お兄さんからの明確な拒絶に呆然としていた僕の耳に、ドアの向こうでの会話が突き刺さる。 『どういう理由があったにせよ、あいつは俺の信頼を裏切ったんだ』というお兄さんの言葉に、一瞬、目の前さえ真っ暗になったように感じた。 でも僕は、他にどうすればいいか分からなかったのだ。 お兄さんが誰かに告白されたと思っただけで、その誰かをお兄さんが優先するようになるのかも知れないと思っただけで、どうしようもなく悲しくなった。 断ったとも聞かされたが、彼女が諦めた様子はなかったということだし、お兄さんも諦めなくていいと、本来なら滅多に見せてくれないはずの笑みを見せて言っていたとも聞いた。 お兄さんに、最優先したい誰かが出来るのは自然なことだ。 だがそれが、お兄さんのことを詳しく知りもしない、どこかの誰かなんてことが嫌で嫌で堪らない。 それならまだ、お姉さんの方がいい。 涼宮さんでも――最近の涼宮さんなら特に、昔とは違ってきているから――いい。 朝比奈さんは彼女の方の都合が許さない気もするけれど、それでも、どんなにかよかっただろう。 お兄さんも、断るならはっきりと断ればいいのに、どうしてそうしなかったんだろうか。 断るなら断る、受けるなら受けるで、はっきりと言いそうなものなのに、曖昧にするなんてらしくない。 迷うほど、いい話だったんだろうか。 そう思うと余計にショックで、つい、あんな風に言ってしまった。 後悔したって遅い。 お兄さんは今までになく怒ってる。 僕だって怒っているけれど、おそらくそれ以上に。 お兄さんに見捨てられたら生きていけない。 冗談でなく、そう思う。 ずっと僕を支えてきてくれたのも、僕を楽にしてくれたのも、全てお兄さんなんだ。 だから、僕はお兄さんに謝るかどうかして許しを請うしかない。 それなのに、足が動かなかった。 どうすればいいのか分からない。 どうしてお兄さんがあそこまで怒ったのかも、分からない。 くしゃりと顔を歪めそうになったところで、控え目な音を立てて、目の前のドアが開いた。 入ってきたのはお姉さんだ。 「…大丈夫?」 「……ええ」 何とかそう答えたが、全然大丈夫でないことは見透かされたらしい。 「…まず、事実関係をきちんと確かめるべき。一樹の、その足で」 「そう…ですね…」 そうすれば、お兄さんが怒った理由も分かるかもしれない。 僕はお姉さんに、 「ありがとうございます」 とだけお礼を言って、部室を出た。 向かう先は、お兄さんに告白したらしい彼女のいる場所だ。 彼女の身元、所属する部活動そのほかについては機関が調査しているため、僕もデータを閲覧済みだ。 今の時間なら、部活に行っているだろう。 僕は美術室へ足を向けた。 僕が顔を覗かせると、小さくざわめきが起こった。 活動の邪魔になってしまうのは申し訳ないが、こちらも火急の用事なので、我慢してもらおう。 彼女の姿を目の端で確認しながら、近くにいた人に呼んでもらうと、またざわめいた。 女性の比率が多い部活だから仕方ないのかもしれないが、少しオーバーすぎる気もした。 「あ、あの、古泉先輩、どうかしましたか?」 顔を赤らめながらそう言った彼女に、理解した。 全て誤解だったんだと。 彼女が好意を抱いている相手はお兄さんではなく僕だ。 それなら、お兄さんと彼女がしていたという会話はおそらく、僕のことについてだったに違いない。 何てことだ。 こんな単純な誤解でお兄さんとあんなに険悪になってしまうなんて。 悔やみながら、表情にはそれを少しも出さないようにしながら、彼女と会話を交わす。 人に聞かれるのもまずいので、きっちりと人気のないところへ移動して。 聞いたことは、お兄さんの様子がおかしいのですが何か知らないかといったことだ。 すると彼女は困った顔をして、 「私が変なことをお願いしたせいで、噂になっちゃって…先輩にも、悪いと思ってます。私の方も誤解だって言ってはいるんですけど……」 「彼が気にしていましたよ。自分にふられたなどと不名誉な噂を立てられて困ってないかと」 お兄さんがそう言っていたわけではないが、お兄さんの性格からして、今頃気に病んでいるのだろう。 「私は大丈夫です。自業自得ですし。それで、あの……」 彼女は恥ずかしそうに顔を赤くして、一瞬俯いたが、すぐに顔を上げて僕を見上げた。 「…キョン先輩から、聞いてるかもしれませんけど……私、古泉先輩が好きなんです。先輩には何か事情があって、お付き合いなんて出来ないだろうって、キョン先輩は言ってましたけど、よろしければ、私と、……付き合って、くれませんか?」 そうはっきりと告げる彼女は勇気のある人だと思う。 可愛いと、思わなくもない。 でも、僕は。 「すみませんが」 と苦笑した。 「女性とお付き合いするなんてことは、僕にはまだ早過ぎると思うんです」 「早過ぎるってどういうことですか?」 不思議そうに言った彼女に、僕は正直に、ただし、いくらか虚飾を交えて答えた。 