誰がなんと言おうと、そしてそこにどんな力が働いていたとしても、それは純然たる事故であり、それ以上の意味はないということを、先に言っておく。 そこから何か新しいことが始まったり、今ある何かが発展したりすることもないかわりに、そのために何かが終ることもないんだから、それもまた、どこかおかしな日常の中の一コマに過ぎないのだろう。 大分前に遊んだきり放り出していた野球盤で遊んでやろうと思ったのは、ただの気まぐれだった。 オセロにもチェスにも飽きていたから、系統の違うもので遊ぼうと思ったのだ。 ところが、いざ遊ぼうとしたところで、パチンコ玉がなくなっていることに気がついた。 それでは野球盤は成り立たない。 かくして俺と古泉は、ちっぽけなパチンコ玉探しをするハメになっちまったのだ。 「どこへ行ってしまったんでしょうね?」 そんなことを言いながら古泉がハルヒの私物入れである段ボール箱を漁り、俺は本棚と壁の間をのぞき込む。 「何探してんの?」 と聞いてきたのはハルヒだった。 いつものように、 「やっほー!」 とか何とか叫びながらドアを開け、そのままそう聞いてきたのだ。 ちなみに、すでに放課後になってから30分以上が経過している。 団長は重役出勤でなければならないとでも思っているんだろうか。 それなら市内探索の日にも遅れてきてくれたところで別にいいと思うんだが。 「パチンコ玉を探してるんです。久し振りに、野球盤で遊ぼうと思いまして」 にこやかな、しかしながら対ハルヒ用の作った表情で、古泉が答えると、 「パチンコ玉?」 何か思い当たる節でもあったのか、ハルヒは腕を組みながら部室の中を横断した。 荷物を置き、団長席に腰を下ろす。 「…思い出した!」 漫画か何かのように、ぽんと手を打ったハルヒは、 「結構前に、床に落っこちてるのが目障りだったから、本棚の上に放り投げたのよ」 ……なんでまたわざわざそんなところに、と愚痴のひとつもこぼしてやりたい気分だが、ハルヒには何を言っても無駄なんだろう。 俺はハルヒに聞こえるようため息を吐きながら、古泉がいつも使っているパイプ椅子を本棚のすぐ側まで引き寄せた。 靴を脱ぎ、椅子に上がる俺へ、 「危ないですよ。僕がかわります」 と言いながら古泉が近づいてくる。 「これくらい大丈夫だろ」 そう答えつつ、埃の積った本棚の上に目を走らせると、端の方に小さな銀色の球が見えた。 手を伸ばせば届くだろうが、袖に埃がつきそうだな。 俺はブレザーを脱ぐと、机の上へ放った。 「後でついでに掃除をした方がいいかもな。埃が凄い」 「普段はそんなところまで掃除をしたりしませんからね。季節外れですが、大掃除でもしましょうか」 「そうだ、な…っ」 背伸びをしながら、パチンコ玉へ手を伸ばす。 「本当に大丈夫なんですか?」 大丈夫だって言ってるだろ。 端の方だから手が届き辛いんだよ。 椅子を移動させた方がよかったか、と思った瞬間だった。 指先がパチンコ玉に届いたのは間違いない。 パチンコ玉が転がり、本棚の上から落下していったからな。 だが、落下したのはそれだけじゃなかった。 「い…っ!?」 声を上げる間こそあったものの、俺はバランスを崩し、パイプ椅子ごとひっくり返った。 「う、わ…!?」 古泉の声が重なる。 ガシャン、とパイプ椅子の倒れる派手な音がした。 反射的に目を閉じた時、唇に、何かが触れた。 そのまま強かに体の前面を打ち付ける。 だが、床にそのままダイビングするよりはずっとマシな衝撃だっただろう。 カツン、とやけに硬質な音がしたのは歯をぶつけたせいだ。 痛みと衝撃で、倒れこんだまま動けずにいると、ハルヒが何か言うのが聞こえた。 こういう時、普通なら、 「大丈夫!?」 とかなんとか、多少なりとも慌てた声で言うか、あるいは冷ややかに、 「何やってんのよ」 と呆れるところだろう。 ところが、普通なんてものをつまらないと吐き捨てる我等が団長が呟いた言葉は、 「……こんなこと、本当にあるのね」 というよく分からないものだった。 なんだそりゃ、と思いながら目を開けると、ピントも合わないほど近くに、見慣れた誰かの顔があった。 一瞬、呆然とし、それから脊髄反射の勢いで起き上がった俺は、ぶつけた足やら胸やらが痛むのを、立ち上がってから感じた。 「もうっ、なんでデジカメ用意しとかなかったのかしら! 絶好のシャッターチャンスだったのに!」 悠長かつろくでもないことを言いながら、地団太踏んで悔しがるハルヒに何か言う気力も湧かん。 それくらい現状を把握しかねていた。 なんだこれは。 一体どういう状況なんだ。 どうやったらそんなことになるんだ。 少女マンガでもあるまいに。 