一日の仕事を終え、くたくたに疲れて家に帰るということが、辛いと言うよりもむしろ嬉しく感じられるのは、彼が待っていてくれるからだと思う。 明かりの点いた窓に口元を綻ばせつつ、 「ただいま」 とドアを開ける。 「お帰り」 キッチンの方から彼の声が聞こえた。 それだけで嬉しくて堪らなくなる。 あまりにもにやけた顔を見せると呆れられるだろうからと、少しだけ顔を引き締めつつ、キッチンに向かうと、彼が料理をしているところだった。 「お疲れさん。晩飯はもうすぐ出来るから、先に風呂入って来いよ」 「はい」 素直に答えながらネクタイを緩め、スーツの上着をソファへ放ると、 「ちゃんとハンガーに掛けろって何度言えば分かるんだよ?」 怒るように、拗ねるように、彼が咎めた。 「すみません」 慌てて拾い上げたそれをハンガーに掛け、そのまま脱衣所へ向かう。 ひとりの部屋に帰らなくてもいいというだけでも嬉しいのに、待っていてくれるのが彼だということで、それが何倍にも膨らんでいるように思える。 脱いだ服をきちんとあるべきようにして、風呂に入った。 丁度いい温度に設定された湯に浸かるだけでも、疲れが消えていくように思える。 ふぅ、と息をついたところで脱衣所のドアが開いた音がした。 彼が、僕がちゃんとしているか見に来たんだろう。 「風呂、熱くないか?」 と声を掛けられ、顔が緩むのも止められない。 どうせ見えないからいいだろう。 「ええ、丁度いいですよ」 あなたのおかげですね、と言うと、 「機械任せなんだから礼はそっちに言え」 と素っ気無く言われてしまったけれど。 少しして風呂から上がると、着替えが置いてあった。 いそいそとそれに着替え、キッチンへ行くと、夕食の準備は万端に整っているようだった。 「おいしそうですね」 と言うと、彼は苦笑して、 「お前、いっつもそればっかりだな」 「いつもおいしそうだからそう言ってるだけなんですけど」 「分かってるけど、もう少しバリエーションというものを、」 と言いかけた彼は途中で言葉を途切れさせ、 「いや、やっぱりいい。お前にそんなことを言ったら歯が浮くような美辞麗句を並べ立てられてむず痒くなる気がする」 「酷いですね」 言いながら僕は食卓につき、彼とふたりで食事をとった。 話す話題は、会社でのこと、今日のニュース、それから長門さんから連絡があったとか、そんなことだ。 夕食の片付けは僕がして、時間も遅くなったので二人一緒に眠った。 「――という夢を見たんです」 と僕が言うと、お兄さんは嫌そうに顔を顰め、 「そういう妄想は女の子でしろ」 「予想はしてましたが、つれないですね」 「当然だろう。なんでそんな夢を見るんだお前は」 「やっぱり、家庭の温もりが恋しいんですよ」 「それなら実家にでも帰って来い」 「嫌です」 きっぱりと言うと、お兄さんはため息を吐き、 「そういう時だけはっきり否定するな、お前」 「どうしても嫌ですからね。あの家に帰るくらいなら野宿した方がマシです」 「野宿はするなよ。うちのお袋と妹がうるさいからな」 「では、もし何かあって部屋にいられなくなったら、頼らせてくださいね」 「……勝手にしろよ」 諦めたような顔をして言っているけれど、どちらかというと嬉しそうにしていたのを僕は見逃さなかった。 それでも、後になってあんなことになるとは、全く予想もしていなかったのだけれど。 彼とそんな会話をした数日後、放課後になるなり閉鎖空間が発生したのを感じた。 ほとんど間を置かずに、携帯電話が震える。 今日はお兄さんにもお姉さんにも会えそうにない、と思うと残念だったが、仕方ない。 さっさと閉鎖空間に向かって、神人を倒してしまおう。 早く終らせることが出来れば、少しくらい顔を出せるだろうから。 と、そんなことを考えている時に限って神人が手強いのは、そんなことを考えていると涼宮さんに見抜かれてしまっているからなんだろうか。 いやいやいや、彼女はそんな風に意図したりはしないだろう。 だからこれは僕の被害妄想だ。 すっかり暗くなった街を車が走り、僕の住むマンションの前で止まった。 