不安



古泉が、「一樹」ではなく「古泉」に戻ってしまったことに気がついたのは、どうやら俺だけだったらしい。
いや、長門も気がついてはいるのだろう。
しかし、その様子を見せることはなかった。
それが長門なりの古泉への配慮なのか、はたまた長門がそれを認めたくないからなのかは分からない。
長門は表面上はいつも通りに見えたが、どうにも寂しそうに見えた。
そりゃあ、そうだろう。
あれだけ可愛がっていた弟分がいきなり他人行儀に戻ってしまったんだからな。
気持ちはよく分かる。
よく分かるどころか、と俺はため息を吐くしかなかった。
「一樹」
下校途中に分かれた後、俺は来た道を引き返して古泉を追いかけた。
追いついた古泉にそう声を掛けても、返答はない。
「一樹。聞こえないのか?」
肩を掴み、振り向かせる。
その表情は笑みの形になってはいたが、酷く空虚で、遠いものに思えた。
「何か御用ですか、」
そう言って古泉は俺を呼んだが、名字にさん付けするなんて呼び方はここのところろくにされていなかったし、特にこうして二人だけの状態でそうされるのはいつ以来とも知れないことで、俺は知らず知らずのうちに顔を歪めていた。
そうさせる感情の名前は多分、嫌悪だ。
「お前、何かあったのか?」
「何か、とはなんでしょうか。比喩的にでなく何事もない一日などありえないでしょうし、かと言って我々が日常を更に掻き乱されるような大事件も起きていないと思いますが?」
「そういう意味じゃないって分かって言ってんだろう」
いい加減にしろよ、と俺は拳を固めた。
殴るためじゃない。
自分を抑えるのに必要だっただけだ。
古泉はあの薄ら寒い、と言うよりはむしろ腹立たしいことこの上ない歪んだ笑みを見せ、鼻にかかった笑い声を立てた。
「さて、どうでしょうか」
「ふざけるなよ。――機関か?」
機関に何か言われたのか、と睨みあげた俺に、古泉は意外とあっさり白状した。
「ええ、その通りです。機関としても、あなたが僕を構いすぎる状況は看過出来ないと判断したようです。それによって涼宮さんが要らぬ疑念を抱き、結果として閉鎖空間の発生率が拡大しては困る、とね。実際、このところまた発生のペースが上がっているんですよ。僕がこの一ヶ月の間にどれだけの回数、あの嫌な場所に赴かねばならなかったと思います?」
「…そんなことになってんのか?」
比喩でなく、ずきりと胸が痛んだ。
だが、それを見透かしたように、古泉は嘲笑を投げ掛けてきた。
「あなたのそういう偽善的なところが嫌いなんですよ」
一瞬、何を言われたのかと思った。
戸惑いながら古泉を見上げると、
「聞こえなかったんですか?」
とこれまでに見たこともないような冷たい目で射抜かれた。
「僕は、あなたなんて嫌いです。だからもう、構うのは止めてください」
それを本気で言っているのだと分かった。
だが、それでも信じたくなかった。
俺は、そのために固めていたんじゃないというのに、ぐっと固めた拳を古泉にぶつけていた。
綺麗な、可愛いとさえ何度も思った顔を殴った手が、酷く痛かった。
「機関の命令だからそんなことを言いだしたのか? お前は機関の人形でもなんでもないだろ!?」
無駄だと思いながらもそう叫んでいた。
視界が歪む。
泣きたくなんかない、と堪える俺に、古泉は色の変わり始めた頬を押さえながら酷薄に笑った。
「そうですよ」
「何が…そうなんだ」
「僕は、人形なんかじゃありません。あなたと距離を取ろうと決めたのも、大部分は僕の意思です。…正直、うんざりしていたんですよ。あなたみたいな平凡な、僕より何か優れているわけでもない、ただ僕が失ってしまった様々なものを持っているということと、涼宮さんに選ばれたということだけで僕より優位に立っているに過ぎない人に、同情されることも、恩着せがましく世話を焼かれることも」
そう言って古泉は俺を睨みつけると、
「機関の命令だから、鍵であるあなたの機嫌を取ってきました。でももう、その必要はない。――僕は、あなたのオモチャでもペットでもないんです。不必要に構うのはやめてください」
「……嫌、だったのか…?」
情けない声で聞いた俺に、古泉は冷たく言い放った。
「気付いてなかったんですか? 本当におめでたい人ですね。少し考えれば分かることでしょう? 誰がこの年になって同い年の男に好きこのんで甘えたがると思うんです? あなたがそうと望んだから、あなたの希望に沿うようにするよう命じられたから、そうしていただけのことです」