「それにしても、本当にあるのね。落っこちた拍子にキスしちゃうなんて」 俺に下敷きにされた挙句、とんでもない場所をお互いにぶつけちまった相手は、言うまでもなく古泉だった。 「キスじゃないだろ」 なんとかそれだけ言いながら、俺は古泉の側に膝をついた。 古泉はよっぽどショックだったのか、それとも成長期も終りに近い人間に押し潰され、かつ、いきなり床に倒れこんだせいで体が痛むのか、まだ床に倒れていた。 「大丈夫か?」 そう声を掛けてやると、古泉はやっと我に返った様子で、 「え、ええ、大丈夫です」 と言いながら体を起こそうとした。 が、どうも腰を強く打ちつけたらしい。 痛そうに顔を顰める古泉に、 「無理はするなよ」 「いえ、大丈夫ですよ。これくらい、どうってことはありません。少ししたら落ち着きますから」 そう言いながら古泉はもう一度床に頭をつけた。 頭と言えば、 「頭もぶつけたんじゃないのか?」 「一応受身は取りましたから、大丈夫ですよ」 「ならいいんだが……おかしいと思ったらすぐに病院に行けよ」 「…はい」 そう小さく笑いながら頷けるなら、本当に大丈夫なんだろう。 ほっとしたところで、背後からハルヒが、 「なんだ、意外と普通ね」 と詰まらなさそうに呟いた。 「どういう意味だ?」 「もっと慌てるかと思ったのに。赤くなるくらいしたら?」 「無意味だな」 俺はそう一刀両断した。 「ただ単に俺がうっかりとすっ転んだ結果として古泉を押し潰しちまっただけだろ」 この際どこがぶつかったとか何秒間触れ合っていたとかそういうことは問題にならん。 「余裕ね。……もしかして、キスしたことでもあったの?」 「あるわけないだろ」 …少なくとも、口にはしてない。 「お前は俺と古泉の関係を何だと思ってるんだ?」 「友達なんでしょ。あんたの言い分を信じるなら」 間違っても馬鹿げた噂話は信じてくれるなよ。 「噂が当てにならないってことはよく分かったわ。あんたたちが付き合ってるって噂も、鶴屋さん家の近所の池に何かいるって噂も、嘘だったもんね」 夏場とはいえ、あの綺麗とは言いかねる池を捜索させてくれたことは多分一生忘れんぞ。 帰ってから妹に、「キョンくんなんかくさーい」とまで言われたんだからな。 「でも、」 とハルヒは顔を顰め、 「さっきの落ち着きっぷりを見てると付き合ってないのが不思議なくらいだわ」 「ハルヒ、お前は俺に古泉とそういう意味で付き合えとでも言いたいのか?」 だとしたら全力で拒否させてもらうぞ。 「別に、そこまで言うつもりはないけど、噂されるくらいは覚悟しなさいよ」 ご忠告ありがとよ。 しかしそれも今更なもんでなぁ。 後ろ指刺されたところで痛くも痒くもないんだな、これが。 ……畜生。 古泉と友人付き合いをしていることによるマイナス面のひとつだな。 何が悲しくて男と付き合ってると思われねばならんのだ。 俺はそんなことを思ってもなお古泉を突き放せない自分のお人好し加減に呆れながらため息を吐きながら、古泉に目を向けた。 やっとこさ体を起こした古泉だが、顔を顰めている。 「…本当に大丈夫なんだろうな?」 「ええ。少し痛みますが、湿布を貼っておけば大丈夫でしょう」 ……心配だ。 「…決めた」 「はい?」 不思議そうに俺を見上げてくる古泉に、俺は言う。 「今日はお前のところに泊まる」 「ええ!?」 驚いたのは古泉だけでなくハルヒもだったが、構うものか。 「そうじゃなかったらお前が俺の家に泊まれ。ひとりで放っておくのは心配すぎる」 俺が言うと、ハルヒが何故かほっとしたように、 「あ、そ、そういうことね」 と呟き、 「そうね、そうした方がいいと思うわ。古泉くん、一人暮らしなんでしょ? 夜中に何かあったら大変だもの」 「はぁ…」 古泉は困惑しながらハルヒと俺を見比べ、 「……分かりました」 総大将の死を知らされた敗軍の将の如く頷いた。 なんでそこまで悲壮感を漂わせる必要があるんだろうな。 その後、帰る道すがら、俺は長門に聞いてみた。 「本当にあれは偶然だったのか?」 と。 あれというのは要するに、俺が見事に古泉の上に落下し、しかも唇などというえらく範囲の狭い場所をぶつけちまったことだ。 偶然にしては出来すぎているだろう。 そう思った俺はどうやら間違っていなかったらしい。 「涼宮ハルヒが一度でいいから見てみたいと思っていたこと。ただし、それは強い願望ではない。そのため、あのように必要要件が揃って初めて実現した」 やれやれ、妙なもんを見たがる奴だな。 俺は肩を竦めながら、隣りで腰を気にしながら歩いている古泉を見た。 ……これでまた妙な噂が立たなきゃいいんだが。 |