今日、どうやらハルヒは来ないようだった。 いつも思うんだが、あいつはこういう時、ひとりでどこを飛び回ってるんだろうな。 古泉に聞けばおそらく分かるんだろうが、聞いたところで胃痛の素が増えるだけだろうからやめておく。 知らぬが仏と言う言葉もあるしな。 その古泉はというと、いよいよストレスが蓄積しているらしく、顔色さえ目に見えて悪くなっているようだった。 対する長門は、俺が何を考えているか分かっているのか、いつも通りでありながらどこか違った。 なんと言えばいいんだろうな。 俺がやり過ぎないか心配しているような、古泉を案じるような、そんな感じだ。 もっとも長門の表情はいつも通りの無表情で、変化などないのだが。 いつも通りといえば、古泉も一応は平静を保っていた。 少なくとも、SOS団以外の人間にはいつも通りに見えただろう。 だが昨日は顔を出したハルヒが、 「古泉くん何かあったの?」 と聞いていたことや、さっき朝比奈さんが、 「疲れている時に効くお茶なんです」 と言いながら古泉にお茶を勧めていたところからして、俺以外にも古泉の変調は見て取れるようになっているようだった。 このままで行くと、古泉の作り笑いと素の笑いの違いをふたりが見分けられるようになる日も遠くはないだろう。 そう思いながら、なんとなく面白くないと思った。 いや、古泉のことを考えるならそれはむしろいいことなんだろう。 流石にハルヒ相手では無理であっても、朝比奈さんや長門に対して、俺にするのと同じように接するようになれば、多少は肩の力も抜けるに違いない。 だが、そうなるということはつまり、古泉の素の表情ややけに可愛い仕草やなんかを俺が独占出来なくなるということで、それは以前思っていた以上につまらないことのようだ。 しかし、俺としてもいつまでも古泉を可愛がっているわけにもいかないだろうから、自分に対する訓練としても、古泉と長門の関係を友好的なものに変える必要があるな。 よし、と腹を決めた俺は、古泉とやっていたオセロの手を止めて、長門の方を向き、 「長門、今度の土曜は暇か?」 長門の返事は肯定の頷き、古泉の反応は硬直だった。 「それなら、どこかに出かけないか? もちろん、お前がよければだが」 「出かける。…ありがとう」 長門にしては大盤振る舞いだろう。 俺は思わず目を細めつつ、 「その時、何かして欲しいことでもあったら言えよ? 俺に出来ることであればなんだってするからな。何しろ、お前にはいつも世話になって――」 ガタン、と音がした。 音のした方を見ると、すでに古泉の姿はなく、続いてドアの閉まる音がした。 荒い足音が遠ざかっていく。 内心でぺろりと舌を出した俺に、朝比奈さんは慌てながら、 「い、いいんですか、キョンくん…」 「放っておくのはまずいでしょうね。追いかけますよ」 と俺は立ち上がった。 同時に、長門が立ち上がる。 どこか怒っているような、呆れているような気配。 ――まずったか? 「長門、悪かったな。お前を出汁に使って」 先回りをして謝ると、長門は首を振った。 「私のことはいい。問題は彼」 その言葉に俺は軽く目を見張る。 先日朝比奈さんがしていた推測はどうやら当たっていたらしい。 長門は本気で古泉を心配している。 「彼を追いかける前に聞いて。私の望みを」 「望み?」 そりゃあいくらだって聞いてやるが、俺にどうにか出来るような望みにしてくれよ。 「おそらく、あなたにしか出来ない」 そう言って長門はその「望み」を口にした。 側で聞いていた朝比奈さんはもとより、色々な出来事に遭遇したせいでちょっとやそっとでは驚かなくなっていたはずの俺さえ、しばらく開いた口がふさがらなかった。 まさか長門がそんなことを言うとは思わなかったのだ。 「…本当に、そんなことでいいのか?」 「そう。……もう行った方がいい。彼も、限界。