成就



今日、俺は会社を休んだ。
体調を崩したとか、身内に不幸があったとか、そういうわけじゃない。
口実として、酷い風邪を引き、職場に菌をばら撒いてはいけないからと言いはしたがな。
休んだ理由は簡単で、

――今日が、特別な日だからだ。

高校を無事卒業した俺たちは、大学も共にした。
卒業後の進路こそばらばらになってしまい、朝比奈さんも未来へ帰ってしまったため、SOS団全員が揃うなんてことは、そうそうありやしない。
…全くないわけじゃないぞ?
朝比奈さんも、職業特権とやらをフルに活用して、時々こっそりと顔を見せに来てくださるからな。
それくらいの権限を、彼女も獲得されたってことだ。
ハルヒも忙しそうにあちこち駆け回るのは変わっておらず、月に一度顔を合わせられればいい方だ。
その代わり、というわけでもないのだが、古泉と長門とはしょっちゅう顔を合わせている。
それというのも、ふたりがわざわざ俺と同じ就職先を選んだからだ。
あいつらならもっと条件のいい職場だって行けただろうにと思うと未だに勿体無い気がするのだが、それを言ったところで無駄だろう。
同じ部署を希望しなかっただけマシなのかもしれん。
ちなみに部署は、俺が人事で古泉が営業、長門は開発で、それぞれに自分にあっていると感じているから、雇い主であるところの鶴屋さんはやはり凄い方だと脱帽せずにはいられない。
……そこ、コネ入社って言うなよ。
経営者が鶴屋さんだと知ったのは入社した後だったんだからな。
とまあ、そんな感じに、未だにSOS団は繋がっている。
だからこそ、俺はきちんとけじめをつけなければならないと思っているのかもしれないな。
わざわざ仮病まで使って会社を休んだってのに、俺はわざわざスーツ姿で家を出た。
相変わらずの実家住まいだが、おそらく近いうちに出て行くことになるだろう。
そう思うと何やら感慨深い。
時の経つのは早いもので、妹ももう大学を出る年になる。
背も、それ以外もしっかりと育ち、成長を危ぶんでいた兄としてはとりあえずほっとしているところである。
それはそれで心配だがな。
歩いて、駅前へと向かいながら小さく息を吐いた。
ため息ではない。
むしろ、ほっとしているのだろう。
この日が本当に来るとは思わなかった、と言うと嘘になる。
約束をしたあの日も、俺はちゃんと覚悟を決めていた。
色々と重たいものを背負っている古泉を、その背負っている物ごと、何があっても支えてやるという覚悟だ。
だから多分、今日と言う日も、来るべくして来たんだろう。
相変わらず待ち合わせに使っている場所に、古泉がやはりスーツ姿で立っていた。
そわそわと落ち着かない様子で、何度も時計を見ている姿が相変わらず可愛い。
とても26の男には見えないぞ。
俺は思わず笑みを浮かべながら、
「一樹」
と声を掛けた。
ぱっと顔を上げた古泉が、満面の笑みを浮かべて俺を見る。
俺はそれへ早足に近づき、
「待たせたか?」
「いえ、僕が勝手に早く来ただけですから」
それより、と古泉は俺の前に珍妙なものを突き出した。
珍妙…というか、俺に似つかわしくないとでも言えばいいのか?