「ありがとうございました」 以前は新川さんにも冷たい口をきいていたのだけれど、お兄さんに怒られたり、また一度怪我をした時にお兄さんが新川さんにお世話になったことから、僕は新川さんへの態度をいくらか軟化させていた。 だからそういう風にちゃんとお礼を言うようになったのだが、そうすると新川さんの方もいくらか目を細めつつ、 「いえ、お疲れ様です」 と返してくれるのがなんだか不思議な気分だった。 自分が変われば周囲も変わるというのは真理かもしれない、と思いながら僕はマンションに入り、エレベーターを待つ。 部屋に帰ったところで、誰もいないし、明かりすら点いてない、寂しいものなんだけれど。 疲れたから湯船に浸かって体を休ませてやりたいけれど、この分だとシャワーを浴びるだけで精一杯かもしれないな。 思わずため息を吐きながら、エレベーターに乗り込む。 スムーズに上昇していく数字を見つめているとそれはすぐに止まった。 エレベーターを下りると、ふっといい匂いがした。 どこかの家の夕食がカレーだったらしい。 食欲をそそる匂いが少しだけ憎らしいのは、今日は夕食を作る気力もないから、そのまま眠ってしまおうと考えていたせいだ。 レトルトカレーでもあったかな。 そうなるとその前にご飯を炊かなきゃならないんだけど、こんな日は億劫だ。 やっぱりいくらか冷凍しておくべきだろうか。 ずるずると、余計に重くなる脚を引き摺りながら自分の部屋に向かい、鍵を開けようとして気がついた。 部屋に電気が点いている。 うっかり消し忘れたんだろうか。 おかしいな、と思いながら鍵を取り出し、鍵穴へ突っ込み、くるりと回す。 手ごたえがなかった気がする。 ……鍵、掛け忘れたのかな。 もし泥棒が入っていたとしても特に盗られて困るものもないから、構わないと言えば構わないんだけど、盗難届けを出すのが面倒だな。 ガチャリとドアを開けると、 「お帰り」 と僕が使っているピンクのエプロンをつけたお兄さんが仁王立ちしていた。 何で仁王立ち。 ……じゃなくて、なんでお兄さんがうちにいるんだろうか。 ぽかんとしている僕に、お兄さんはニヤニヤと笑いながら、 「お帰り、と俺は言ったんだが?」 と意地悪く言う。 「…た、ただいま帰りました…?」 「うん、まあよし」 満足げにお兄さんは頷き、 「メシ出来てるぞ。風呂も沸いてる。それとも? ……なんてのは言ってやらんがな」 「いえ、やっぱりここはお兄さんでしょう」 と笑いながら抱きつくと、背中に腕を回されたのが分かった。 「お前なぁ…」 呆れた口ぶりで言いながらも、僕を受け容れてくれることが嬉しい。 「少し汗臭いぞ。メシの前に風呂だな。さっさと入って来い」 「はぁい」 と答えながら体を離すと、お兄さんは僕の顔をまじまじと見つめ、 「……間抜け面」 と呟いた。 「お兄さんが喜ばせるからですよ」 「ほっとけ。…せっかく沸かしたんだから、シャワーで済ませて出てきたりするんじゃないぞ。置いて帰ったりもしないから、ゆっくりして来い」 このまま帰ってしまうんじゃないかと僕が思っていたのを気付かれたらしい。 僕は思わず笑みを浮かべ、 「ありがとうございます」 とお礼の言葉を述べた。 それからお兄さんにブレザーの上着をむしり取られた僕は、そのまま風呂場へ直行させられる。 着替えは既に用意されており、嬉しいような少し残念なような気になる。 あの夢は未来のことのようだったけれど、今日のこのことを暗示していたんだろうか。 まあ実際には、僕からあの夢の話を聞いたお兄さんが実践してみようとかなんとか思っただけなのだろうけど。 それにしても、お兄さんがこんなことをするというのが意外だった。 湯船に浸かり、疲れのためにうつらうつらしながら、どうしてだろうと考えていると、 「一樹、湯加減は?」 脱衣所のドアが開くと同時に、そう声を掛けられた。 「丁度いいですよ」 「そりゃよかった」 小さく笑い声がして、一瞬妙な間が開いたな、と思ったら、 「背中でも、流してやろうか?」 夢でも言われなかったセリフを言われた。 