そして、」 と長門はどこか剣呑な色を帯びた目で俺を見つめ、 「彼に何かあったら、あなたでも許さない」 「…分かった」 まるきり脅されているようなものだというのに、俺は思わず笑みを浮かべた。 そのまま長門の頭を軽くぽんと撫で、 「じゃ、行ってくる」 「私も後で行く」 「ああ、待ってる。…それじゃあ朝比奈さん、ちょっと行ってきます」 朝比奈さんはまだ立ち直れることが出来ていないご様子だったが、 「え、ええ、行ってらっしゃい…」 と困惑気味に手を振って見送ってくださった。 古泉は何も持たずに部室を飛び出していた。 だから多分、校外に出てはいないだろう。 校内で、ひとりになれるような場所で、膝を抱えて泣いてるんだろうな。 その様子を思い浮かべたせいで、ついつい笑みを浮かべかけ、慌てて引っ込めた。 流石の古泉でも泣いている時に笑顔で近づかれたりした日にゃあ首を吊るくらいしかねないだろう。 さて、特に考えをめぐらせることもなく屋上にまで上がってきたが、これで古泉が単純なのかどうか分かるところだな。 ドアを開けるとすぐに古泉の姿が見えた。 はい、単純で決定。 「古泉」 俺が声を掛けると、古泉の背中がびくりと震えた。 屋上の床ってのはとても綺麗とは言いかねる状態なんだが、古泉に制服の汚れを気にする余裕などないらしい。 ぺたりと座り込んで、膝を抱えて泣いていた。 予想通り過ぎるぞ、と思いつつ、俺は古泉の隣りに腰を下ろし、その頭に手を置いた。 「どうしたんだ?」 「どうしたも…っ、こうしたも、ないですよ…!」 俺を睨む古泉の目からはぼろぼろと涙が零れ落ちていく。 とても俺と同年代の男が流してるとは思えないくらい、綺麗な涙だ。 それは多分、素の古泉が小さな子供のように純粋なままだからなんだろう。 俺は苦笑を浮かべつつ、 「全く……泣くほどのことかよ」 ただ単に長門と出かけるって話をしただけだろ。 「だ、って、つまりは…」 ひっく、としゃくり上げる声がした。 「僕より、っ、長門、さんの…方が、いいって、っく、ことでしょう…?」 嗚咽塗れの言葉に、俺は呆れた。 「何でそうなるんだよ」 いくらなんでもそこまで飛躍するとは思わなかったぞ。 「べ、つに、いいん、です。…僕、だって、いつまでも…っあなたと、一緒に、いられるなんて、うっ、思ってません、でした、から…っ」 古泉の白い手が、顔を覆い隠す。 情けないほどぼろ泣きしてるのにそれが見苦しくないってのは、顔のいい奴は本当に得だな。 それとも、俺の感覚の方が狂っちまってるんだろうか。 「長門さん、なら、…涼宮さんもっ、認めて、ひっく、くれると、おもいますし…」 「ちょっと待て」 俺は慌てて言った。 飛躍しすぎだ。 ちょっと落ち着け。 「ふ、え…?」 「ハルヒがどうのってのはどういう意味だ。まさかとは思うが、お前、俺と長門が付き合うとでも思ったのか?」 「違うん、ですか…? だって、あなたは、ただの、ガールフレンドを、……デートに、誘ったりはしない人…でしょう…?」 涙に濡れた瞳が俺を見つめてくる。 俺はがくっと脱力しながらため息を吐いた。 「デートじゃねえよ。それに、長門が俺に友情以上の何かを感じてるはずがないだろ」 「それは…そうかも、しれませんけど、でも、友情なんて、いつ、愛情に変わるか、分かりませんよ……」 ――僕だって、自分の感情が本当に友情なのか分からなくて、持て余しているくらいですから。 古泉はそう口にした。 泣きながら言ったせいではっきりとはしなかったが、そう言ったことに間違いはない。 そんなことを思っているだろうと予想してはいたが、この臆病な奴が面と向かって俺にそれを言うとは思わなかったので、正直言って驚かされた。 俺が驚いたからか、一時収まりかかっていたはずの古泉の涙が、再びボロボロと零れだす。 表情も、傷ついた子供のようなそれで。 全く不自由な奴だな、と思いながら俺は古泉の肩を抱き、口を開いた。 「じゃあ聞くが、お前、俺をどうにかしたいとか思ってんのか?」 