それは、胡蝶蘭の小さなコサージュだった。
「男性用はコサージュじゃなくって、ブートニアって言うんですよ」
苦笑混じりに古泉は訂正したが、要は花で作った胸飾りだ。
何でそんなものを俺がもらわにゃならん。
「花束では受け取りを拒否されるかと思ったのでこちらにしたのですが……小さくてもだめですか?」
しょげる古泉に、俺は小さくため息を吐き、
「しょうがない。さっさと付けろよ。俺はうまく付けれんからな」
と胸を突き出してやった。
古泉は嬉しそうに微笑み、
「ありがとうございます」
いそいそと俺の胸へそれを付けた。
くすぐったい、というか、たとえスーツ姿でも男がこんなもんをつけてると奇矯にしか映らんのだろうな。
よし、
「お前のは?」
「僕は別に…」
「じゃあ、お前に花束を持たせてやろう」
「えええ!?」
声を上げる古泉を引き摺ってすぐ近くの花屋に入る。
「胡蝶蘭を使って、簡単な花束を作ってもらえますか?」
と頼んだところ、胡蝶蘭は鉢物しかないとのことだった。
どうするかな、と考え込んだところで、古泉が言った。
「あの、なんで胡蝶蘭にこだわるんですか?」
俺はじとっと古泉を睨み、店員に聞かれないよう、小声で言った。
「お前、俺の歳を考えろよ。もう何度か結婚式にも出てるんだぞ? それで気付かないと思うのか?」
ブートニアってのは要するに、新郎が胸に付ける奴だろうが。
で、無駄に雑学ばかりを吸収する俺の頭が間違っていないのであれば、ブートニアは花嫁の持つブーケと同じ花で作るものだったはずだ。
それなら、お前にやる花束も、同じ胡蝶蘭が入ってる方がいいだろうが。
「え、あ、そ……そうですね…」
ぼあっと赤くなった古泉は可愛いが、こっちまで恥ずかしくなりそうだ。
俺は喉で笑いながら、怪訝な顔をしている店員へ視線を戻し、
「その鉢植え、手入れは難しいですか?」
と聞いた。
寒さと直射日光にさえ気をつけてくだされば、そう難しくないとのことなので、一番小さいものを購入することにした。
小さい、と言ってもそこそこの大きさがあったので、明日古泉の部屋へ配達してくれるよう頼む。
なかなかの出費だが、今日は特別な日なんだ。
これくらい構わないだろう。
花屋を出て、向かったのは近くの公園だった。
二人並んでベンチに腰掛けて、ぼんやりと景色を眺める。
ここからの眺めも随分と変わっちまったってのに、本当によく変わらなかったな、と呆れながらも感心する。
「……本当に、好きな女の一人も出来なかったのか?」
俺が問うと、古泉が苦笑混じりに頷いた。
「出来ませんでしたね。少なくとも、あなたよりも優先させたいと思うような女性は。――あなたはどうです?」
問われれば、苦笑するしかない。
「出来なかったな。コンパや飲み会に誘われても、お前や有希と過ごす方が大事だったし」
「……お姉さんのことも、好きにはなりませんでしたか?」
「有希はあくまでも妹だろ」
「それなら僕は弟なのかもしれません」
「かもな」
そう答えると、古泉の顔がくしゃりと歪んだ。
そんな風に傷ついた顔をするなら、最初からあんなことを言わなければいいのに、そんなことも分からないらしい。
「だがな、一樹」
俺は笑いながら言ってやった。
「これでお前を独り占めしてもいいのかと思うと、ほっとしてるのも事実なんだぞ」
「……本当ですか?」
ああ。
これからは、妹が遊びに行く時に、いっちゃん貸して、と言ってきても断れるし、女の子だらけの飲み会に誘われるお前を強引に連れ出すことも出来るんだろ?
