部室に向かって歩いていた俺を呼び止めたのは、1年の女子だった。 名前は知らん。 ただ、いつだったかに谷口が彼女を指差してうだうだ言っていたことを覚えているくらいには、可愛い顔をしていた。 「あの、少しだけいいですか?」 そう尋ねてきた彼女に、校内でキャッチセールスもあるまい、と思いながら頷いた。 そのまま、彼女に連れられて階段上のごちゃごちゃとしたスペースに上がる。 さて、人目を避けなければならないような話題ってのは、一体なんだろうな。 「…先輩は、9組の古泉先輩と親しくされてるんですよね?」 そう聞かれ、俺は頷きながらもこの先に予想がつき、思わず顔を顰めた。 「悪いとは思うが、古泉に紹介や仲介は出来ないぞ」 先手必勝、とばかりにそう言うと、彼女がぱっと顔を赤くした。 どうやら当たりだったらしい。 「どうしてですか?」 恥ずかしそうにしながらも聞いてくる彼女は結構気丈だ。 しかし、どう答えたものか。 まさか、「俺からそういう話題を持ち出すと古泉が泣くから」と答えるわけにはいかないだろう。 だから俺は、 「そんなことをするような柄でもないし、うまく行くと思えないからな」 「…っ、うまく行くかもしれないじゃないですか」 「いや……」 多分無理だな。 と思ったのが顔に出ていたのか、 「あなたは古泉先輩の友達なんでしょう? それなら協力してくれたっていいと思うんですけど。それとも、あなたが古泉先輩の恋人だって噂は本当なんですか?」 その噂、まだ流れてたのか。 根強いな。 長門とつるみだしてからでさえそこそこ経つんだから、もうそろそろ消えてくれたっていいと思うのだが。 「友人だからこそ、あいつの望まないことをしたくはないんだ。あと、恋人だって噂はまるきりでたらめだから忘れてくれ」 「望まないことって…」 「ああ見えて、あいつも複雑なんだよ。今の状況じゃ、女の子と付き合うなんてまずもって無理だろうな」 可哀相に、と同情のため息を吐くと、 「どういうことなんですか?」 「……俺の口からは言えない。どうしてもって言うならあいつに直接聞いてくれ」 まずまともに答えてはくれないだろうがな。 「とにかく、」 と俺は彼女に背を向け、 「用件がそれだけなら、俺には無理だから」 と階段を下りた。 手すりを掴んで下りたのは、背後から突き落とされたくなかったからだが、杞憂で済んだらしい。 俺はいつもの、部室へと向かうルートへ戻り、やれやれとため息を吐いた。 モテるってのも大変だな、と思いながら。 そこへ、 「待って!」 背後から声を掛けられ、振り返った。 あの後少ししてから、慌てて俺を追ってきたのか、さっきの彼女が息を切らして俺を睨んでいた。 まだ何かあるのか、と眉を寄せる俺に、 「先輩の事情とか、私には分からないけど、好きなんです。好きでいること自体は、別に悪いことじゃないですよね」 「……まあ、それはそうだろうな」 そこまで否定する権利は俺にはないし、そこまですることもないだろう。 すると彼女はにっこりと微笑み、 「私、諦めません」 そこまで言えるってのは立派なもんだと思う。 彼女なら古泉を任せたっていいんじゃないかと思わないでもない。 だから俺は、つられて小さく笑いながら、 「いいんじゃないか」 「だから、覚悟しててくださいね」 「ああ」 「それじゃ。……いきなり、変なこと言っちゃってすみませんでした」 「いや」 苦笑しながら俺は彼女に背中を向け、今度こそ部室へ向かった。 部室にはいつものように朝比奈さんと長門、それから古泉がいた。 「今日は遅かったんですね」 チェスのプロブレム集を広げていた古泉がそう言い、俺は荷物を置きながら、 「ああ、ちょっと人と会ってたんでな」 「…人と、ですか」 そう不思議そうな顔をするな。 俺だってたまにはそんなこともあるのさ。 「あなたは意外と顔が広いですからね」 「意外とってのは何だ」 「失礼しました。でも僕は、あなたが誰と知り合いだったとしても驚かない気がしますよ。それくらい、あなたは色々な人を惹きつける魅力のある方です」 「気色悪いことを言うな」 呆れながら顔を顰めた俺に、朝比奈さんが微笑みつつ、 「でも、キョンくんって本当にそういうところがあると思います」 と俺の前へお茶を置いてくださった。 ありがとうございます、と頭を下げつつも、 「そうですか?」 と問い返さずにはいられない。 「うん。