「どうにか、って…」 「どうにかって言ったらどうにかだ。頼むから察してくれ」 しかし古泉はきょとんとしている。 そんな表情も可愛いんだが、こういう時にされても困る。 純な子供にイケナイことを教えてるような気分になるだろうが。 俺は赤くなってきた顔を背けながら、 「つまりだな、あー……俺を、性的な対象として見たりしてんのかってことだ」 俺が言うと、古泉は俺以上に顔を真っ赤に染め、 「そっ、そそそ、そんなまさか!」 ぎょっとしたように言った古泉の言葉に嘘はない。 というか、もしそんな風に見てたとしたらそんなものはさっさと俺に伝わって、俺はとっくの昔に古泉に見切りを付けていたことだろう。 だから俺は、 「だろうな」 と笑い、 「それなら、恋愛感情じゃないんだろ」 と保証してやった。 それでも、何が不満なのか古泉は、 「……プラトニックラブなのかもしれませんよ…」 いじけたように言う古泉の頭をもう一度撫でてやる。 「じゃあ、約束しておいてやるよ」 「約束、ですか?」 「卒業しても、十年経っても、俺にもお前にも他に好きな相手が出来なかったら、これは友情じゃなくて恋愛感情なんだってことにしちまって、付き合ってやる」 俺が言うと、古泉は唖然として俺を見た。 驚きの余り涙さえ止まっている。 信じられない、と唇だけが動いた。 俺は古泉の髪をくしゃくしゃと掻き混ぜながら、 「十年もあれば、十分だろ。それまでは友人として以上の接触や束縛はなしで、好きな相手が出来たらさっさと白状すること。お互いへの妨害もなし。お前に好きな相手が出来ようが、俺に好きな相手が出来ようが、文句は言わない。条件はそんなもんでいいよな?」 「…本当に、本気ですか……?」 「こんなことを冗談で言えると思うか?」 これでも最大限譲歩したつもりだぞ。 「だって、あなた、ホモじゃないってずっと言って……」 「プラトニックラブって言うんだったら、今の状況とどう違うんだ? どこかが違うとしても、多少精神の持ちようが違うだけだろ。それなら嫌がる必要はない。もし途中で約束が嫌になったとしても、その時は別に好きな相手を作ればいいだけだから、かなりいい加減で、どうとでもなるような内容だぞ」 「それでも、あなたからそんなことを言い出すなんて思いもしませんでした」 俺も自分の豪胆さに結構驚いている。 だが、まあ、それくらいにはお前を気に入ってるってことだろうな。 「……ありがとうございます」 と笑った古泉の目から涙が零れた。 嬉し涙と分かっているからこそ、それがやけにくすぐったい。 「それで? 他に付け加えたい条件や修正事項はあるか?」 「そうですね…」 古泉は少し考え込み、 「約束を破棄したくなったら直接言うことにしませんか? わざわざ他に好きな人間を探すまでもなく、そう言ってくだされば僕は諦めますよ」 「俺が諦められないかもしれないぞ?」 軽い調子で言ってやると、古泉は小さく声を上げて笑った。 「嬉しいことを言ってくださいますね。では、あなたの言ったままの条件にしておきましょう」 「調印書はお前が作れよ。古泉幕僚総長」 懐かしいネタですね、と笑いながら古泉は、 「かしこまりました」 と請け負った。 俺はうまく行ったことにほっとしながら付け足す。 「それから、気付いてないようだから言ってやるがな」 「はい?」 「約束の期限は十年後だ。その時までちゃんと俺の友人でいろよ」 勝手に俺たちの前から消えたり、死んだり、記憶喪失になったりせずに、今のままのお前で。 そう言うと古泉は一瞬困ったような顔をしたものの、次の瞬間には明るい笑みを浮かべ、 「分かりました。あなたからこんなにも譲歩してくださったのに、それを反故にするわけにはいきませんからな」 「全くだ」 まあこれで、SOS団で最も死にそうな奴を繋ぎとめておくための約束がひとつ出来たわけだ。 これもまた収穫のひとつだな。 …っと、などと言って満足している場合じゃなかったな。 