「……そうか」
言いながら、さっきほどショックを受けていない自分に気がついた。
唇には笑みすら浮かんでいる。
それでも涙が滲んで来ていることも事実であり、俺は泣き笑いとでも言うべき顔になりながら古泉を見つめ返した。
「…よかった。お前も、そんな風に率直に嫌いだとか言えたんだな」
「バカにしてるんですか? それとも、偽善者ぶるのはそんなに楽しいことなんですかね」
好きに言えよ。
ああ、好きにすればいい。
腹の中に溜め込まれるよりはずっと気分がいいからな。
それに、言われた分くらいは言い返してやる。
「何が可笑しいんです?」
「可笑しいに決まってんだろ。本当に全部演技だったって言えるのか?」
「妙な期待を抱かれても困りますから断言しますけど、その通りですよ」
「それにしては、今のお前もこれまでと違ってるようには見えんな。相変わらずガキっぽくて生意気に見える」
「っ、」
ぱん、と乾いた音がして、それから俺の頬が痛み始めた。
平手打ちってお前はどこの女の子だ。
男なら殴る位しろよ。
俺はそんなことを思いながら笑って、
「ほら、ガキじゃねぇか」
「あなたに、…っ、あんたなんかに、俺の何が分かるって言うんだ!」
憎々しげな眼差しが痛い。
だが同時に嬉しくて、自分がどうなっているのかさえ分からなくなる。
「分からんな。分かってほしいんだったら全部ぶちまけて見せろよ。それもせずに誰も分かってくれないなんて言うのは馬鹿げてると思わないか? この卑怯者。もっとも、ぶちまけたところで分かってくれると思ってんならそれこそ甘ったれたガキの言い分だろうがな」
「うるさいっ」
もう一回叩かれた。
これまで言わなかったような言葉を投げつけ、投げつけられながら、本当に痛んでいるのはどこだろうと考えた。
触れられた覚えもない胸がずきずきと痛むのは、良心の呵責というやつなんだろうか。
それとも、古泉に嫌われた、いや、嫌われていたということが痛いんだろうか。
……どうして、嫌われたんだろうな。
古泉が言うように、鬱陶しかったんだろうか。
だが、俺の目には古泉は十分嬉しそうに見えていた。
だから俺は調子に乗って構うことが出来て、それが楽しかったんだ。
今みたいに好き勝手なことを言い合い、ぶつけ合えるのも悪くはない。
多少ギスギスしたところでそれはそれでいい関係と言えなくもないだろう。
だが、やっぱりそれでは寂しいと思った。
もっと構ってやりたい。
可愛がってやりたい。
そんなことを強硬に思うくらいには、俺にとって古泉一樹という人間は可愛いもので、愛しいとすら言っていいような存在で。
「あんたなんか、大っ嫌いだ!」
泣き出しそうな古泉の声と、腹に感じた衝撃が最後だった。


「キョンくん起きて!」
わかった、起きる。
起きるから腹の上から退きなさい。
「もー、ほっぺた叩いても起きないんだから」
お前かよ、と思いながら妹を部屋から追い出す。
だが、着替える気にもなれず、ため息を吐きながら外を見た。
いい天気だがそれが憎らしいくらいには気分が晴れない。
夢でよかった、と思ってもいいはずだというのに、それ以上に気付かされた不安で胸が重い。
正夢だったら、古泉が本当は俺のことを嫌っているのだとしたら、と思うと胸が痛んだ。
あいつが俺に執着するのと同じくらいか、あるいはそれよりも強く、俺もあいつに執着しているのだと思うと、恐ろしくもなる。
だが既に、だからと言って手放せるほど軽い存在ではない。
古泉に会ったら率直に聞いてみよう、と思いながら、俺はその日を過ごした。
ぐるぐると思い悩んでいたせいで、調子は最悪だった。
ハルヒにも、
「あんたどうかしたの?」
と言われたくらい。
それくらい目に見えて落ち込んでいたらしい俺は、授業中もいつにも増して上の空で過ごし、待ち望んでいた放課後になっても、まだ悩みながら部室に向かった。
今週はハルヒは掃除当番で、部室に来るのは遅くなる。
折りよく、朝比奈さんもまだ来ていない部室には、いつも通りの長門と古泉がいた。
「よう」
そう声を掛けるだけのことが妙に怖かった。
だが、古泉は嬉しそうな笑みを見せ、
「こんにちは」
と返してくれた。
その笑みが作り笑いでないことに安堵する。
それでも、夢は夢に過ぎないと一笑に伏してしまうには、あの夢はリアルすぎた。
だから俺は、古泉の前に座ると、
「一樹、妙なことを聞いてもいいか?」
