「こんにちは」 と俺に声を掛けてくるのは古泉くらいのものだと思ったら間違いだ。 年がら年中SOS団でつるんで活動しているとはいえ、それなりに友人もいるし、そうでなくても妙に顔を知られてしまっているため、からかい半分に声を掛けられることもある。 だが、今日俺に声を掛けてきたのは、新川さんだった。 「こんにちは。珍しいですね」 そう答えながら、俺は新川さんがスーパーの袋を提げているのに目を止め、思わず沈黙した。 「ああ、これですか」 と笑った新川さんはいたっていつも通りである。 「実はこの近くに住んでいるんですよ」 「そうだったんですか」 もしかすると、いつ何時閉鎖空間が発生し、古泉を送迎する必要が生じてもいいように近くに住んでいるんだろうか。 「よろしければ、少し話しませんか?」 と言ってくるところに古泉との類似性を見た俺は、少し笑いながら、 「いいですよ、俺も古泉のこととか聞いてみたいと思ってたんで」 と答えた。 金もないし、新川さんにおごらせるのも難だったので、自販機で買ったコーヒーを飲みつつベンチに腰掛けて話すことにした。 古泉が挨拶を返してくれるようになってくれたなどと嬉しそうに話す新川さんを見ていると、孫の話をしているようにしか見えない。 俺まで微笑ましいような気分になりながら、新川さんの話を聞きつつ、古泉がうちに来た時にどんな間の抜けたことをやらかしたかなどを暴露していたのだが、コーヒーがすっかり空になったところで、新川さんは楽しそうに言った。 「本当に……古泉が楽しそうにしていられるのはあなたのおかげですね」 新川さんとしてはそれで話を終わらせるつもりだったんだろう。 だが、俺が軽い気持ちで、 「俺のお陰と言われるとくすぐったいですが……以前の古泉はそんなに酷い状態だったんですか?」 と口にすると、新川さんは苦い表情を見せた。 なんとも答えがたいような、複雑な顔をした新川さんに、俺は眉を寄せた。 「そうなんですか?」 そう問い質すように口にしてしまったのは、古泉のことが心配だったためだ。 以前のことだから今は関係ないとは言えないだろう。 もし、今後何かが古泉に起こったとして、以前にあったことを知っていれば、何らかの対応が取れるかもしれないし、そうならないように注意することだって出来るはずだからな。 俺が単純な好奇心で聞いているわけではないと通じたのだろう。 新川さんは小さくため息を吐き、 「……そうですね、あなたには、お話しても大丈夫でしょう」 その発言をまるで大仰なヒロイックファンタジーの登場人物のようだなどと茶化す余裕もその時はなく、俺は神妙な表情になりながら、新川さんが続きを口にするのを待った。 新川さんは天を仰ぎ、どこか遠くを見つめるように呟いた。 「……力に目覚めた後、我々と接触した頃の古泉は、既に表情も感情も乏しくなっていました。よほど、ショックなことがあったのでしょう。おそらく、家族とのことで…」 そこまで酷かったのかと驚くとともに、俺も原因があるとしたら家族のことだろうと思った。 それくらい、子供の頃の古泉は幸せそうだったし、今の古泉は家族というものを欲しながら、以前の家族を驚くほどに嫌っている。 嫌悪という言葉を使ってもいいほどに。 どうしてそうなったのかと聞くことはしていなかった。 してはならないと思ってきた。 何があったのかも、聞かずにいた。 「あれは、人間不信などと言うものですらありませんでした。自らが人間であることさえ、放棄してしまったようにしか見えなかったほど、古泉は酷い有様でした。その古泉を……我々は…」 新川さんは苦しげに言葉を詰まらせた。 その先の言葉に、想像はついた。 だから俺は、 「新川さん、無理して話さなくていいんですよ」 と言ったのだが、新川さんは首を振った。 「いえ、言わなくては。あの時私は、見逃すことでそれを容認してしまったのですから…」 それなら、俺は大人しく黙って聞くべきなんだろう。 俺はじっと新川さんを見つめ、話の続きを待った。 新川さんは深呼吸染みた呼吸を繰り返した後、口を開いた。 「……大人しく命令に従う古泉を、我々にとって都合のいいように育てたのです。作り笑いや敬語で話すことを教え、彼を道具のようにして…。