キョンくんといると落ち着きますし、頼り甲斐もあって素敵だと思いますよ」 そんなことを言われると流石に照れるし、朝比奈さんに認めていただけるのはありがたいのだが、疑わしいと思う。 本当に人を惹きつけられるならどうして俺はこうも色恋沙汰に縁がないんだろうな。 俺がそんなことを小さく呟くと、それが聞こえたらしい古泉が軽く目を見開いた。 一体なんだ。 「いえ、あなたでもそんなことを思ったりするんですね」 「…どういう意味だ」 場合によったら蹴り飛ばしても文句を言われないくらい失礼な発言だぞ、今のは。 「あなたは恋愛になんて興味はないと思ってました」 俺だって普通の男子高校生だぞ。 全く興味はないと言ったら嘘になる。 もっとも、谷口みたいにがっついてるのはアホだと思うんだがな。 「あなたのその老成したような落ち着きが何によるものなのか、僕は気になってますよ」 「年寄りに囲まれて過ごした人間ならいくらかこうなると思うぞ」 「そうなんですか?」 「一緒に住んだりはしてないが、夏休みにしろゴールデンウィークにしろ田舎で過ごすからな」 他の奴等と比べると爺婆との接触は多い方だろう。 俺が年寄り染みてるとしたら、原因はおそらくそれだ。 「なるほど」 と頷いた声にどこか羨ましさを感じ取った俺は、 「…難なら、今度行く時はお前も一緒に来るか?」 「え?」 おお、大きく目を見開いてる。 整った顔立ちが崩れるのも、なかなか壮観だな。 「元々大人数で集まるからな。ひとりくらい増えたところでどうってこともないし、お袋も、お前ならいいって言うだろ。そうしたら、行くか?」 「……はい」 嬉しそうに笑った一樹に目を細めた俺は、 「有希も、どうだ?」 と長門に声を掛けた。 そうでもしなければ視線で殺されそうだったからな。 朝比奈さんじゃあないが、目からビームを放ったところで、長門の場合、なんら不思議でも不自然でもないだろう。 「行きたい」 長門は短くそう答え、俺の余計な思考を咎めるような視線を寄越した後、ゆっくりと読書に戻った。 そんな風にしてまたのんびりとした時間を過ごした。 ハルヒも、今日は大人しかったからな。 だが、問題は既に、その時には起こっていた……らしい。 眠い目を擦り、あくびをしながら坂を登っていると、妙に視線を感じた。 ハルヒに振り回されるようになって以来、更に、古泉が俺にべたつきだしてからは余計に、他人の視線を感じることも多くなっていたが、これはどうも普段のそれとは違うらしい。 普段感じるそれが好奇の目や同情、あるいは迷惑そうな物だとしたら、これは……なんだろうな。 嫉妬と羨望……と言ったところだろうか。 そんなものには縁遠い人生を歩んできたので自信はないが。 それにしても、何で俺がそんな目で見られねばならんのだ。 首を傾げながら教室に入るなり、 「キョン! どういうことだ?」 と谷口が面白く無さそうな顔をして言ってきた 「何の話だ?」 「とぼけるなよ。お前、1年の子を振ったって噂じゃねえか」 「…俺が!?」 一体何の冗談だ、と言おうとして気がついた。 昨日の会話――特に廊下でのあれは、聞きようによっては彼女が俺に告白し、かつ振られたように聞こえるんじゃないかと。 しまった、しくじった。 古泉の名前を出していればまた変わってただろうに。 「あれはなんていうか……誤解だ、誤解」 頭を抱えながらそう言うと、 「何が誤解なんだよ」 「俺が告白されたような事実はないってことだ」 大体、そんなことがあり得ると本気で思ってんだろうか。 俺が女の子に告白される? それも、よく知りもしない下級生に。 地球の自転が反対向きになったところで有り得んな。 俺は古泉とは違うんだ。 遠巻きに憧れられるなんてこともない以上、そんなどこかの少女マンガかエロゲのようなシチュエーションを実際に体験するなんてことには、多分一生なるまい。 「じゃあ何だったんだよ」 俺が告白されたかもしれないと思ってか、えらく不機嫌に聞いてくる谷口に、俺はスパッと答えてやった。 「彼女が好きなのは古泉だ。俺は橋渡しを頼まれて、断っただけでな」 「断った? 何でだよ」 「色々事情があるんだ」 頼むからそこに突っ込んでくれるな。 古泉が泣くからなんて言ったら、ただでさえ定着しちまっているらしいホモ疑惑を強めるだけじゃねえか。 しかし、本当にまずったな。 「かなり噂は広まってるのか?」 俺が聞くと、谷口は、 「あ? ああ、多分な」 と答えた。 