お前が誰かと一緒にいて、楽しい思いをしているかもしれないと考えることもなくなる。
……いや、その傾向はかえって強まるかもしれないが。
少なくとも、平気な顔を保つ義務はなくなる。
俺が言うと、古泉は疑うような眼差しを俺に寄越し、
「そんなこと、本当に思ってたんですか?」
思っていたとも。
「…どうせならもっと顔に出してくださいよ」
と唇を尖らせる古泉に、俺は、
「お前の方こそ、普段はろくに顔に出さないくせに」
「それは、涼宮さんのおかげで鍛えられましたからね」
そうかい。
「それで、一樹、」
「…はい」
「……本当に、いいんだな? 俺で」
「僕の方こそお聞きしたいですね。本当に、僕でいいんですか?」
「ああ。十年間、ちゃんと待ってくれたしな」
「思ったより長くはありませんでしたよ。それも、あなたと過ごせたからかもしれませんけれど」
楽天的にそう笑った古泉に、軽く釘を刺すように、俺は確認する。
「男同士ってのはハイリスクだぞ。それでも、……いいんだよな?」
「ええ。リスクなんて、あってなきが如しですよ。あなたと…もう一歩踏み込んだ関係になれるなら」
その薄ら寒い言い回しを止めろ。
照れ隠しなんだろうが、聞いている方は余計に恥ずかしい。
「すみません、つい、癖で」
やっかいな癖もあったもんだな。
それと、もうひとつ聞いておきたいんだが、
「はい、なんでしょう?」
「……お前、俺のこと抱きたいとか思うのか?」
一瞬動揺に目を見開いた古泉に、俺は言う。
「俺は別に、お前を抱きたいとは思わない。抱かれたいとも思わないがな。…それでも、いいか?」
「…ええ」
「……で、正直なところどうなんだ? 一度くらい俺で抜いたりしたのか?」
「ぬっ……抜くだなんて…!」
顔を赤らめる古泉にずいっと顔を近づける。
「正直に言えよ。別に幻滅もしないしドンビキもしないでおいてやるから」
「……た」
「聞こえないぞ」
「抜きました、って、言ったんですよ! もう、何言わせるんですか!」
「ああ、やっぱりしてたのか」
「やっぱりって……」
「一時期、俺の顔を直視出来てなかっただろ。あの時ピンと来てな」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。それ、いつのことです?」
「大分前だから……ああ、まだ学生の頃か?」
多分、大学三年の頃だな。
懐かしい。
「何でそんな細かいこと、未だに覚えてるんですあなたは…」
そりゃあ、なあ?
「お前のことだから、だろ」
「……本当に、もう…」
真っ赤な顔を押さえながら、古泉は言った。
「…僕は一体何度あなたに悩殺されたらいいんですか」
悩殺とか言うな、気色悪い。
「だって、そうでしょう?」
やかましい。
それより、問題があるだろう。
「問題、ですか?」
「さっきも言った通り、俺はお前に抱かれたいともお前を抱きたいとも思わないんだ。お前の思いにそういう意味で答えられないが、それでもいいのか?」
「いいです」
きっぱりと、迷いもせずに古泉が言い、俺はかえって拍子抜けして古泉を見た。
「いいのか?」
「ええ、構いません。だって僕は、あなたとそういったことをしたくてあなたを好きになったんじゃありませんから。ただ、あなたと愛し合えれば、それだけでも身に余るような幸せなんですよ」
そう、古泉は心底満足している顔で言った。
こういうとぼけたところは相変わらずで、それもまた可愛いのだが、やっぱりどこかずれていると思わずにはいられない。
俺はがりがりと頭を掻きつつ、
「あー……一樹よ」
「はい?」
なんでしょう、と従順な子供の顔で問う古泉から極力視線を外しつつ、俺は言った。
「こういう時、どうせならもう少しまともなことを言ってみたらどうだ? 男だろ」
「まともなこと…とはどういうことでしょうか」
そこで首を傾げるな。
問い返すな。
自分で考えてくれ。
「……だから、その…」
口ごもる俺に、古泉は不思議そうな顔をするばかりだ。
人で抜いたと言う割に、純真無垢なままだとでも言うのかこの野郎。
普段は無駄にキザったらしい口ぶりのくせに。
「……その気にさせてみせる…とか、そういうセリフは吐けねえのか、お前は」
呆れながら呟いた俺に、古泉は再び赤くなり、
「そ、そんな…」
何がそんなだ。
今更純情ぶるんじゃない。
こっちの方が恥ずかしくなるだろうが。
「…そんなこと、言っていいんですか?」
「悪けりゃわざわざ指摘したりなんかしないだろ」
言っておくが、俺は手強いぞ。
持って生まれた性癖をそうそう簡単に変えられるほど柔軟でもないからな。
「ええ、そうでしょうね。でも僕は、あなたからそんなことを言い出してくださった以上、望みはあると思いますよ」
と古泉は嬉しそうに笑った。
「これから、よろしくお願いします」
「……こちらこそ、よろしく」
今更こんなことを言うのも妙な気分だったが、そう言っておいた。

適当な時間に昼飯を食べ、夕方まで古泉の部屋で時間を潰すことになった。
相変わらず、物の少ない部屋だが、これから俺のものを運び込むなら丁度いいだろう。
「夢みたいですね。あなたと一緒に暮らせるなんて」
現実なんだからちゃんと考えろよ。
料理をお前に任せるような度胸は俺にはないが、掃除くらい任せてもいいのか?
