満足



俺は真面目とも勉強熱心とも言いかねる上、向上心旺盛というわけでもないし、逆に問題が多いというわけでもない中途半端さのため、教師もかえって指導に頭を痛めるようなタイプの生徒だが、それでもたまにはやる気を出したりもする。
しかし、試験前の一時とはいえ、勉強をする気になるなんて奇跡的だ。
何しろ俺にとって授業時間とは睡眠時間を補い、束の間の休息を得るためにあるものだからな。
その俺が何で勉強なんてする気になったかというと、古泉といつものように話していると、偶々勉強の話になったせいだった。
「僕は文系の科目が苦手なんです。現代文で読解問題を出されると悲惨ですね」
そう恥ずかしそうに言った古泉に、
「お前でも苦手なものとかあるのか」
と俺が言うと、
「苦手なものばかりですよ」
謙遜も過ぎると嫌味だぞ、と言わないでおいたのは、どうやら古泉が本気でそう思っているらしいと分かったからだ。
だから俺は、
「読解の方が俺はマシだな。漢字の書き取りとかは酷いことになるが」
「漢字は暗記すればいいので、まだ気が楽です」
「それは暗記が出来るからこそ言える台詞だな。俺は暗記なんて出来んからな。数学も地歴も散々だ」
「数学でよろしければ、僕がお手伝いしましょうか? と言っても、一緒に勉強するだけですけど」
「お前のクラスと俺のクラスじゃ進度が全然違うだろ。お前の邪魔になるだけじゃないか?」
「いえ、数学は基礎と反復が大事ですから、十分意味はありますよ。それに、ひとりで部屋にいても、なかなか勉強する気にならないんですよね」
「お前でもそんなことを思うのか」
「思いますよ。ついつい関係のない本を開いてしまったり、掃除を始めてしまったりするんですよね。おかげで、テスト前の今は部屋も綺麗ですから、よろしければいらっしゃいませんか?」
お前の部屋は元々綺麗だろうが。
「しかし……勉強会か」
あのなかなか終ってくれなかった夏休みを締めくくった勉強会を思い出し、俺は小さく笑った。
今度は古泉と二人だけだから、あんな風に騒がしくも、慌ただしくもならないだろうが、それはそれで楽しそうだ。
「邪魔していいか?」
「僕からお誘いしたんですから、もちろんどうぞ」
「じゃあ、甘えさせてもらおう」
そんなわけで、俺は土曜の午後から古泉の部屋に上がり込んでいるのだった。
「早速始めましょうか」
といきなり言った古泉は真面目だ。
着いてすぐにか、と言わなかったのは、兄貴分としての矜持みたいなものだ。
ただでさえ、弟と妹の方が優秀なんだからな。
せめて態度では兄らしくしていよう。
そうして、大人しくノートと教科書、ついでに問題集まで広げて、勉強を始めた。
土曜日だってのに、男とふたり、頭をつき合わせて勉強会とは色気がないが、そもそも色気なんてものとは程遠い生活を送っているんだから今更文句は言うまい。
それに、なんでだろうな。
これはこれで楽しいと思っちまったんだよ、俺は。
だから、真面目に問題にも取り組んだ。
分からないのも多かったが、
「一樹、ここはどの公式を使うんだ?」
などと遠慮なく聞くと、古泉は自分がやっていた問題を中断させてまで答えてくれる。
それも迷惑がる素振りなどかけらもなく、むしろ嬉しそうに。
「嫌じゃないのか?」
少し休憩にしましょうか、と言った古泉が台所へ向かったのについて行った俺がそう聞くと、りんごを剥いていた古泉が小さく笑った。
「僕が嫌だと思っていたら、お兄さんにはすぐ分かるでしょう? 僕が本当に楽しんでいることも分かっているでしょうに、どうしてそんなことを聞くんですか?」
ああ、それは分かってる。
だが、
「なんでそんな風に楽しそうにしていられるのかが分からん」
「それは、お兄さんに頼られるのが嬉しいからですよ」
…それだけか。
「ええ、それだけです。…僕はいつも、お兄さんに甘えてばかりですからね。逆にこうして頼ってもらえて、凄く嬉しいんです。何しろ僕がお兄さんに提供できるものといえば、勉強を教えあったりすることや、この部屋、それに些少ながらのお金くらいでしょう? でも、お金なんて出したところでお兄さんは喜ばれませんし」
むしろ怒るだろうな。
「だから、今日はとても嬉しいんです」
そう笑った古泉の頭を軽く撫でてやると、緩んだ顔が余計に緩んだ。
可愛いじゃないかこの野郎。
今は包丁を使っていて危ないから、後で思いっきり抱きしめて、撫で回してやろう。
そんなことを考えながら、古泉の切ったりんごと、熱い紅茶で和む。
勉強の合間にこういう時間を取るのもいいな。
「そうですね。お兄さんと一緒なら、ただなんとなく一緒にいるだけでも十分ですけど、こうして変化をつけるのも、メリハリがついていいと思います。残念なのは、時間の経過がとても早く感じられることくらいですね」
「ああ、それはあるな」
気がつくともう3時だったからな。