つまりはハルヒの耳に入っている可能性も高いってことか。 機嫌を悪くしてないといいんだが、無理だろうな。 どうすりゃいいんだ? 何かハルヒの気を逸らせそうなものは、と悩んでいると、 「おはよ、キョン」 といつもの調子でハルヒが現れた。 ……噂を聞いてないのか? ああ、もしかしたら長門か機関あたりが何かしたのかも知れんな。 ありがたい、と思いながら、 「今日も元気そうだな」 と俺は返し、極力平静を装った。 「当たり前でしょ。今日もやることはいっくらだってあるんだからね!」 そうやって笑ってるということは心配要らないな。 ハルヒが大丈夫なら、残る問題は――と考えた俺は、頭痛を覚えて額を押さえた。 いかん、こっちの方が強敵の気がしてきた。 古泉をどうなだめるか。 それが問題だ。 どうするべきだろうな。 正直に言えば納得するだろうか。 その前に、話を聞かない気もする。 いっそ何も知らないことにしてやろうか。 そうなると別のことで気をそらすしかないが、難しいだろうな。 いい考えも浮かばないが、かと言って、無為無策のまま顔を合わせるのも得策じゃあない。 何か事件でも起こってくれないか、なんて思うのは、やっぱり不謹慎だろうか。 結局、特に名案を思いつくこともなく、俺は放課後を迎えちまった。 対策としては、とりあえずは余計なことを言わず、突っ込まれたらその都度反論するということにしておこうという程度だ。 こんな受身な作戦で失敗しなきゃいいんだが。 と思った俺はある意味正しく、ある意味では間違っていた。 何しろ古泉と来たら俺が来るなり、 「あなたがそんなに軽率な方だとは思ってもみませんでしたよ」 と言い放ったんだからな。 それも、転校当初の冷たさを思い出させるような、思いきり人を軽蔑しきったような顔で。 「……は?」 古泉がそんなことを言ってきたのは、それこそ本当に部室に入ってすぐであり、俺は荷物を置くどころか椅子へ向かう暇さえなく、ドアの前に立ち尽くした。 古泉は整った形の眉を寄せながら、 「知らないフリでもなさるおつもりですか?」 「いや、そうじゃないが…」 いきなり過ぎて驚くくらい勘弁してもらいたいのだが、それを言い出すことさえ憚られるほど、古泉は本気で怒っていた。 正直に言おう。 ……半端なく、怖かった。 常日頃、せっかく綺麗な顔をしてるくせにへらへら笑ってて勿体無いと思っていたのだが、そんな過去の自分には絶縁状でも叩きつけておこう。 真剣な顔をして、真剣に怒っている古泉はとんでもなく怖かった。 恐ろしかった。 「お前、いいのか? 朝比奈さんも長門も来てないみたいだが、ハルヒがいつ来るかも分からないような場所でそんな顔して」 一瞬本気で心配して俺はそう聞いたのだが、古泉は薄く笑い、 「お姉さんにはコンピュータ研究部の方へ行ってもらっています。朝比奈さんにも少しばかり用事をお願いしたので、後一時間は戻ってきません。涼宮さんも、今日はこちらにいらっしゃいません」 用意周到にもほどがあるだろう。 これで古泉が俺に恋愛感情を抱いてた日にはまず間違いなく暗転してアッー! となるような展開だ。 ……我ながらおぞましい想像をしてしまった。 「あなたが、」 古泉は、恨みがましい視線を向けてこないのがおかしいくらい、不貞腐れた声で言った。 表情は変わらない。 静かに怒りながらも、それを表に出さないよう、極力抑えているような、どこか他人行儀で遠い表情のままだ。 「魅力的な人であり、それゆえに人を惹きつけてやまないことは僕も分かっていますし、そのことを咎めるつもりはありません。不可抗力でしょうから」 おいこら、誰が魅力的だって? 恥ずかしいことを言い出すな。 「あなたは魅力的な人ですよ。僕は友人として、あるいはあなたを兄のように思って、あなたを慕っていますし、お姉さんだって同じでしょう。朝比奈さんもあなたのご友人も、程度の差こそあるものの、あなたに惹かれ、あなたを頼っています。涼宮さんは、あなたのことを男性として好ましい人だとさえ思っているのに、魅力がないなんて言わせませんよ」 そう言いながら更に眉を寄せた古泉は、 「しかし、公衆の面前で女性と惚れた腫れたと話をすることはないでしょう」 「誰がそんな話をしたって言うんだ」 惚れた腫れたなんて言い回しを実生活で使う奴なんて初めて見たと思いながら、俺はそう言った。 