「ええ、任せてください。洗濯も、一人暮らしが長いですから出来ますし」
それはありがたいな。
問題は家具か。
「一通りはありますし、余裕もありますけど……何か買い足します?」
「タンスは確実にいるだろ。後は、ベッドをどうしようかと思ってな」
「ベッドですか」
「家から持ってくるのも大変だし、そもそもふたつベッドを並べるのも場所をとるだろ。お前のベッドも大分スプリングが弱ってるみたいだし。いっそのこと、大きいのを買って一緒に寝るか、それともいっそ布団で寝るかどうかしないか?」
「……一緒に寝るって、それ、僕を誘ってんですか。それとも僕の理性を試してるんですか?」
「端的に言うと後者だ」
俺は我ながら悪辣だと思うような笑みを浮かべて、古泉の胸を軽く小突き、
「俺の心の準備も出来てないってのにいきなり襲いかかってくるような野獣じゃないって信じてるぞ?」
「まるで拷問ですね。でもまあ、あなたと一緒に寝るのも初めてのことではありませんし、耐えられるでしょう」
それで、と古泉は油断のならない笑みを浮かべ、
「どうしてわざわざそんなことを仰るんです? 何か意図があるように感じましたが」
勘のよさは相変わらずと言うべきか、それとも、電波の受信状況は良好とでも表現すべきなんだろうか。
俺が考えていることなど筒抜けらしい。
「お前とは、これまでも友人として付き合ってきただろ? それも、かなり行き過ぎた友情で」
「そうですねぇ。普通、友人同士で抱き合って寝たり、抱きしめたりなんてしないでしょうしね」
「だから、これから明確に変わるって事を意識しないと、あの約束の意味がなくなる気がするんだよ」
そのために今日は会社を休んでお前といるし、その他にもやるべきことが山積になっちまった。
「お前と暮らすってのもそのひとつだし、一緒に暮らすなら、ただのルームメイト状態みたいな同居じゃなくて、同棲なんだって意識した方がいいだろ」
「仰る通りですね。でも、」
と古泉は俺の顔を心配そうにのぞきこみ、
「無理はしないでくださいね?」
「無理なんかしてねえよ」
俺も楽しんでる。
これから古泉との関係がどう変わるのか、それにさえわくわくしていると言ってもいいだろう。
「お前も、遠慮なんかやめろよ」
「…そうですね。では」
と言った古泉が俺を抱きしめる。
暖かい体温を、頭より先に体が、自分に馴染んだものだと感じる。
「あなたが好きです」
知ってる。
「それでも言いたいんだから、言わせてください」
摺り寄せられた頭が、俺の頬をくすぐった。
「恋愛感情で、僕はあなたを好きになりました。あなたに僕と同じようになって欲しいとは言いません。願ってはいますけど、だからと言って強制はしたくないんです。そうなってもらえるよう、努力しますから、だから、」
「逃げたりしないで向き合ってくれって言うんだろ? 分かってる」
ぎゅうっと、抱きしめてくる腕に力が込められる。
スーツが皺になるぞ。
そうなったらアイロンは古泉に掛けさせよう。
「愛してます。あなたのことが、何よりも大切で、大事で、……大好きです」
それは、俺に言っているというよりもむしろ、そうやって口にしなければ耐えられないほど溜め込んできた思いを吐き出しているんだろう。
俺はよしよしと古泉を撫でてやりながら、
「俺も、お前が好きだぞ」
と答えた。
その形も名前も、未だに計りかねてはいるのだが、それでも、古泉を好きだと思う気持ちに嘘や偽りはない。
胸を高鳴らせるばかりが恋愛でなく、こんな風に落ち着いた恋愛もあるのだとしたら、俺の抱いている思いも、古泉と同じそれなのかもしれない。

夕方、待ち合わせの時間に間に合うように、俺と古泉は部屋を出た。
待ち合わせ場所はやはり駅前の広場だ。
