外出



駅前のいつもの待ち合わせ場所で、僕は長門さんと顔を合わせた。
長門さん、と声を掛けようとしたところで、彼女の何かを訴えるような視線に気がついた。
…お姉さん、って呼ばなきゃいけなかったんだっけ。
それはまだ慣れなくて、恥ずかしいことだけれど、彼女が望むならそうするべきだろう。
お兄さんに怒られるのも嫌だし。
「お姉さん、おはようございます。今日も早いですね」
ふるっと小さく首を振られる。
早くないということだろうか。
待ち合わせの時刻まで後45分もあることを考えると、十分早いと思うのだけれど。
「一樹より、少し早く来ただけ」
疑問が顔に出ていたのか、そう答えられた。
しかし、彼女に名前で呼ばれるのはやっぱり違和感がある。
それも、凄く嬉しそうに言われるものだからくすぐったい。
僕は思わず相好を崩しながら、
「そうでしたか」
と頷いておいた。
その時だ。
僕の携帯が鳴った。
一瞬びくっとしたものの、それはお兄さんからの電話だった。
「もし…」
『すまん!』
いきなりそう言われて驚いた。
というか、若干耳に痛いくらいの大声だ。
「どうかなさったんですか?」
『妹が風邪で寝込んでな。今日は家から出られそうにないんだ』
妹思いのお兄さんだから、それは当然のことだろう。
「それでは仕方ありませんね。お見舞いに伺ってもよろしいでしょうか」
あわよくばそのままお兄さんの家で過ごしたい、と思ったのを見透かされたのか、
『いや、それには及ばん。いいから、お前と有希と二人で楽しんできてくれ』
「二人で…ですか」
本気で言ってるんだろうけど……そんなこと、僕に出来るだろうか。
不安になってしまうのは、僕がまだ、お兄さんほど彼女の心情を慮ると言うことが出来ないからであり、彼女と二人きりでいることに慣れていないからだ。
『分かったな?』
少しばかり凄味を利かせた声で言われれば、頷くしかない。
「はい」
『じゃ、妹の側にいないとうるさいから』
ぷっつん、と電話は切られた。
……お兄さん、僕と妹さんならやっぱり妹さん優先なんですね。
いや、それで当然だし仕方ないとも思うんですけど、やっぱり寂しいです。
小さくため息を吐いた僕の手を、お姉さんがきゅっと握ってくれたのはやっぱり、慰めようとしてのことなんだろうか。
心なしか心配そうな顔で、
「大丈夫?」
と聞かれた。
僕は慌てて笑みを作り、
「ありがとうございます。大丈夫ですよ」
「……そう」
「えっと、状況は…」
「聞こえてた」
そうですか。
じゃあ、どうしますか? と、僕が聞くより早く、
「どこに行きたい?」
と彼女に聞かれた。
「一樹の行きたいところに行く」
自分が姉だから、と口には出さずに言われた気分になった。
僕は一瞬面食らったものの、小さく笑い、
「予定通りにしましょうか」
予定では、電車に乗って少し行った先のショッピングモールで買い物をすることになっていた。
わざわざ遠出するのは、移動時間も楽しみたいとお兄さんが主張したからだ。
無駄な出費を避けるお兄さんにしては珍しいけれど、もしかすると、僕とお姉さんと一緒といういささか目立ちやすい状態で、顔見知りの多い駅前周辺を散策したくなかったのかもしれない。
詮索されても面倒だから、僕もそちらの方がいい。
電車なんて滅多に使わない僕が戸惑うと思ったのか、お姉さんは僕の手を引いて切符の券売機に近づくと、僕に手出しする隙も与えず、二人分の切符を購入した。
素早い。
「ありがとうございます、でも、切符代は払わせてくださいね?」
僕が言うと、お姉さんは首を振り、
「帰りに一樹が二人分買ってくれればそれでいい」
「…分かりました」
彼女に反論しても無駄だろうと判断した僕に、彼女は満足げに頷いた。
そうして自然な動作で僕の手を繋ぎなおすと、僕の前に立って歩く。
僕としては彼女をエスコートすべきだろうと思うのだけれど、彼女がそうしたいのならそれに従った方がいいと判断して、大人しくついていった。
ほとんど待つこともなくやってきた電車に乗り込むと、中はそこそこ混雑していた。
休日だから仕方ないだろう、と思いながら目を走らせると、座席がひとり分ほど空いているのが見つかった。
「お姉さんが座ってください」
と言うと、彼女は首を振り、
「一樹が座るべき。私は立っていても疲労を蓄積させることはない。でも、一樹は違う」
「でも、」
言い募ろうとした僕を遮り、お姉さんは僕を座席の前へと押しやり、
「それに、一樹が座った方が目線が近い」
と言った。
それがとても重要なことであるかのように。
僕は思わず苦笑し、それから、
「じゃあ、座らせてもらいますね」
と席についた。
お姉さんが満足げに頷き、僕の前へ立つ。
何か話をしなければ、と思うのに、何を話せばいいのか分からない。
無言で、しかも至近距離で見つめられるのも、少し困ってしまう。
それでも、それが決して不快ではないのが、なんだか不思議な気分だった。
どうして、不快じゃないんだろうか。
話すことが出来ない間の悪さくらい感じてもいいだろうに。
首を傾げながら彼女を見つめ返すと、彼女と目が合った。
服装はいつもと同じ、制服姿で、特筆すべき変化はない。
ただ、どうしてか、お姉さんの目がとても優しいものに感じられた。