「少なくとも、そんな浮ついた話はしてねえよ」 「言い過ぎましたか? しかし、あなたが女生徒と何やら言い合っていたことは事実でしょう」 「それはそうだが…」 「あなたも迷惑そうな顔ではなかったと聞きました」 それも、否定は出来ない。 出来ないが、俺が否定出来ないように、古泉が言葉を選んできていると感じるのは、別に俺の曲解でも何でもないだろう。 機関ってのは構成員に尋問の訓練でも受けさせてんのか? そもそもなんで、古泉のためを思って彼女の頼みを断った俺がここまで責め立てられねばならんのだ。 お門違いにもほどがある。 あの状況だけを見て、報告を受けた古泉が誤解したのはまだ仕方ないと思おう。 俺のせいでハルヒの機嫌を損ね、また大騒ぎになるかも知れないと考えた機関が、フォローに走っただろうということを考えて、苛立ちを俺にぶつけたくなるのも、許してやってもいい。 だが、俺が告白されたなんて馬鹿げたデマが全くの誤解であり、俺が、いかにして古泉の機嫌を取ろうかなどということのために、授業そっちのけで、元からない頭を絞り続けたことくらい、古泉なら俺を見れば分かったはずだ。 それなのに、と思うと無性に腹が立って仕方なくなった。 古泉がまだ延々何やら述べているのを遮るため、俺は乱暴にドアを殴った。 バン! といっそ気持ちいいくらい派手な音が響き、古泉がぎょっとした顔で俺を見る。 ぶつけた拳がじんじんと痛むが、知ったことか。 身長差のせいでいまひとつ締まらないが、俺はありったけの凄味を利かせて古泉を睨み上げ、 「人の話も聞かずに、勝手に自分の意見を押し付けるだけか。お前はそんな奴じゃないと思ってたんだが、どうやら俺の見込み違いだったらしいな」 それだけ言って古泉に背中を向けると、 「待ってください。話は終わってませんよ」 非難がましい声を掛けられて、余計に怒りを煽られた。 ドアを開けながら俺は、振り返りもせずに言った。 「古泉」 と。 一樹とは呼びたくなかった。 それに、こいつもずっと俺を「あなた」と呼んでいたから、構わないだろう。 「絶対に、とは言わん。一生、とも言わないでおく。だが、――当分、お前とは口もききたくない」 俺は部室の外へ足を踏み出し、後ろ手にドアを閉めた。 バタン、とやけに物悲しい音が響いた。 そのまま数歩歩いたところで、 「待って」 と呼び止められた。 振り返るまでもなく、それが長門だと分かる。 「どうかしたか?」 不機嫌さを消すことが出来ないままそう問うと、 「…一樹も、悪気があったわけじゃない」 「……それくらいのことは分かってる」 だが、それ以上に腹が立つ。 人間とは頭で理解しているからと言って確実に納得できるものだとは限らないってことを分かってもらいたい。 「どういう理由があったにせよ、あいつは俺の信頼を裏切ったんだ」 少し声を荒げたのは、あいつに聞こえてしまえばいいとさえ思ったからだ。 「有希も、分かってるんだろ。――俺に非があるとしたら、うっかりあんな目立つ場所で、誤解を招くような会話をしちまったことだけだ。だから、俺からは絶対に歩み寄らないからな」 そう言い切って背中を向けると、長門はもう何も言わなかった。 苛立ちをぶつけるように、荒い足音を立てて階段を駆け下り、部室棟を出た。 校舎を出て、門を出て、…家に着いても、苛立ちはおさまらなかった。 全く以って腹立たしい。 あいつにあそこまで言う権利があるのか? 泣き喚いて支離滅裂なことを言われた方がよっぽどマシだった。 一見理性的なだけに始末が悪い。 その上、あんな風に人を突き放すような古泉の考えていることは、どうしたって読めなかった。 いつもは呆れるくらい分かるってのに。 それくらい、心まで離れていたということなのかも知れない。 それにしても許せないのは、古泉を遠く感じたことをここまで残念に思い、怒り狂っている自分だ。 どうやら、俺は本当に古泉を気に入っているらしい。 親友として。 だからこそ、安心して怒り散らしてもいられるんだろう。 古泉がこのまま離れていくことはあり得ないと、確信しているから。 ベッドの上でだらしなく寝そべりながら、俺は携帯をとった。 電源は……切らないでおくか。 だが、古泉からの電話は取らないことにしよう。 メールも見ない。 妹には、古泉から電話が掛かってきても俺に取り次がずに適当に話してやれと言ってある。 この状況下で、古泉はさて、どうするんだろうな? 結果は見なくても分かっているのだが、具体的にどうなるかと考えて、俺はひとりにやついた。 |