夢オチです

…と先に言っておく小心者ですごめんなさい






記念



仕事を終えて、僕は家に帰った。
本当なら今日も残業になるところだったのだが、今日はどうしてもと断って逃げ帰ってきた。
その分、明日は早く出勤しよう。
そんなことを考えながら、ドアを開け、
「ただいま帰りました」
というと、
「お帰り。今日は早かったんだな」
と奥さんが迎えてくれた。
「大事な結婚記念日ですから」
僕がそう答えると、奥さんも笑って、
「そうか。それくらいはちゃんと覚えてたんだな」
よしよしと頭を撫でられるのは、嬉しいけれど少しばかりくすぐったい。
「ほら、さっさと着替えて来いよ。近所の店、予約してあるから」
「はい」
奥さんに促されるまま着替えに向かう。
スーツを脱いでいると、ベランダ越しに話しているのだろう、奥さんの声が聞こえた。
「お義兄さん、うちのも帰ってきたんで、そろそろ行きましょうか」
と言っている奥さんの声が弾んで聞こえた。
…これからはもう少し早く帰るようにしようかな。
どうも、寂しい思いをさせてしまっていたようだから。
それにしても、と僕は込み上げてくる幸福感に顔を緩めた。
本当に、いい奥さんをもらえてよかったなぁ、お互いに。
「一樹」
咎めるように奥さんが言った。
「顔、緩みきってるぞ」
「仕方ありませんよ。嬉しくて堪らないんですから」
「全く……お前のファンの子に見せたら泣かれるぞ」
「見せるつもりはありませんけど、それで諦めてもらえるなら、いくらでも見せ付けたいですね。今度、会社に顔を出しませんか? あなたが来てくれたら、僕はいつだってこんな顔になってしまうと思うんですけど」
「それでその後お前のファンに恨まれるのか? 俺は嫌だぞ」
「それは残念です」
やれやれ、と肩を竦めながら、奥さんが先に玄関を出る。
僕がその後について出ると、お兄さんが、
「よう、毎日遅くまでご苦労さん」
と言ってくれた。
「お兄さんこそ忙しいのではありませんか?」
「まあ、多少はな」
そんなことを言っていると、お兄さんのお嫁さん――僕にとっては一応お義姉さんということになる――が、慈愛に満ちた笑みで、
「一樹さんも体には気をつけてくださいね。どんなに忙しくても、体調が悪いと思ったら休まないといけませんよ」
「はい」
僕が素直に頷くと、僕の隣りで奥さんが呆れたようなため息を吐いた。
「俺がなんて言っても聞かないくせに、お義姉さんの言うことだったら素直に頷くのか」
「そういうわけではありませんよ」
「いーや、そういうことだね」
そう皮肉っぽく唇を歪めた彼女は、お義姉さんの手をきゅっと握り締めると、
「お義姉さん、こいつが本当に俺の言うこと聞かなかったら手ぇ貸してくれ」
「私でよければいつでも」
と答えるお義姉さんはどこまでも穏やかだ。
「ありがと。お義姉さん大好きっ」
言いながら奥さんがお義姉さんに抱きつき、僕とお兄さんは顔を見合わせて苦笑した。