俺が姿を見せるなり、
「おっそーい!」
と笑顔で言ったハルヒは相変わらずとしか言いようがない。
その隣りにたたずむ朝比奈さんは、大人の女性としてしっかり成長しており、眼福と言ってもいいだろうお姿だ。
長門は、背も余り伸びなかったが、それでも表情が現れるようになっており、今も面白がるような、少し残念がるような、複雑な表情をしていた。
「お待たせしてすみません」
と言う古泉に、ハルヒは、
「どうせキョンがぐずぐずしてたんでしょ」
と言い、長門が苦笑交じりにフォローを入れた。
「言うほど待ってないから気にしないで。私たちもさっき来たところ」
「そんなことより、キョン、古泉くん、わざわざあたしたちを呼びつけて報告したいことって何なの?」
質問の形を取ってはいるが、ハルヒも予想はついているのだろう。
ニヤニヤと面白がるような笑みを浮かべている。
どう答えたものかと戸惑っている古泉に代わって、俺が言う。
「それを話すためにわざわざ店まで予約してあるんだ。話はそっちでしよう」
「それもそうね。当然、キョンのおごりよね?」
「俺と古泉のな」
そうして俺たちは駅からそう遠くない店に入った。
居酒屋とレストランの中間のようなその店を選んだのは、個室があるからだ。
とりあえず、とめいめい酒を頼み、それが届いたところで、ハルヒが乾杯をしようとした。
それを、
「ちょっと待ってくれ」
と俺が止める。
「どうしたの? キョン」
「これから話すことが、乾杯に相応しいかどうか分からんからな」
「何よ、さっさと言ったら?」
俺は古泉に目配せをした。
最終確認だ。
古泉が小さく頷いたのを見て、俺は言った。
「古泉と、恋人として付き合うことになった」
俺としてはそう一大決心を伝えたのだが、ハルヒのリアクションは、
「……はぁ!? あんたたちまだ付き合ってなかったの!?」
というもので、それも、個室である意味がなくなるくらいの大音声だった。
俺は顔を顰めつつ、
「まだってのはなんだ、まだってのは」
「だって、てっきりとっくに付き合ってるもんだとばかり思ってたのよ。やっとあたしに報告する気になったのかと思ったのに、まさかまだだったなんて……」
「約束があったからな」
「約束って何よ?」
俺は簡単にそれに答え、ハルヒは呆れきった顔で言った。
「あんたも妙なことしたのね。古泉くんも、」
とこれはむしろ同情するように、
「よく我慢したわね」
「…ええ、まあ……」
と古泉は苦笑するしかないらしい。
それへ拍車をかけるように、長門がぽそりと、
「一樹がお兄さんに勝てるはずがない。よって、約束を守るしかなかった」
「まあ、それもそうかもね…」
ハルヒが平然と同意していることから分かるかとは思うが、もう随分前から、俺も長門も人前で古泉を一樹と呼び、長門と古泉も俺をお兄さんと呼ぶようになっていた。
最初こそ驚いていたハルヒだったが、長門と古泉に身内がいないような状況だと知っていたからか、特に咎めることもなかった。
俺と古泉が付き合ってると思っていたのは、もしかすると、そうやって一樹と呼んでいたせいかも知れないな。
「それで、」
とハルヒは氷が溶け出してきているチューハイのグラスを揺らしながら言った。
「いつになったら乾杯出来るわけ?」
「すまん、好きにしてくれ」
「それじゃあっ、」
ハルヒはニッといい笑顔を浮かべ、
「古泉くんの我慢強さを称え、古泉くんとキョンの幸せを祈って、かんぱーいっ!」
なんだそれは、と突っ込むことさえはばかられるくらい、歓迎ムードたっぷりに、乾杯されちまった。
朝比奈さんまで、
「本当に、こうなるまで長かったですね」
と笑われ、しかも、
「お幸せに」
と笑顔で祝福までされてしまった。
