疑惑



古泉と喧嘩らしきものをやらかした数日後、校内には新たな噂が出回っていた。
俺は別に噂話なんざどうでもいいと思うのだが、意外と話が広まったりするってことは、そういう出所も信憑性も知れないような話が好きな人間も多いってことなんだろうな。
その新たな噂とは、「古泉はブラコン」という噂だった。

「お前、兄なんていたのか?」
俺が聞くと、古泉は微妙な表現を浮かべた。
笑い飛ばすべきか、それともツッコミを入れるべきか迷うような顔だが、一体どういうリアクションだ?
「いえ、……あの、本気で聞いてます?」
「半分くらいは」
残る半分は、まさかと疑っている。
「……いませんよ、血の繋がった兄なんて」
ため息混じりに古泉は答えた。
「じゃあやっぱり、噂になってるのは俺のことか」
「ええ。……先日、付き合ってほしいと言われたので、お断りする時に言ったんですよ。今はまだ、兄と過ごす方が大事なのでと。その時いくらか兄について話したのが噂の元でしょうね」
「お前、一体なんて言ったんだよ」
呆れながら俺が聞くと、古泉は不思議がるように言った。
「気になるんですか?」
当たり前だ。
何しろ、今噂されている「古泉の兄」とやらは対外的古泉を上回るような完璧人間だからな。
「そんなことになっているんですか」
「面白がるな」
たしなめてやると、むしろ嬉しそうに、
「すみません」
と謝られた。
謝るつもりならもう少し真摯に謝れ。
「ちなみに、あなたが聞いた噂はどのようなものなんです?」
そう問われ、俺はその噂を聞かされた時のことを思い返した。

昼飯をいつものように食っていると、唐突に谷口が言った。
「9組の古泉って兄弟がいたんだな」
「初耳だな」
俺が正直にそう言うと、
「お前が知らないわけねぇだろうが。年がら年中一緒にいるくせに」
誤解を招くような言い方をするな。
それに、本当だ。
古泉とは家族の話なんてしないからな。
一樹なんて名前だからてっきり長男だろうと思っていたんだが、違うのか?
「本当に知らないんだな」
そう唸った谷口は、
「まあ、知らない方がいいかもな。あいつと同じで、むかつくくらい優秀な人間らしいぞ」
なんでも、と饒舌になるこいつは、どうやら古泉とは違った意味で聞かせたがりであるらしい。
「顔はあいつの兄貴だから当然いいだろ。勉強も出来るらしい。あいつの兄貴の名前らしいのが、2、3年前の模試の結果にあるんだと。どれだけ頭がいいんだよって話だよな。その上、あいつが無条件に褒め倒すくらい、性格もいいんだとさ。神様ってのはほんと不平等だよなぁ」
お前が言うとやけに実感がこもって聞こえるな。
しかし、古泉が褒めてただと?
俺は首を傾げながら、
「たとえどんなによく出来た人間だろうと、あいつが家族のことをそんな風に人前で褒めるとは思えないんだが」
「はぁ? なんでだよ。謙遜するってのか?」
謙遜というより、家族のことを口にさえ出来ないんだろう。
それくらい、古泉にとって家族とは遠いものになっちまったらしい。
おそらくは、もう4年ばかりも前に与えられた力のために。
小さい頃に偶々出会っちまっていたらしいあいつとその両親を思い出すと、余計にそれが辛く感じられる。
もう大分おぼろげな記憶だが、それでもあいつの両親はいい人たちに思えたし、あいつも幸せそうだったからな。
それだけに、あいつは失った家族のことを口に出来ない。
失った家族の記憶が幸せなものだからこそ、家族と呼べる存在を再構築しようとしている。
…それは俺の想像だが、あながち間違ってはいないのだろう。
俺は小さくため息を吐いただけで口には出さず、
「とにかく、その噂は信用出来んな。出所はどこだよ」
「さぁ」
役に立たん谷口の代わりに、国木田が言った。
「1年の方で噂になってたから、そっちが出所なんじゃないかな」
「1年か…」
もしかすると、古泉が何か余計なことでも言ったのかね。