一時は、それでも、彼もいくらか表情や子供らしさを取り戻していたのです」 その「一時」、というのはおそらく、俺が会いにいったあの5月の頃のことだろう。 あの時には、古泉に表情が乏しいということなど思わなかったが、もしかすると、自殺しようとしたところを邪魔されてヤケになったかどうかして、あんな風に振舞えただけで、そうでなければ仮面を被った古泉にしか会えなかったのかもしれない。 まだぎこちない仮面越しに出会わなくてよかった。 もしそうだったら、俺はきっと、今持っているような感情を古泉に抱くことはなかっただろうからな。 「けれど、それは機関にとって、余計なことでしかありませんでした。古泉に子供らしさを取り戻されては困る、という見方が大勢を占めていたのです。戦いに怯えられても困るし、戦いを拒絶されても困る、と。我々は、わざと古泉を孤立させたのです」 「孤立…って……」 新川さん、それはまさか…。 「中学生期の子供と言うものは敏感なものです。異物はすぐに見出し、排除しようとします。それに拍車をかけるなら、教師に見てみぬフリをさせるか、あるいは積極的にそれを助長させるだけで、あっという間にエスカレートしていきます」 一般論に似せかけた言葉が、答えだった。 それと共に思い出されるのは、古泉の軽い、しかしながらどこか感覚が麻痺したような言葉だった。 俺が嫌がらせに遭ったあの騒動の時、嫌がらせについて、あいつは笑顔でさらりと言ったのだ。 『いじめと言うんですか?』 嫌がらせの数々をいじめとして認識せず、淡々と受け入れているような態度が、あの言葉にはあった。 その嫌がらせ、いや、いじめが、中学生の頃にすでにあったとしたら? それも、機関の指示で。 なんてこった。 俺はぐっと唇を噛んだ。 余計な言葉が口から出ていかないように。 そう、だって、新川さんは悪くないのだ。 新川さんにしてみれば、ここで俺にそれを暴露することで、俺に咎めてもらいたいのかもしれない。 だが、そんな権利は俺にはない。 そんな権利が存在するとしたら、古泉だけが持っているはずだ。 だから俺は黙り込んだ。 握り込んだ手が、力の入れすぎで震えることくらいは許してもらいたい。 そうでもしなければ、耐えられないような感情が腹の中に溢れていた。 義憤にも似たそれは、たとえるなら、自分の大切なものを傷つけられた時に感じるような怒りだった。 自分のテリトリーを蹂躙されたような、と言い換えてもいい。 「…古泉は、あの頃から強い子供でした。どんな目に遭わされても、誰にも告げず、怒りはただ神人にだけ向けて」 古泉が強い? 俺はあいつくらい弱い人間を他に知らない。 強がって見せながら、その薄い仮面のすぐ下では泣き顔を浮かべているような奴だ。 うまく甘えることも出来ず、ちょっと幸せになるとすぐに不安がって、不満があっても内に溜め込んでなかなか吐き出そうとしない。 それなのに、機関はそんな古泉を何とかしようと思わなかったのか。 少しでもよくしようとせず、むしろ悪化させて来たなんて。 それなら、古泉が機関を嫌うのも当然だったのだ。 それなのに俺は無神経にも、少しは新川さんへの態度を軟化させろとか、同じ超能力者同士で少しは交流を持ったらどうだとか、知ったような口をきいて…。 それが、古泉をどんなに傷つけたかは、分からない。 ただ、申し訳なくて堪らなかった。 何でも分かる、気持ちも通じていると思い込んでいた。 でも、そうじゃなかった。 俺はあいつの仮面の下にある苦しみの根深さに少しも気付けなかった。 あいつはその苦しみを少しも俺に告げてくれなかった。 それが悲しい、と言うよりもむしろ、無意識のうちにあいつを裏切ってしまい、同時に裏切られたような心持ちに思えた。 悔しくて、辛くて、だがそれをぶつける先もなく、ただ腹の中でぐるぐると渦巻くだけの感情が余計に苦しい。 古泉が怒りを神人に向けた理由も、分かる気がした。 神人とはつまりハルヒだ。 自分の人生を歪めたもの、全てを狂わせたものに怒りをぶつけて何が悪い。 たとえそれが、機関の手の内で踊らされているのだとしても。 「私は、良心の呵責に苛まされながらも、機関の方針に逆らうことが出来ませんでした。