「――えぇええええ!? な、何言ってんですか!?」 「なんだ、文句でもあるのか?」 「文句って言うか、なんでそんなこと言い出すのか分からないんですけど…!」 驚きすぎて疲れも眠気も吹き飛んでしまった。 「たまにはいいだろ。というか、入るからな」 どうしよう、と僕が慌てている間に、すぱっと服を脱いだお兄さんが風呂場に入ってきた。 なんとなく直視できないのは、恥ずかしいからだと思う。 「男同士なんだから恥ずかしがらなくてもいいだろ」 「慣れないんですよ。人と一緒にお風呂に入るなんてなかなかないことですから」 「そんなこと言って、お前も修学旅行くらい行っただろ」 「小学校の時だけですけどね」 「中学のはどうしたんだ?」 「……いつ閉鎖空間が発生するか分かりませんから、遠出するわけにもいかないんですよ」 苦い気持ちになりながら言うと、お兄さんが小さく顔を顰めたのが分かった。 「それなら、今度はちゃんと行こうな。というか、来なかったらハルヒが怒り狂うと思うぞ」 「ええ、そうですね」 彼女は自分の仲間と認識したものには本当に優しいから。 僕まで仲間として認識されていると思うと、なんだかくすぐったいけれど。 「苦労人な一樹を労わってやるとしよう。ほら、さっさと湯船から上がれ。背中流してやる」 ここまで来たら逃げられないだろう。 僕は苦笑しながら、 「分かりました」 と頷き、湯船から上がった。 するとお兄さんが、 「……お前、やっぱり、顔に似合わずでかいな」 と感慨深げに呟いた。 「…ちょっ、なっ、ど、どこ見てるんですか!?」 思わず真っ赤になる僕に、お兄さんは平然と、 「どこって…」 「い、言わなくていいです! とにかくもう黙ってください! 見ないでください!」 「一緒に風呂入ったら見るだろ。普通は」 「知りませんよ!」 というかさっき、やっぱりって言いませんでした!? 「冬の合宿の時にも、あの怪しいことこの上ない館の風呂で見たからな」 「き、気付きませんでした……」 あの状況下でそんなことをしていたなんで、お兄さんはやっぱり度胸が据わっている。 「まあチラ見したくらいだし。ほら、グダグダ言ってないで座れ。髪も洗ってないんだろ。ついでだから洗ってやる」 抵抗を諦め、真っ赤になったままお兄さんの言葉に従う。 涼宮さんにセクハラされる朝比奈さんの気持ちが分かった気がした。 「お前って、こんな甘ったるい匂いのシャンプー使ってんだよな」 僕の髪を濡らした後、お兄さんがそんなことを言った。 「今更でしょう。僕の部屋に泊まるのももう何度目です?」 「忘れたな。少なくとも、お袋が何も言わなくなるくらい回数を重ねていることだけは確かだが」 それでも、とお兄さんは笑いを帯びた声で、 「一緒に風呂に入るのは初めてだろ。ついでだから言っておこうと思ってな。なんでこんなシャンプー使ってるんだ?」 「特に意味はないんですけど、最初に森さんに揃えてもらった時のシャンプーがそれだったってだけで」 「最初って、一人暮らしを始めた時ってことか?」 「ええ、そうです」 「ふぅん、森さんの趣味か」 意味ありげに呟いてはいるけれど、ほとんど意味はないらしい。 それよりむしろ僕の頭をわしわしと洗うのを面白がっている気がする。 「実際、面白いと思わないか? 妹も大きくなったから、しばらく人の髪なんか洗ってないし」 「ああ、やっぱり一緒にお風呂に入ったりしてたんですね」 「子供を風呂に入れるってのは手間だからな。よくお袋に押し付けられてたんだ」 手間、と言いながらも嬉しそうなのは、それがそう悪い思い出でもないからだろう。 少し妹さんが羨ましくなる。 「今やってやってんだから羨ましがるなよ」 「……お見通しですか」 「お前もな」 ふたりして、小さく声を上げて笑った。 髪を洗い終わると、そのまま背中を洗われる。 くすぐったい、と思っているとお兄さんが、 「一樹、本当にお疲れさん」 「いきなりなんですか?」 「いや、ちょっと言っておきたくてな」 「お兄さんにそんなことを言われるとくすぐったいですね」 「どういう意味だよ、そりゃ」 「お兄さんはそんな風に僕を気遣ったりしなくていいってことですよ。