嬉しいんだか、照れくさいんだか分からなくなる。
長門は長門で、冗談なんだか本気なんだか分からないが、
「……弟がお兄さんと結婚した場合、弟をお義兄さんと呼ぶべき?」
と聞いてくるし、ハルヒはハルヒでワルノリして、
「よっし、キョン! 古泉くん! 一発キスでもしなさい! そうしたらここで人前式ってことにしてあげるわ」
「断る」
「何よ、キスくらいしてんじゃないの?」
「しとらん」
真っ正直に答えると、ハルヒが呆れきった、なんとも言えないような顔をした。
給食で嫌いなおかずをたっぷりつがれた子供のような、嫌そうな顔だ。
「それで付き合うってどうなのよ」
「うるさい。これから、なんだろ」
多分。
それに、ちゃんと一緒に住むつもりでいるんだからそう責めるな。
「十年以上も待たせたんだから、それくらい当然よ。特にあんたは友情と恋愛感情の線引きも曖昧なんだから、そうやって意識的に区別しなきゃ、絶対途中でまた分からなくなるわよ」
そう思って同棲を申し出たんだが、ハルヒに言われると妙な気分だな。
同じ思考回路をしてるということだろうかと思うと複雑だ。
む、と考え込んだ俺から視線を外したハルヒは、古泉に、
「で、古泉くん、結婚祝いは、ローションとコンドーム、どっちがいい?」
と聞いて、古泉を真っ赤にさせていた。
古泉はそういう話に免疫がないんだからあんまりいじめてやるなよ、ハルヒ。

食事を終えてすぐ解散したのは、まだ行くべきところがあったからだ。
俺の家に行って、ちゃんと挨拶をすると古泉が言って、どうしても譲らなかったからな。
俺としても、古泉と一緒に住む以上、話をしなきゃならんとは思っていたが、それにしたってどんなリアクションが返って来るかと考えると気が重い。
――と、思っていたのだが、
「キョンくんといっちゃんってまだ付き合ってなかったの?」
どこかで聞いたようなセリフを妹に言われ、お袋まで唖然としていた。
付き合ってると思われてたわけか。
おかげで話がスムーズに進んだのはありがたいが、それにしたって素直に喜べない俺は別に異常でもなんでもないだろう。
その上、
「これでもう泊まってくこともなくなっちゃうんだから」
という妹の言で、古泉を泊めることになった。
それは別に特別珍しいことでもなく、俺のベッドでぎゅうぎゅうと狭苦しく寝るのもありふれたことだ。
それでも古泉は嬉しそうに笑いながら、
「いいご家族ですね」
「まあな」
あの順応性の高さはどうかと思うが。
「本当に、ほっとしました。僕とのことで、ご家族とうまく行かなくなるのではと、それだけが心配だったものですから」
見ての通り、特にこだわりもなく、世間体も気にしない家でな。
それに、俺とお前がつるんでるのを見ても、今更誰も何も思わんだろ。
それよりも、俺には気にかかっていることがあるんだが。
「なんでしょうか」
「俺には、お前の両親に挨拶させてもらえないのか?」
古泉の表情が強張った。
「それは……」
「お前とお前の両親がうまく行ってないのは分かる。全然連絡も取ってないってこともな。それでも、――ちゃんとしておきたいんだってこと、お前なら分かるよな」
「……そうですね」
「すぐには無理でも、いつか、会わせてくれ」
そう言って笑いかけると、古泉も、いくらか力ないものではあったものの、笑みを浮かべた。
「あなたが好きです」
くすぐったくなるような声で囁かれる。
「あなたのことを、何よりも愛してます」
答える代わりに抱きしめてやると、俺の背にも腕が回された。
そのまましばらくじっとしていると、眠くなってきた。
このまま寝てしまおうかと思っていると、古泉がやけに真剣な顔で俺の顔をのぞきこんで来た。
「あの…」
なんだ?
