なら、まだ、いい方です。あなたの信頼を裏切るようなことだけは…したくないんです…」
ぼろぼろ涙を零しながら、古泉は言った。
「僕は、あなたの側に、いたいんです。…SOS団に、…ひっく、……いたいん、です…。でも、あなたを裏切るようなことだけは……絶対に、したくなくて…」
嗚咽を上げて泣く古泉を抱きしめながら、俺は考え込んだ。
どう言ってやればいいんだろうか。
どうすれば、古泉は落ち着くのか。
安心できるのか。
一番いいようにしてやれるのか。
……俺の一番望むような形を、保つためにはどうしたらいいのか。
俺の望みは、今のように古泉と長門と、それからもちろんハルヒも朝比奈さんも一緒に、楽しくやっていくことだ。
それがいつまで続けられるかなんてことは分かるはずもないが、とにかく今の望みはそれしかありえない。
古泉が泣いたりするような状況は何があっても回避したい。
古泉を独りにしたくもない。
苦しめたくも、ない。
どうしてやることが一番いいのかなんてことは分からない。
だから俺はただ黙って古泉を抱きしめることしか出来なかった。
「お兄さん、ごめんなさい……っ。約束、守れなくなっても、許して、ください……」
「…何言い出すんだ」
「十年後まで、一緒に、いられなくても……僕は…お兄さんが、好きです……」
そんなことは分かってる。
だが、そうは言いかねた。
そうしてしまえば、古泉が本当にいなくなってしまいそうで怖かった。
「……約束は、守れよ。守るためにするのが約束なんだろ?」
「……は、い…っ。出来る、だけ、やっては、みせます……」
「出来るだけじゃなくて、絶対に守れよ」
それだけ言って、強く抱きしめた体が酷く儚く思えた。
「……思い出を、作らせてください」
少しして、そう言った古泉を引っ叩いてやりたくなった。
「思い出なんてのはわざわざ作るもんじゃないだろ」
そう吐き捨てると、古泉はうな垂れて、
「…そうですね。すみません、失言でした」
「……古泉、」
「はい?」
思い出はわざわざ作るものじゃない。
だが、その時が来ても後悔しないように、色々なことをしておきたいと思う。
「…頼むから、黙っていなくなるなよ」
「……はい」

泣きじゃくる古泉を撫でてやりながら、俺は長門に相談しようと考えていた。
長門は古泉のことを気に入っていて、俺と古泉と長門の三人で兄弟みたいになってるんだ。
それなら、長門に内緒にするわけにはいかない。
それに正直、長門に縋りたい気持ちだった。
「一樹、有希には伝えていいか?」
俺が聞くと、古泉は一瞬躊躇したようだったが、
「…ええ、構いません。お姉さんでしたら簡単に分かることでしょうから、隠しても仕方がありませんし、それに、正直、僕も、縋れるものなら、縋ってしまいたい気持ちなんです…」
「なら、縋ればいいだろ。お前が行った方が有希も喜ぶだろうし、ちゃんと相談した方がいいに決まってる」
「……本当に、そうでしょうか」
「…不安なのか?」
何を今更、と思う俺に、古泉は困ったように笑って、
「すみません。…やはり、お兄さんとお姉さんは違うと思ってしまうんです」
「違うって……」
やっぱり男同士の方が気安いってことか?
「いえ、そうではなくて……」
古泉は言い辛そうにしていたが、俺に睨まれて負けたらしい。
「…こう言うと、お兄さんを不快にさせてしまうとは思うのですが、」
と前置きして、口を開いた。
「……僕は、いまだに信じられないんです。いくら、かなりの自立行動を得た長門さんであっても、果たして人間としてそこまでの欲求を持ち、しかもそれを実行に移すか、と疑わずにはいられないんです。もちろん、そうであって欲しいとは思うのですけれど……これは、僕があくまでも機関の人間であるからなのかも知れません」
「……本気でそんなこと思ってるのか?」
「少しだけです。…大部分は、お姉さんを信じてますよ。ただ、そのほんの少しの部分があるがために、躊躇ってしまうんです」
そう言った古泉の顔が泣きそうに歪む。
古泉の目元に指先で触れると、そこがかすかに震えているのが分かった。
「こいず、」
「お兄さんが、」
じわりと涙を滲ませながら、古泉が俺の肩に自分の顔を押し当てた。
「ただの人で、よかった。どこか別の組織や、世界や、とにかく、涼宮さんに関係する諸団体の思惑に関係ないところに、お兄さんがいてくれて、よかった…」
「…古泉……」
「そうじゃなかったら、僕は、きっと、まだ、独りで…っ」
「…お前、そんなに嬉しいのか? 俺なんて大したことも出来ないから、精々こうやって慰めてやったり、一緒に何かしてやるくらいしか出来ないんだぞ」
「いいんです…っ! お兄さんは、それで、十分なんです…。お兄さんが、お兄さんだから、…僕も、お姉さんも、……涼宮さんや朝比奈さんだって、救われる思いがするんです…」
正直言って古泉の言いたいことはよく分からなかった。
俺がどうだからといってハルヒや朝比奈さんに何の影響があるって言うんだ。
古泉と長門についてはその通りなのかも知れないが、それだって疑わしい。
俺が顔をしかめると、古泉はそっと笑って、
「お兄さんがそんな風だから、よかったんでしょうね」
「……なんだそれは。どういう意味か説明しろ」
「しても分からないと思いますよ」
…俺もそんな気はする。
「ああ、」
と古泉が嬉しそうに笑った気配がした。
「…お兄さん、大好きです。ずっと、そのままでいてくださいね」
それで誤魔化したつもりか、と返すことも出来ず、俺はため息を吐いて古泉の頭を撫でてやったのだった。