俺の推測は当たっていたわけか。
そんなことを思いながら、俺は谷口から聞かされた噂について、古泉に簡単に説明した。
古泉は困ったような笑みを浮かべながら話を聞いていたが、
「模試の結果ですか。たまたま同じ名字の人がいたんでしょうね。古泉なんて珍しい名字じゃありませんし」
「それで、ブラコンと噂されてる当人としてはどんな気分だ?」
「…そうですね……」
古泉は指先を軽く顎に当てて考え込んだ後、
「好都合かも知れませんね」
とにっこり微笑んだ。
「どうしようもないブラコンと噂されていれば、告白されるなんて面倒な事態も避けられるかも知れませんし、それに、僕が携帯で『お兄さん』とお話ししても、またそれを誰かに聞かれても、不思議に思われないということですから」
告白されることが面倒なことか。
モテる奴の言うことは違うね。
からかうように言ってやると、
「そういじめないでくださいよ。僕だって、心苦しくはあるんですよ? でも、僕の立場としては誰かにうつつを抜かすなんてことは許されませんし、僕もそれを望んではいません。何より僕は、まだお兄さんと一緒にいて、甘えさせてもらいたい年頃なんですよ」
「年頃ね…」
俺と同い年だろ、と言わずにおいたのは、こいつの精神年齢が幼いままだと知っているせいだ。
家族を失うと共に、普通の中学生として過ごす時間さえも失ったこいつは、超能力を得たかわりのように幼いところを持っている。
それを知っている俺としては、何も言えなくなるってわけだ。
「お兄さん」
にこにこと笑っている顔を見ていると、どこかの黄色くてまるいマークを思い出すな。
それでも、ハルヒの前や他人の前で見せるよりはずっと明るく楽しげな笑みだから、俺も嫌ではない。
「まだしばらく、一緒にいてもいいですよね?」
「しばらくどころか、あと十年は一緒にいるんだろ」
「ええ、そうでしたね」
そう古泉が頷いたところで、
「古泉くん来てる?」
とハルヒがドアを開けた。
その瞬間、古泉が表情を取繕うのは流石というところか。
「どうかしましたか? 涼宮さん」
「古泉くんっ!」
ハルヒは興奮に目をキラキラと輝かせながら古泉に詰め寄った。
さて、何を見つけたんだろうか。
河童の手か?
それとも古泉が超能力者だという情報でもどこかから漏れたのかね。
もしそうだとしたら、流出源は機関の外陣とやらのどこかか、それとも対抗する組織のどこかか?
まあ、何にせよハルヒが面白がっているのなら、機関としては楽でいいんじゃないか?
などと、お気楽に考えている俺の目の前で、ハルヒが長机にバンと手をつく。
…痛くなかったんだろうか。
「本当なの!?」
「何がでしょうか?」
どもりもせず、努めて普段通りにする古泉も見事だ。
しかし、無性に笑いたくなるな。
さっきまで「甘えさせてもらいたい」とか何とか年にも外見にも不相応なことを言っていた奴が、今は平然とした顔でハルヒと話してるんだぜ?
笑いそうになっていると、さっきまでは確かに部室の付属物と化していたはずの長門が、部屋の隅から冷たい視線を寄越した。
ここで笑ったら長門に記憶のひとかけらも残さず消されそうだ。
俺は慌てて笑いを抑え込もうとした。
その時である。
ハルヒがとんでもない発言をしたのは。
「古泉くんがガチなゲイでしかも血の繋がったお兄さんと近親相姦関係にあるって噂は!」
呆然とした。
――笑い?
ああ、そんなもん、銀河の彼方かどこかに飛んで行っちまったさ。
かわりに訪れたものもなく、ひたすら真っ白だ。
一体どんな尾ひれや枝葉がついたら、そんな話になっちまうんだろうな。
古泉も唖然としている。
まあそうだろうな。
いきなり面と向かってそんなことを言われた日には、いくら相手がとんでもないハルヒであろうとも、まず自分の耳を疑うに決まってる。
「あの、涼宮さん…なんですって?」
「だから、ガチなゲイでしかも…」
「あ、も、もういいです。繰り返さなくても」
慌てて止めた古泉はいささか古泉らしくなかったが、それでもまあ賢明な判断だろう。
あんな言葉、二度も聞かされた日には、耳を川の流れで洗うくらいのことはしたくなるに違いない。
「じゃあ、どうなの?」
ハルヒの好奇心を止める術を俺たちは知らない。
だから古泉はどこか諦観したような表情で、それでも唇を笑みの形にしながら、
「全くの事実無根ですね。僕は異性愛者であって同性愛者ではありませんし、ましてや近親相姦なんて…あり得ません」
そりゃああり得んだろうな。
相手たる血の繋がった兄が存在しないんだから。
「なんだ」
と呟いたハルヒは何か、期待していたのか?
副団長がゲイで近親相姦していた方が面白かったとでも言うつもりか?
「別に。……そうだったらあんたが可哀相かなと思っただけよ」
「は!? 俺が? 何でだよ」
「だってあんた、古泉くんと付き合ってるんじゃないの?」
「それこそ事実無根だ」
というか俺は何度否定すればいいんだろうな。
ハルヒに対してだけで、これで三度目だぞ。
俺は盛大にため息を吐き、
「古泉とは健全なる友人付き合いをしているだけだ。訳の分からん思い込みをするんじゃない」
「……本当なのね?」
「ああ」
「――そう」
ハルヒはほっとしたように笑った。
どういうリアクションだ?
「噂が嘘っぱちなら、うちの大事な副団長にとんでもない疑いを掛けたってことじゃない。なんとしてでも、その噂を根絶してやらなきゃね!」
ハルヒは来た時以上に明るい笑顔でそう言い放つと、
「キョンも有希も頭を貸しなさい。古泉くんのためにどうしたらいいか、考えるわよ」
と言った。
どうするかを考えるとなると酷く頭を悩ませることになりそうだが、古泉の汚名を晴らすという目的なら喜んで賛同しよう。
俺は小さく笑いながら、古泉に目配せした。
――ハルヒもお前のことが大事らしいぞ、と。
口に出さなくてもそれくらいのことは伝わったんだろう。
古泉も笑みを返してきた。
光栄ですね、とでも言いたげに。
古泉が家族を再構築したいのなら、協力してやろう。
それにハルヒも朝比奈さんも巻き込んでやったっていいはずだ。
家族は多い方がいいものだからな。
そのうち、長門と一緒に検討してみよう。