看病



「げほっ、…こほっ……」
ひとりきりの部屋に、咳をする音だけが響く。
寂しいのを通り越して、切なくなりそうだ。
最近はお兄さんやお姉さんに言われたこともあって、体調管理にも気を使ってたはずなのに、慣れないことをしたせいか、風邪を引いてしまった。
情けない。
それにしても、……悲しいくらい寂しい。
今なら、「咳をしてもひとり」と詠んだ尾崎放哉の気持ちだって、嫌というほどに理解出来そうだ。
もっとも、熱のある頭じゃまともな解釈なんて出来ないんだろうけれど。
あー…今度のテストで出ないかな、これ。
なんて、馬鹿なことを考えてもだめだ。
静か過ぎる部屋は不安ばかりを募らせる。
せめて眠れればいいのに、午前中いっぱいを寝て過ごした体はもはや睡眠を求めていないらしい。
そのくせ、布団から起き上がる気力はほとんどないんだから、たちが悪い。
僕はげんなりしながら、寝返りを打った。
それだけで、ずきりと頭が痛む。
熱、咳、喉の痛みに頭痛。
……ある意味風邪の症状のスペシャルセットだ。
鼻づまりがないだけマシだと思おうか。
それとも、どうせこれから来るに違いないと諦めようか。
ティッシュ、買いだめしてあったっけ…?
なかったら買いに行こうかな…。
トイレットペーパーで代用したんで構わないかな……。
ああだめだ、頭がぐらぐらする。
自分が目を開けているのか閉じているのかもよく分からなくなる。
死にそうだ。
そう思った時だった。
ピンポーンと電子音が響き、少しして、鍵を開ける音が微かにした。
お兄さんだろうか。
それとも、森さん?
鍵を持ってるのはその二人くらい――機関の人間がどこまで僕の私生活を管理しているのかは僕自身よく分からないので憶測に過ぎないが――のはずなのだが。
「……大丈夫?」
入ってきたのは、お姉さんだった。
「お…姉さん……?」
掠れた声で言うと、彼女がかすかに顔を顰めた。
「無理して喋ってはだめ」
「ど、して…」
僕が問うと、彼女は僕の唇に指を当てて黙らせながら、
「鍵をお兄さんから預かった。お兄さんもすぐに来る。今、お兄さんは買い物中。私はとにかく一樹の側にいてやって欲しいと頼まれて、先に来た」
そう言った彼女が僕の額に触れる。
冷たい手の平が気持ちいい、と思っていると、
「…38.7℃」
と告げられた。
どうやら、体温を測ってくれたらしい。
体温計を紛失していたからありがたい気もするけれど、そんな風に、数値という客観的基準で高熱を知らされると、余計に体調が悪くなったように感じられる。
「室内の湿度及び温度を調節する。許可を」
そう言われ、僕は小さく頷いた。
彼女が頷き返した、と思うと同時にふっと部屋の空気が暖かくなり、呼吸がいくらか楽になった。
「ありがとうございます…」
無理矢理笑みを浮かべてそう言うと、彼女は困ったように言った。
「本当は、すぐに万全の状態にしてあげたい。でも、お兄さんの許可が下りなかった」
お兄さんのことだ。
風邪くらい自力で治せると思っているんだろうし、この程度のことにお姉さんが力を使うまでもないと思ったんだろう。
その考えは、僕も同じだ。
風邪くらいなんとかなるだろうし、この程度のことでお姉さんの手を煩わせたくもない。
それに、
「こうして、いてくれるだけでも嬉しいですよ」
僕が言うと、お姉さんは僕の手をきゅっと握ってくれた。
それだけで落ち着く。
もう、寂しくない。
僕はお姉さんの手を握り返し、小さく笑った。
しばらくして、玄関で音がしたかと思うと、慌ただしい足音が聞こえてきた。
ぱっと寝室のドアが開き、
「一樹、具合はどうだ?」
とお兄さんが顔を見せた。
それだけで安堵する。
「ああ、思ったほど酷くないみたいだな」
とお兄さんもほっとした顔をした。
「腹減ってないか?」
その問いに、僕は首を振ったのだが、
「まあそれでも食え。食わなきゃ薬も飲めないだろ。今、雑炊を作ってやるから」
と笑顔で言われては逆らえない。
僕が苦笑すると、お兄さんは途中で寄って来たらしいドラッグストアの袋から熱冷ましの冷却シートをお姉さんに渡した。
「それ、額に貼ってやれ。多少は楽になるだろうからな」
「分かった」
頷いた彼女が箱からシートを取り出し、僕の額に貼る。
ひんやりと冷たすぎるくらいの感覚が気持ちいい。
思わず目を細めると、お姉さんが僕の手を握りなおした。
手を繋いだまま、お姉さんが僕に布団を掛ける。
そうするうちに、台所からは何やら物音が聞こえ始める。
わざと開けたままにされたドアの向こうから聞こえるその音が、驚くほどに僕を安心させてくれた。
家庭の温かさって、こんな感じなんだろうか。
数年前に手放してしまったそれはもう、思い出すことさえ出来なくなってしまっているけれど、今はその頃よりもずっと温かいと感じられるから、それはそれで構わない。
包丁を使う音がリズミカルに響く。
さっきまでの寂しい部屋と同じ空間だとは思えないくらいだ。
心まで温かくて、幸せで、懸案事項があるとしたら、幸せすぎて死んでしまうんじゃないかということくらいだ。
小さく笑った僕の目を、お姉さんが閉じさせる。
そのまま頭を撫でる手つきはお兄さんのそれに似て優しい。
それが気持ちよくて、僕はさっきまで眠くなかったことも忘れたように、眠っていた。
「一樹、悪いがちょっと起きてくれ」
お兄さんの声で目を開けると、お兄さんが僕の顔をのぞきこんでいた。
その手にはタオルが握られている。
「汗かいただろ。拭いてやる」
「すみません…」
お兄さんに支えられながら体を起こすと、温かいタオルが顔を拭っていった。
「熱くないよな?」
「ええ、気持ちいいです」
冷たい水で濡らしただけかと思ったら、ぬるま湯を使ってくれたらしい。
その心遣いが嬉しい。
「もう少ししたら雑炊も出来るからな」
そう言いながらお兄さんが僕の服を脱がせ、手際よく体を拭いていく。
さっぱりしたところに着替えをさせられ、ほっと息を吐いた。
お兄さんは僕の髪をくしゃくしゃと撫でて、
「今日は泊まるからな。余計な心配せずに、体を治すことだけ考えてろよ」
「はい…」
「よし」
と笑って、お兄さんは台所に戻っていった。
それとほとんど入れ替わりに、お姉さんが戻ってくる。
手にしているのは、小さめのお椀とスプーンだ。
「雑炊」
と言いながら、ベッドの側に座り、雑炊をスプーンですくった。
それをふぅふぅと吹き冷まし、僕の口まで運んでくれる。
それがくすぐったくて、嬉しくて、僕は小さく笑いながら口を開いた。

風邪を引くのは苦しくて寂しくて、辛くもあるけれど、悪いばかりじゃないのかもしれないと思った。