そのために、古泉に釘を刺し、子供に戻ることを防ごうとしていました。それ以上に、古泉はもう変われないと思っていたのです。子供らしさを失ったまま、悲しくも寂しい大人になっていくのだと。……でも、」 とやっと新川さんは少しだけ表情を緩ませた。 「あなたは、いとも簡単に古泉を変えてくださった。あの古泉から、人前でもないのに、『ありがとうございます』と言われた時の、私の気持ちが分かりますか?」 「…なんとなく、分かりますよ」 驚きながらも、凄く嬉しかったんでしょう。 新川さんはゆっくりと頷き、 「そんなあなただから、古泉も私も、信じたいと思うんです。これからも、古泉のことをどうぞよろしくお願いします」 「こちらこそ、お願いします。機関のことは俺には分かりませんし、手出しも出来ませんけど、新川さんならさり気なく守ってやることも出来るでしょう?」 「ええ、そうですね。やれる限りのことは、やりましょう」 やれる限り、と言いながら、新川さんは決意を秘めた目をしていた。 それこそ一身を賭してと言わんばかりの目だった。 新川さんと別れ、家に向かって歩きながら、俺は考えていた。 古泉が表情に乏しくなっていて、教え込まれた作り笑いくらいしか出来なかったのだとしたら、あいつが演技がへたくそなのも仕方ないことなのかもしれないと。 実際に驚いたりするのであれば、出来るんだろう。 それだって、軽く目を見張るだけや、眉を上げるだけの不自然なものが多いのだが、それがあいつにとって出来る最大限の感情表現なのだとしたら、驚いてもいないのにそうして見せることはおそらくとても難しいに違いない。 だからあいつは演技が下手で、わざとらしくなるか平坦になるかどちらかしかないのだろう。 だとしたら、大根役者などと言って悪かったかも知れん。 またもや湧き出してくる罪悪感に、曇り空を背負わされたような気持ちになりながら家に入る。 妹は居間でテレビを見ていたが、俺を見つけると、 「あ、キョンくんおかえりなさーい。いっちゃん来てるよー」 「古泉が?」 間が悪い、それともいいのか? 俺はどんな顔をするべきかと思いながら自室に向かい、ドアを開けた。 「あ、お帰りなさい」 俺に遠慮しているのか、ベッドではなく床に寝そべっていた古泉が、嬉しそうに笑ってそう言った。 「ただいま」 と返しながら、自分が自然と笑顔になっていることに気がつく。 古泉が作り笑いでなく笑みを浮かべていることがこんなにも嬉しく感じられるとはね。 あるいはそれで当然なのかもしれない。 「どこに行ってたんですか?」 「あー……内緒だ」 「内緒って何でです? ……あ、もしかして何かやましいことでもしてたんですか?」 床に腰を下ろした俺の腰に抱きつきながら言う古泉に、軽くデコピンを食らわしてやる。 「何がやましいことだ」 「で、結局何をしてたんです?」 「……」 このまま黙り込んでいたところで不審がられるだけだろう。 俺は少し考え、 「コンビニに行ったら新川さんに会ってな」 「え…!?」 古泉の表情が強張る。 硬直したその頬を引き伸ばしてやりながら、 「ついでだから少し話してた」 「えええ…!?」 大きく見開かれた目が子供のようで可愛い。 「い、一体何を話してたんです?」 「…お前の恥ずかしい話だ」 「いっ!? は、恥ずかしい話って…」 どういうわけか青褪める古泉に、俺は喉を鳴らすように笑い、 「嘘だ」 「……う、嘘なんですか」 ほーっと息を吐いた古泉に俺はにやっと笑い、 「というか、心当たりでもあったのか?」 「ありませんっ! も、もう、…酷いですよ」 ぷぅっと膨れて見せるのも、可愛い。 「ほら、何やらかしたんだ? 言ってみろよ」 「してませんってば」 「したんだろ」 「してません!」 「正直に言えよぉ、古泉ぃ…」 ねっとりと絡みつくような声で言ってやると、古泉がばっと赤くなった。 「な、なな、なんて声出すんですかあなたは!!」 「人の声を卑猥なもののように言うな」 「その通りでしょうが!」 そんな風にぎゃあぎゃあ言うのも楽しい。 騒ぐ古泉を見て、可愛いと思うことも。 この笑顔を守りたい。 もっとそれを広げたい。 そう、心の底から強く思った。 |