僕が参ってる時にでも、少し手を貸してくだされば、それで」 「じゃあ言うがな、お前もそうやって気を遣うなよ。甘やかしてやるって言うんだから、大人しく甘やかされてろ」 「甘やかしておいて突き放す時があるから、お兄さんは怖いんですけどねぇ…」 「それを言うな」 言いながらお兄さんはボディタオルを置くと、僕の肩に手を掛けた。 「なんですか?」 「肩でも揉んでやろうかと思ってな」 その手が肩を揉んでくれるのはありがたいのだが、むしろくすぐったい。 「や、く、くすぐったいですって」 笑いながらそう声を上げると、お兄さんがにやりと笑ったのが、見なくても分かった。 「全然凝ってないんだな。つまらん」 「だ、からっ、いいですって、あははっ…」 「つまらんから、くすぐってやる」 肩に置かれていたはずの手がするっと滑り、脇腹をくすぐるともうだめだった。 そのまま息が切れるまでくすぐられ、ぐったりしている間にお兄さんは体についた泡を流し、湯船に浸かった。 「脱力してないでさっさと前も洗えよ。流石にそこまでは洗ってやらんぞ」 「誰のせいで脱力してると思ってるんですか…。それに、そこまで要求したりしません」 むしろ全力で拒否させてもらいたい。 「だろうな」 笑ってる顔を見ると嬉しい気持ちになるのだけれど、余裕綽々な態度が憎たらしくもなる。 「お兄さんは、体は洗わないんですか?」 「洗うが、お前の後でいいだろ」 「背中くらい流しますよ?」 「疲れて帰ってきた奴にそんなことさせられるか」 との言葉は照れ隠しだ。 「そんな照れなくてもいいんですよ?」 というか、人の背中を流すのはよくて、流されるのは嫌というのが分からない。 「いいから、お前はさっさと体洗って、風呂に浸かって、出てろ」 少し顔を赤くしてそう言ったお兄さんに、僕は苦笑しながら従った。 手早く体を洗い、湯船に浸かる。 さっきの仕返しにと、 「お兄さんだって、小さくないじゃないですか」 と言うと、問答無用で顔にお湯を掛けられた。 ゆったりと体を温めてから、 「それじゃあ、お先に上がりますね」 と立ち上がると、 「夕食はカレーだからな。ちゃんと温めておけよ。先に食ってもいいが」 「いえ、待ちますよ」 「じゃあ、頼む。もうルーを入れてあるからな。しっかりかき混ぜながら温めろよ。そうじゃないとすぐ焦げ付くから」 「分かってますよ」 子供扱いされても嬉しいんだから、僕は本当にどうかしているのかもしれない。 わしゃわしゃと体を洗っているお兄さんの横を通り抜けて、風呂から上がった。 用意してあった着替えに袖を通し、キッチンへ向かう。 コンロに掛けられたままの鍋がふたつあり、ひとつにはカレーが、もうひとつにはルーが入っていない状態のカレーがあった。 どうやら多めに作ってくれたらしい。 既にカレーになっている方にだけ火を点け、お玉でかき混ぜていると、しばらくしてお兄さんも出てきた。 「ああ、ちゃんとやってたんだな」 鍋を覗きながらお兄さんが言い、僕の頭を撫でる。 その優しい手の動きが好きだ。 「ご飯も炊いてくれたんですね」 「カレーならやっぱり飯だろ。パンとかナンもアリかもしれないが」 「僕も、ご飯の方が好きです」 「そりゃよかったな」 「帰ってくる途中、カレーの匂いがして、羨ましいなと思ってたら、その匂いの元がうちだなんて、本当にビックリしましたよ」 「そういうサプライズなら悪くないだろ」 「そうですね」 そんなことを話しながら、お兄さんがご飯を皿に盛り付け、冷蔵庫から作ってあったらしいサラダを取り出す。 出来上がった食卓はしっかりしたもので、お兄さんも満足そうだった。 「早く食べるぞ。お前の帰りが遅いから、俺もかなり腹が減ってるんだ」 「待たずに食べてもよかったんですよ?」 「一応、お前の部屋にあったものだけで作ったんだから、持ち主を待たずに食べるわけにもいかないだろ」 「お兄さんなら構いませんよ」 「じゃあ、次からはそうする」 席につき、ふたり揃って手をあわせ、 「いただきます」 と言うのもなんだか不思議な感じだった。 