「……キス、してもいいですか…?」
怖がっているような、震える声で問われ、思わず笑った。
「な、何で笑うんですか」
「いや…可愛いなぁと思って」
俺の言葉に不貞腐れるのも可愛い。
「恋人なんだから、キスくらい好きにしろよ」
ほら、と目を閉じてやると、くすぐったい気分になるほど柔らかなものが唇に触れた。
それが離れていくのと同時に目を開け、呟いた。
「なんだ、わざわざ聞いてくるくらいだから舌くらい入れてくるかと思ったのに」
「なっ…」
驚きに声を上げた古泉は、すぐに恨みがましい目になると、
「して、よかったんですか」
どうだろう。
流石に舌まで入れられたら嫌悪感が先に立ったかもしれないな。
俺が言うと古泉は小さくため息を吐き、
「今更急いだって同じでしょうから、ゆっくりでいいんです。あなたに嫌われたくありませんし、それに、」
と古泉は触れるだけのキスをし、
「こうして抱き合って、キスをして、――それだけでも結構満たされてるんです」
はにかむように笑った古泉には、一応の同意を示しておいた。

翌日、たまたま俺がいる時に届いた、あの胡蝶蘭の鉢を見つめながら、古泉が言った。
「ねえ、多分あなたは知らないんでしょうね」
「何をだ」
「胡蝶蘭の花言葉です」
知らんな。
「…あなたを愛します、って言うんだそうです」
……それはつまり何か。
お前がわざわざ胡蝶蘭を俺に寄越したのはそういう意味だったのか。
「僕なりの気持ちの表現だったんですけど」
じゃああの花屋でお前にと胡蝶蘭を買った俺もとんだ大恥をかいたことになるな。
恥ずかしいことこの上ない。
赤くなった俺に、古泉は楽しげに笑い、
「僕を、愛してくれますか?」
「……だからこうやって引っ越しの準備に来てんだろうが、ばか」
と毒づきながら、軽くキスをした。



「……という夢を見たんだが」
俺が言うと、青くなったり赤くなったりしながら俺の話を聞いていた古泉は、すっかり疲れきった表情で、
「それを僕に話すのは何でなんですか。僕にどういうリアクションを求めてるんです?」
「いや、どう思うかと思ってな」
古泉は少し考え込んだ後、照れくさそうに言った。
「……嬉しいですよ。夢に見るくらい、真剣に考えてくださってるってことでしょう?」
「あるいは、俺がそれを望んでるってことだろうな」
「ぶっ」
古泉は、らしくもなく吹き出した。
口に何も含んでいなくてよかった。
そうじゃなかったらもろに直撃コースだったぞ、今のは。
「あ、あ、あ、あなたがそんなことを言うからでしょう!?」
それだけで顔を赤くしている古泉は可愛い。
俺はにやにやと笑いながら、
「十年後が楽しみだな」
と言ってやった。

まあ、実際そんなことになったら、許すのはキスまでの気がするが。