そのせいだろうか、と思いながら、
「…どうして僕を気に入ったんですか?」
と聞いてみると、お姉さんは小さな声で、
「……可愛いから、守りたいと思った」
可愛いというならお姉さんの方がよっぽど可愛いと思うんだけれど、
「ありがとうございます」
と言っておいた。
お姉さんが手を伸ばし、僕の頭を撫でる。
「お姉さんに、僕から出来ることって、何かありませんか?」
そう聞いてみたのは、今日だけに限ってさえ、お姉さんに甘やかされ、大事にされていると思うからだ。
男として、あるいは弟として、僕からも何かしてあげたい。
そう思った僕に、お姉さんはあっさりと、
「もっと、甘えて」
と言った。
そんなことでいいんだろうか。
「じゃあ、少しいいですか?」
聞きながら僕はお姉さんの腰の辺りを抱きしめた。
そのまま頭を寄せると、胸に当たるのも構わずお姉さんが僕の頭を抱きしめ返してくれた。
恥ずかしいけれど、それ以上に心地よくて、
「少し、…疲れてたんです」
と小さく呟くことさえ出来た。
「お兄さんに言えないことが多いのは分かる。でも、私には言ってもいいはず。だから、一樹さえよければ、話して」
「しかし…」
僕が躊躇ったのは、すぐ隣りにも人がいるからだ。
そんな状況で話せるはずがない。
「心配ない。周囲に会話が聞こえないよう、音声遮断シールドを展開した。私も口外しない」
「…すみません。何から何まで…」
「いい。…一樹が楽になることの方がずっと大事」
「…ありがとうございます」
その言葉に僕は甘えさせてもらい、ぽつぽつと、機関やその他の問題について愚痴らせてもらった。

電車を下りて、少し歩くとショッピングモールに着いた。
そこまでの道程も、もちろん、そこに着いてからも、僕とお姉さんは手を繋いでいた。
お姉さんに手を引かれるのではなく、二人で手を繋いで。
お兄さんとふたりだけの時と違って有り難いのは、手を繋いでいても、奇異な目で見られて迷惑を掛けないかと心配する必要がなく、気兼ねなくそうすることが出来るということではないだろうか。
おもちゃを大量に取り扱っている店の中は子供とその保護者でいっぱいで、なかなかの混み方だったので、手を繋いでいても不自然じゃなかったのも、僕を少し気楽な気持ちにさせてくれた。
子供の多いコーナーを抜けて、隅のパーティーゲームやボードゲームのコーナーに行くと、いくらか落ち着けた。
…そのマイナーさには少し悲しくなりもするけれど。
棚いっぱいに並んだゲームに目を走らせるお姉さんを見ていると、「精査」という言葉を思い出してしまった。
それでつい、くすくすと笑ってしまった僕に、お姉さんが怪訝そうな目を向ける。
「三人で出来るゲームを探しましょう」
誤魔化すように僕が言うと、お姉さんは頷いてくれた。
「前から、お兄さんとふたりで色々探してみてはいたんですけど、やっぱりお姉さんの意見を聞いてみないといけないと思って、今日はここに三人で来ようと思ったんですけどね」
お兄さんが来れなくて残念だ。
「でも、お兄さんがゲームに特にこだわらないのは分かってますし、お姉さんがやりたいと思うものを買って帰りましょう。ね?」
こくんと頷いたお姉さんは、
「…時間のかかるものがいい」
「……どうしてですか?」
素直に尋ねた僕に、お姉さんは淡々と、
「時間がかかれば、それだけ一樹とお兄さんと一緒にいられるから」
可愛らしい答えに、僕は思わず目を細めつつ、
「ありがとうございます。でも、僕のおすすめは、運の要素が強いゲームですね」
「……何故?」
「運で結果が決まるのであれば、お姉さんでも予測がつき辛くて、楽しめるでしょう?」
「私は自分の能力に制限を掛けてもかまわない。そうすれば、一樹とお兄さんと同レベルになる」
「それでは楽しめるとは言えないと思いますよ。ゲームは全力を出して、本気でやるから楽しいものになるのですし」
「……そう?」
「ええ、そうだと思います」
どうやら納得してくれたらしいお姉さんと二人であちこち箱を引き出したり戻したりしながらゲームを選ぶのも楽しかった。
これはここがいいとか悪いとか話しているうちに、何か一緒に新しいゲームを考えようという話になったのも。
それから、ゲームの対戦成績をつけることも決めた。
そうすれば、オセロやチェスのように一対一の二人でしか出来ないゲームであっても、三人で楽しめるだろうと考えたからだ。
そのためのノートも買いに行き、僕は満足してショッピングモールを出た。
お姉さんも満足してくれたと思いたい。
多分、満足してくれたと思う。
心なしか表情が和らいでいたように感じられたから。
それから僕たちはお兄さんの妹さん――なんだか不思議な響きだけれど事実そうなんだから仕方がない――に、お見舞い品としてちょっとしたお菓子と、お姉さんおすすめの絵本を買って、電車に乗った。
今度こそお姉さんと並んで腰掛け、今度は愚痴ではなく、本の話やお兄さんの話をした。
穏やかで楽しい時間をお兄さん以外とも過ごせるようになったことは驚きだけれど、それ以上に嬉しい。
僕はどうしてもにまにまと笑ってしまうのを堪えきれないまま、お兄さんの家の玄関チャイムを鳴らした。
どんな顔をしてお兄さんが現れるか、予想しながら。