お兄さんと一緒に食事をするのは初めてじゃないのにそう思うということは多分、このいつもと少し違う状況のせいなんだろう。 「それで結局、」 と僕はカレーを半分ばかり平らげたところで聞いてみた。 「どうしてこんなことをしているんです?」 お兄さんは少し渋い顔をしながらスプーンを置き、水を一口飲んだ。 「……今日、閉鎖空間が発生しただろ」 その一言で、分かった。 お兄さんがそれを気に病んでいたということが。 「原因は俺だからな」 うっかりハルヒの機嫌を損ねちまって、とため息を吐くお兄さんに、 「気にしなくてもよかったんですよ?」 本心から僕が言うと、軽く睨まれた。 「俺は気にするんだよ。自己満足的な罪滅ぼしくらいさせてくれ」 そう言って、照れたように顔を背けるところが可愛いと思ってしまった。 お兄さんはいつも僕のことを可愛いというけれど、自分の方がよっぽど可愛いことに、気付いてないんだろうか。 ……気付いてないんだろうなぁ。 それはなんとなく勿体無い気がするし、そんなお兄さんに可愛いと言われまくる僕としては理不尽な気さえするのだけれど、言っても無駄だろうから黙っておいた。 「後片付けくらいは僕が、」 と言ったのだが、お兄さんは耳を貸さず、 「疲れて帰ってきたんだろ。いいからお前は休んでろ」 手早く皿をまとめて流しに持っていってしまった。 素早い。 でも、正直ありがたい。 時間はもう日付が変わるギリギリで、眠気も疲労も限界に近い。 必死にあくびを噛み殺していると、気配でばれたのか、 「さっさとベッドに行け」 と叱られた。 「お兄さんも、このまま泊まって行くんですよね?」 眠くて鈍る頭でそう問うと、洗い物をしていたお兄さんが泡だらけの手のまま振り返り、 「この格好見りゃ分かるだろ」 確かに、お兄さんがスウェットスーツ姿で出歩くわけないか。 ましてや、うちからお兄さんの家まではそこそこあるんだし。 僕は小さく笑い、 「嬉しいです」 「そうかい。それなら精々布団を温めておけよ」 「それって、一緒に寝るってことですか?」 客用布団を使ったりせずに? と僕が問うと、お兄さんは笑い、 「今更別に構わないだろ。それに、布団を敷くのが面倒なんだ」 「それでも嬉しいんです」 「阿呆」 心底呆れきった顔で言われたのが少し痛かったが、それでも今日はここまで恵まれてるんだから、それくらい堪えもしない。 むしろ、幸せすぎて死ぬんじゃないだろうか。 そんなことを思いながら布団に潜りこみ、お兄さんを待っていると、 「先に寝てろよ」 と怒られた。 「半分くらい寝てましたよ」 少し寝とぼけた声が出たが、お兄さんは小さく笑っただけで、 「完全に寝ろよ。疲れてるんだろ」 と布団に入ってきた。 狭いせいで体が密着するけれど、それが既に不快じゃないのがなんとなくおかしくて、嬉しい。 「大丈夫ですよ。明日には完全に元気です。それも、お兄さんのおかげですね」 「そもそもの原因が俺なのにそう言われると困るんだが」 「…そんなに気にしてるんですか?」 「当たり前だろ。俺のせいで一樹が怪我をしたらどうしようかと思ったらじっとしてられなくなって、ここまで来たんだからな」 「……僕は、心配してもらえるだけでも満足ですよ」 しかも今日はそれだけでなく、実際こうして甘やかしてもらったんだ。 不満を抱くはずもない。 それでも、そう言っただけではお兄さんの気が済まないのだろう。 だから僕は、少しだけわがままを言うことにした。 「じゃあ、僕が寝るまでの間だけでも、僕を抱きしめていてくださいますか?」 「……それだけでいいのか?」 「それだけ、なんかじゃありませんよ。僕にとってはとても重要で、喜ばしいことですから」 「安上がりな奴だな」 言いながら、お兄さんが僕を優しく抱きしめる。 その心地よさに、まぶたが勝手に下りてくる。 まだ寝たくないのに。 お兄さんともう少し、話していたいのに。 「おやすみ、一樹」 お兄さんの言葉がトドメになって、僕は眠りに落ちたのだった。 |