「なんでしょう?」
首を傾げた古泉に、数秒間躊躇いはしたものの、今夜の安眠のために、と俺は口を開いた。
「――お前、俺のこと、好きか?」
古泉は驚いた様子で目を見開き、
「突然どうなさったんです?」
「実は嫌いだったり、しないか? 本当は俺のことなんて取るに足らないものだと思って、偽善者だとか思ってるのに、無理して俺の機嫌を取ろうとしたり、してないか?」
思い出す夢の断片が胸に痛い。
古泉は苦笑しながらも考え込む様子を見せ、
「――仮に僕があなたのことを慕っている演技をしているとします。そうであれば、僕が今ここであなたを好きですと言ったところでそれは嘘であり、そうかもしれないとあなたが疑っている以上、僕が今何を言っても無駄なのではないでしょうか? それとも、あなたはそれでも信じられますか?」
「それは…」
古泉の言葉に口ごもる。
全くその通りだ。
古泉の言葉が嘘か本当かなんてことを判断することは出来ない。
いや、出来ると言えば出来るのだが、古泉が何を考えているかが分かるなんてのは本当に調子のいい時、気の合っている時であり、俺が今、こんな風に疑心暗鬼に陥っている状態では分からないに等しい。
嘘を吐いていないと感じても、それが自分の思い込みではないかと思ってしまうんだからな。
だとしたら、古泉に何を言われたところで、俺は信じられないんじゃないだろうか。
特に、古泉の言葉が自分にとって都合がよければいいほど、信じられないに違いない。
更に鬱々とした気分になった俺に、古泉はいささか慌てた様子で、
「すいません、冗談です。いつもの調子でふざけ過ぎましたね。お兄さんがそこまで落ち込んでいると思わなかったものですから…」
「じゃあ、なんだ、さっきの発言はわざと俺をからかうつもりで口にしたって言うのか?」
「すいません」
殴るぞ。
「いいですよ?」
と古泉は頭を突き出してきたが、俺は顔を顰めるしかない。
古泉のことを殴るなんてのはもう十分だ。
「要らん」
「そうですか。……それにしても、どうしていきなりそんなことを思ったんです? 僕がお兄さんを嫌いかもしれないなんて、本気で思ったんですか?」
「…悪い夢を見たんだよ。だから、不安になった」
不貞腐れながら言うと、古泉が小さく声を立てて笑った。
「こう言うと不謹慎ですけど、嬉しいものですね」
「何がだ」
「お兄さんがそうやって僕のことを気に掛けてくれることが、ですよ」
そんなもの、今更だろう。
前々から、自分でもどうかと思うほど古泉のことを俺は気にしてるんだからな。
「嬉しいです。大好きですよ、お兄さん」
にこにこと笑いながら言った古泉は、本当のことを言っていると感じた。
でも、ついでだからこの機会に他のことも聞いてしまえ。
「お前、俺にされて嫌だと思うこととか、俺にして欲しいこととかないのか?」
「僕は今でも十分満足してますよ? というか、お兄さんにそこまで言われるとちょっと気持ち悪いですね。お兄さんが病気にでもかかって熱でも出してるんじゃないかと心配になってきましたよ」
ある意味では病気で間違いないとは思うけどな。
何とかしてこの不安を拭いたい、と思った俺の心を読んだわけでもないのだろうが、それまで黙って本を読んでいた長門が口を開いた。
「一樹は素直にお兄さんに甘えればいい。そうすれば、お兄さんも安心する」
「……そうなんですか?」
長門と俺の両方に問いかけた古泉に、長門は頷き、俺も頷き返した。
「そうだな。その方がいい」
「…じゃあ、」
と古泉は少し考え込んだ後、
「抱きしめてくれませんか?」
「……そんなことで、いいのか?」
「はい」
思わず心配になるくらい欲のない奴だ、と思いながら俺は立ち上がり、古泉の傍に立った。
立ち上がった古泉を抱きしめてやると、体格差のせいで俺が抱きついているような形にしかならなかったが、それでも古泉は嬉しそうにしていた。
「可愛いとか、言ってもいいか?」
「前から言ってたじゃありませんか」
それはそうなんだが、嫌がる素振りも見せていただろう?
「照れ隠しだって分かってたでしょう? …そこまで不安になるような夢だなんて、一体どんな夢だったんです?」
「とりあえず今は言いたくない。後で落ち着いたら話せるかも知れんが」
そう言いながら、俺は古泉を更に強く抱きしめた。
俺の方が慰められるとは、といくらか嘆かわしい気持ちになりながらも、それは決して不快なことではなかった。