「僕には兄がいるんです。優しくて、頼り甲斐がある人で、今の僕がこうしていられるのも、兄のおかげなんです。今は兄の側にいて、一緒に過ごすことの方が大事なんです。他の誰より、兄が。だから、他の人のために時間を割けないんです。あなたがどうというのではなく、僕に問題があるんです。……すみません」 そう言うと、彼女は悲しそうにしながらも小さく笑ってくれた。 「いいんです。…素敵なお兄さんなんですね」 「ええ、自慢の兄です」 血の繋がりはないけれど。 「…聞いてくれて、ありがとうございました」 頭を下げた彼女の目尻に、涙がかすかに見えた。 その涙を見られたくないのだろう、なかなか顔を上げない彼女に、 「すみません、もう時間なので、これで」 と言って背を向けた。 そのまま駆け出し、ポケットから携帯を引っ張り出す。 足を止める余裕などない。 お兄さんに電話を掛けるが、コール音が響くだけでいつまで経っても出てくれない。 電源を切られていないだけマシだと思おうか。 とりあえず、今から向かう旨だけを書いたメールを送る。 見てくれる可能性は低いけれど、しないよりはいい。 家の方へ電話すると妹さんが出て、 「キョンくんねー、いっちゃんとお話したくないんだってー」 と言われてしまった。 それだけのことに、ずきりと胸が痛むが仕方ない。 それこそ、自業自得もいいところだ。 ちゃんとお兄さんの話を聞いていればよかったのに、一方的に決め付けて、あんな口をきいたりして……。 お兄さんが怒るのは当然だ。 なんであんなことをしてしまったんだろう。 後悔をしたって遅いということは分かるが止められない。 泣きそうになりながら、お兄さんの家まで走った。 公共交通機関を使おうという気にもならなければ、タクシーを呼ぶ気にもならなかった。 ただひたすら、お兄さんに会って、謝りたくて仕方がなかった。 だからお兄さんの家に着いた時にはもう、息は切れているし汗はかいているしで、珍しい状況だったんだと思う。 「いっちゃんどうしたのー?」 驚く妹さんに適当に返事をし、家に上げてもらう。 そのままお兄さんの部屋へ行き、ドアをノックした。 呼吸を整える余裕なんてない。 「すみません、入ります。……その、嫌だったら、ドア押さえる何なり、して、ください…ね…」 だめだ、どうしようもなく声が震える。 怖くてしょうがない。 ガチガチに緊張してどうしようもない手を無理矢理動かしてドアを開けると、お兄さんが不機嫌な顔をしてベッドに座っていた。 僕は荷物を放り出して、そのままお兄さんの前に土下座した。 「ごめんなさい」 とにかく早くそう言ってしまいたくて、その勢いのまま口にしたはずの言葉は、情けないほど弱々しかった。 「全部、僕の勘違いだったんですね…。本当に……ごめんなさい。お兄さんの話も聞かずに、誤解して、酷いことを、言ってしまって…ごめん、なさい…」 返事はない。 お兄さんの顔を見上げる勇気もない。 ひたすら床に額をこすりつけて、謝罪の言葉を繰り返す。 このまま絶交されたらと思うだけで、怖くて怖くて堪らなかった。 そんなことになったら、僕はどうなってしまうのだろう。 それさえ分からない。 今までのようにしていられないことだけは確かで、それさえ分かれば、お兄さんに絶交されたくないと思うには十分過ぎるほどだった。 お兄さんが何も言ってくれないことで、余計に不安が募る。 「ごめんなさい」 何を言い足しても言い訳になってしまう気がして、それが嫌で、ただそれだけを繰り返していたはずなのに、気がつくと、目から涙が零れるのと同じように、ぽろりと、違う言葉が零れていた。 「…っ、お願い、ですから……嫌いに、ならないでください…。僕を…見捨てないで、ください…」 嗚咽を上げて泣くことを恥ずかしいとさえ思わなかった。 それくらい僕はお兄さんに依存して、お兄さんが好きで。 「ごめん…なさい…っ」 しゃくり上げながら言うと、ぽん、と頭に何かが触れた。 それが、優しく僕の髪を撫でるお兄さんの手だと分かって、僕はやっと顔を上げることが出来た。 お兄さんは、安堵したような優しい表情で僕を見ていた。 「俺が怒った理由は、もう分かったよな?」 そう問われ、僕はこくこくと頷いた。 お兄さんがあんな風に怒った一番の理由は、僕がお兄さんのことを本当に考えていなかったからだ。 表情から考えを読まれないように、必死に仮面の表情を付けて、怒りに任せてお兄さんの話も聞かずに、一方的に口をきいたからだ。 「お前が見捨てられたくないと思うみたいに、俺もお前に突き放されるのは嫌だと思うくらい、俺はお前が気に入ってんだからな」 「ごめ…なさ……」 「ああ、もういいから泣くなって。…ほら、来いよ。一樹」 広げられた腕の中へ飛び込むと、しっかりと抱きしめられた。 暖かい。 その暖かさに、涙が余計に止まらなくなった。 |