「まあ、今日は泊まってくんだし、少しくらい構わないだろ」
「ええ」
勉強をしようと部屋に戻り、凝ってきた肩を解しながら、俺は呟いた。
「しかし、やっぱり数学は一日や二日でどうにかなるもんじゃないな」
「そうですね。公式などを覚えるほかに、どこでどの公式を使うのかを見極めるだけのセンスも必要ですから、数をこなすしかないのでしょう」
「数をこなしても出来ないものは出来ないだろう。生まれ持っての才能がいる」
「高校の数学の授業ですから、そこまでではないと思いますけど…」
苦笑した古泉に、軽い冗談のつもりで、
「こうなったらヤマを張るしかないか」
と俺が言うと、古泉は意外にも止めなかった。
ただ、くすっと小さく笑い、
「ヤマが外れた時のリスクもしっかり考えてから、そうするかどうかは決めてくださいね」
「……止めないんだな」
「あなたこそ、そんな小狡いことはお嫌いかと思ってました」
心の底からそう言っているらしい古泉に、俺は軽く顔を顰め、
「お前は俺を美化しすぎだ」
俺だって、手を抜けるもんなら抜きたいと思うし、働かずに生きていけるもんならそうしたいと思ったりもするんだよ。
「それくらいなら、僕も思いますけどね」
「本当か?」
「ええ。……たとえ一日だけでも、お兄さんと一緒に、ただぼうっとしたまま過ごせたら、それだけで僕は満足ですよ」
「……一日だけかよ」
それに、ぼうっとしたままって、お前は一体いつの時代の隠居だ。
今時の老人はもっと活動的だぞ。
「そうですね。……一日だけで、いいんです」
「…どうせなら一生とか言ってろよ。言うだけならタダだし誰かに咎められたりもせん」
言論の自由も思想の自由も憲法が保障してるからな。
「じゃあ、一生側にいさせてくださいと言ったら、頷いてくれるんですか?」
「……さあ?」
どうだろうな。
側にいるにしても、色々な形があるだろう。
恋人としてとか、友人としてとか、あるいは兄弟のようなものとしてとか。
だから、その形によるかも知れない。
断定出来ないのは、どの形であれ、側にいることを認めてしまいそうだからだ。
だから俺は、数学の問題集に視線を戻し、
「うまく解けると数学も面白いんだよな」
と話を誤魔化した。
古泉も、気まずくはなりたくなかったのか、
「そうでしょう? 他の勉強をしていて――特に英語や国語ですけど、どうにも分からなくて、あるいは答えが釈然としない時などは、数学をするんです。少なくとも高校生レベルの数学であれば、すっきりとした答えが出ますからね。これが高度な数学になると答えが出ないものや、曖昧な答えしか出されないものもあるそうですが」
「へぇ。数学っていうと何でも明確な答えが出るのかと思ってたが違うのか」
「ええ、違うんです」
そう言って古泉が話すのを快く聞きながら、俺は問題の続きに取り組んだ。
そんな感じで、夕食の支度を始めなきゃならん時間までみっちりと数学をしたってのに、俺はいたって明るい気分だった。
高揚した、とさえ形容してもいいかも知れん。
そんな気分のまま、夕食を作り、古泉と一緒に食べる。
出来上がった野菜だらけの焼きそばを、古泉は文句ひとつ漏らさず、嬉しそうに口に運んだ。
ただの焼きそばだっていうのに、こっちがくすぐったくなるような賛辞まで寄越して。
焼きそばを食べ終った後は、もう勉強はいいだろうと、ふたりしてテレビを見た。
番組の内容なんてどうでもいい。
ただ、古泉と並んでソファに座り、肩が触れるか触れないかという近すぎる距離さえ、気持ちがよかった。
それに気がついた俺は、
「困ったな…」
と笑った。
笑みはちゃんと、苦笑の形になっていただろうか。
そう言うにはかなり苦味の足りない笑みだったかもしれない。
「どうかしましたか?」
不思議そうに聞いてくる古泉の頭を撫でながら、俺は答えた。
「こう言うと長門には悪いと思うんだが、お前といるだけで妙に足りるんだよな」
「…え」
時間も空間も何もかもが、過不足なく満たされているような気分だ。
そんなことを古泉相手に感じているのが恥ずかしく、同時に困ってしまう。
だから、困ったなと呟いたわけだ。
「恥ずかしいですけど…嬉しいです」
照れた笑みを見せる古泉は可愛い。
だから俺は古泉を引き寄せ、力を込めて抱きしめた。
「お兄さん、痛いですよ」
笑いながら苦情を言われても聞く気にはなれんな。
それにしても、俺は本当にこれでいいのかね?
同い年の男、それも自分よりでかい男を可愛いと思い、あまつさえ平気で抱きしめたり頭を撫でたりしてるとは。
まあ、何にせよ全ては、
「お前が可愛いのが悪い」
「か、可愛くなんてないですってば」
「そうやって恥ずかしがるのも可愛い」
「お、お兄さんどうしたんですかっ?」
「可愛いって言いたい気分なんだよ。言わせてくれ。…それだって、お前にしか出来ないことだろ?」
「……もう、しょうがないですね」
古泉が嬉しそうに笑った気配がした。