近所の割合カジュアルな和風レストランに向かいながら、僕は空を見上げた。
綺麗な星空を見たいのではなく、今の幸せを噛み締めているのだ。
本当に、僕は幸せだ。
お兄さんと同じ会社に勤めながら、同じマンションの隣りの部屋に住んでいるから、会おうと思えば大抵いつだって会うことが出来る。
奥さんたちは僕とお兄さんの、少しばかり奇妙な関係を許容してくれるどころか、むしろ率先して面白がってくれている。
その上、僕の奥さんはお兄さんに、お兄さんのお嫁さんは僕に似ているなんて。
「一樹、何考えてんだ?」
奥さんが訝しげに聞いてくるのへ、
「幸せだな、と思いまして」
「……ふぅん」
言いながら、奥さんは顔を背けた。
どうやら、恥ずかしかったらしい。
「学生の頃は、予想もしませんでしたよ。お互いに結婚してからも、お兄さんのことをお兄さんと呼んだり出来るなんて」
「まあ、普通は嫌がるだろうな」
「あなたが嫌がらなかったのはどうしてです?」
「そりゃ、」
と彼女は笑い、
「お前とお義兄さんの間に恋愛感情があったりしたら、俺だって嫌だっただろうよ。それこそ、即刻婚約破棄して逃げ帰ってやったね。でも、そうじゃなかったから、本当に兄弟分なんだって分かったから、それならいいかと思ったんだよ。お義兄さんもいい人だし、お義姉さんも優しくて素敵な人だったからな」
彼女の言葉に、お兄さんはお義姉さんへ、
「お前はどうして嫌がらなかったんだ?」
お義姉さんは、ふふっと楽しげに笑い、
「奥さんと同じですよ。それに、私は一人っ子でしたから、弟と妹が出来ることが、嬉しかったんです。キョンくんのおかげで、私には弟がひとりと妹が三人も出来たんですよ?」
嬉しそうに笑うお義姉さんに、奥さんも笑って、
「じゃあ、お義姉さんが恥ずかしくないような妹でいなきゃな」
「今のままで十分ですよ」
「いや、でも、なぁ?」
もう少し女らしくしなくちゃと思いはするんだが、と言う彼女に、僕は小さく笑いながら、
「今のままでいいですよ。あなたは今のままで十分、魅力的です」
「は、恥ずかしいこと言うな!」
かっと赤くなった彼女に、お兄さんが言う。
「そいつはそれで平常仕様だから諦めてくれ」
「お義兄さん、どうしてもうちょっと日本人らしく躾けてくれなかったんですか!」
「躾けるも何も、俺がそいつと親しくなった時には既にこうだったんだ」
「うわ、よく一緒にいる気になりましたね」
「その一樹と結婚したお前が言うのか」
「……それはそうなんですけどね」
まあ自分でも不思議なわけですよ気がつくと一樹と結婚することになってたんで多分あいつの口八丁手八丁に引っ掛けられたんじゃないかと思ってるんですがお義兄さんはどう思いますか、なんて酷いことを言う彼女に、僕はため息を吐いた。
その僕の肩を軽く叩いて、お義姉さんが言った。
「心配しなくても、照れてるだけですよ。いつも私と話してる時は凄くのろけて大変なんですから」
「そうなんですか?」
僕が問い返すと、奥さんが勢いよく振り返り、
「違う! お義姉さんも、余計なこと言わない!」
「はいはい」
くすくす笑ったお義姉さんを見ていると、やっぱり僕と似ているのかなと思った。
「似てるだろ」
「似てる」
お兄さんと奥さんが揃って言ったのは、レストランで席についてから僕が聞いてみたせいだ。
「今の店員だって、取り合わせに悩んでただろ。多分、俺と奥さん、お前と嫁さんが兄弟なんだと思ったぞ、あれは」
「はぁ。……あの、それでどうして、」
僕は今更ながら言った。
「僕とお兄さんが並んで座って、奥さんとお義姉さんが並んでるんですか」
普通こういう時って夫婦で並ぶものじゃないんですか。
「別に、向かいにいるんだからいいだろ」
とは奥さんの言だ。
ちなみに奥さんは、そう言った後、
「あ、これおいしい。お義姉さんあーんして」
「はい」
「…な、おいしいだろ?」
「そうですね」
なんて言いながらお義姉さんに白和えを食べさせた。
……僕、そんなことしてもらった覚えないんですけど。
「風邪でも引いたらやってやるよ」
…冷たい。
お兄さんは笑いながら、
「よしよし、俺がやってやろうか?」
「……してくれるんですか?」
「別に構わんぞ。ほら」
言いながらお兄さんが僕の口に刺身を放り込んだ。
「…わさびがきついです……」
「付け過ぎたんだ」
それで僕にくれたんですか。
結婚記念日だって言うのに、なんでこんな目に遭うんだろう、と思っていると、お義姉さんが微笑みながら、
「ふたりとも、あんまり一樹さんをいじめちゃだめですよ」
とふたりをたしなめた。
「はーい」
「ああ」
……僕とお義姉さんが似てるのは外見だけだなと思った。
食事が中ほどまで進んだところで、僕は呟いた。
「本当に、夢みたいですね」
「何が?」
奥さんが律儀に聞き返してくれたので、僕は笑みを向けながら、
「お兄さんと同じ日に結婚記念日を迎えられて、しかもこうして一緒に祝えるなんて」
「ブラコン」
と奥さんは笑いながらも、
「というか、同じ日に結婚式をしたんだから結婚記念日が同じなのは当然だろうが」
「同じ日に結婚式を出来たってことが余計に驚きですね」
どうせ呼ぶ人間の大半が重なるんだから一緒に式を挙げようと言い出したのはお兄さんだったけど、あれは多分、親族も友人も少ない僕に気を遣ってくれたのだ。
つまりは、僕が学生時代に思っていた、お兄さんに好きな人が出来れば僕のことなんて放っておかれるのだろうという予想は全くもって外れていたわけだ。
もちろん、お兄さんだって自分のお嫁さんを優先させる。
それは当たり前だ。
でも時々は、奥さんたちを抜きにして、僕とふたりだけで呑んだりもする。
そんな風に、今も僕を甘やかしてくれるお兄さんが大好きだ。
そんな関係を認めてくれるお義姉さんも。
奥さんについては言うまでもない。
「この世で一番愛してますよ」
帰る道すがらに僕がそう言うと、お酒が入ったせいで上機嫌になっていた奥さんも小さく笑って、
「ありがとな。俺も、お前のこと、愛してるぞ」
と言ってくれた。
お兄さんに肩を貸してなかったら、キスくらいしたいところだ。
「それはお互い様だろ。全く、お義兄さんもお義姉さんも酒に弱いんだから、あんまり呑まなきゃいいのに」
そう言った彼女はお義姉さんを支えながら歩いている。
「ん…キョンくぅん……」
お義姉さんがそう声を上げるのへ、
「はいはい」
と答えながら。
「一樹」
「はい?」
「部屋に、いい酒買って置いてあるんだ。今日こそお前を潰してやるから、覚悟しとけよ」
「怖いですね。せっかくの結婚記念日くらい、もう少し甘い時間を過ごしませんか?」
僕が言うと、彼女が顔を真っ赤にしながら、
「このエロ一樹!」
と僕の頭を殴った。
ゴン、と音がするほど。


ゴン、と音がするほど強く、床に頭を打ち付けてしまった。
…痛い。
ため息を吐きながら体を起こす。
寝相は悪くはなかったはずなんだけどな。
「…それにしても、リアルな夢だったなぁ」
この夢の話をしたら、お兄さんはどんな顔をするんだろう、と考えて、僕はひっそりとほくそ笑んだ。