古泉の機嫌が直ったのでうっかりと忘れそうになっていたが、長門のことについても話さなければならん。 俺は改めて古泉に向き直ると、 「長門のことだがな」 と口を開いた。 それだけでぴくりと古泉の眉が動く。 そう嫌悪するような話でもないんだから大人しく聞けよ。 それに、眉間に皺を寄せるのは俺の役目だろ。 古泉の眉間に刻まれた皺をつつきながら、俺は言った。 「あいつの友情が愛情に変わるとしたら、その矛先は俺じゃなくてお前だと思うぞ」 「……は?」 理解出来ないと白状するような表情は、古泉にしては珍しいもので、俺はニヤニヤ笑いながら、 「ここに来る前に、長門に言われたことを教えてやろうか」 「はぁ、是非…」 「ひとつは、お前に何かあったら俺でも許さない、と怒ったように言われた」 「怒ったように…って……あの長門さんが、それもあなたに向かってですか!?」 信じられない気持ちは分かるが、事実だ。 「お前のどこが気に入ったのか知らないが、長門がお前を気に入ってるのは間違いないな。それから、もうひとつ」 「もう既に僕の頭はオーバーヒート寸前なんですけど…」 そう言わずに聞け。 「長門が俺にして欲しいこと、というか、長門の望みだな。それは、」 俺は古泉がどんな顔をするか見てやりたくて、その顔をじっと覗き込みながら言った。 「俺とお前と一緒にいさせて欲しいってことだそうだ」 「……え」 「要するに、俺とお前が遊んだりなんだかんだしてる時に自分も混ぜろということらしいぞ」 古泉は額を押さえて黙り込んだ。 頭がくらくらする気持ちはよく分かる。 俺だって未だに半信半疑だからな。 早く古泉を追いかけるという目的がなかったら、俺も、かなり長いこと理解に苦しんだに違いない。 そう思った時、 「その表現は適切でない」 と長門の声がした。 振り返ると、いつの間に来たのか、長門が立っていた。 驚く古泉の隣りにゆっくりとしゃがみこんだ長門は、古泉ではなく俺を見ながら、 「より正確に言うなら、私も彼を可愛がりたいということ」 ――。 世界が停止する瞬間を見た気持ちだ。 長門が古泉を可愛がりたいって? いやまあなんとなくそうじゃないかとは思っていたが、それにしたってこうストレートに言うとは思わなかった。 古泉なんか、呆然としたまま固まっている。 それにトドメを刺すわけじゃないだろうが、長門は更に付け足した。 「それから、彼と同じように、あなたに可愛がられたいということ」 朝比奈さんの予想はこれまた大当たりだったらしい。 それにしたって、この破壊力はなんだろうな。 長門が可愛いからなのか、それともその発言内容のせいなのか、俺には正直量りかねる。 完全にフリーズ状態に陥っている哀れな古泉は、停止させた活動を無事再開出来るんだろうか。 現実逃避のようにそんなことを考える俺に向かって、長門は愛らしく小首を傾げ、 「…だめ?」 と言った。 可愛い、と思った俺が正常であることは、古泉を可愛いと思うと白状した時よりも、ずっと大多数の人間に認められるに違いない。 「ダメなはずがないだろう」 言いながら俺は体を移動させ、長門の頭を撫でてやった。 「古泉も、いいよな?」 俺が問い、やっと正気に返った古泉は、 「え、ええ、構いませんけど……」 長門はじっと古泉を見つめ、 「けど?」 「…本当に、そんなことを思っていたんですか? 先日、彼の隣りで眠っていた時も…?」 「ああしていればあなたが来ることは予想が出来た」 「えぇと……つまり、僕を待ってたんですか?」 こくん、と長門が頷いた。 俺に対して頷く時よりも動作が大きいのは、古泉が読み取りやすいようにだろう。 長門がここまで気遣いが出来るようになっていたとは。 何やら感慨深い気持ちになる俺を前にふたりは、なんとも言えず微笑ましいやりとりを繰り広げた。 長門は申し訳無さそうに視線を伏せつつ、 「人の感情の変化を予測することは難しい。結果としてあなたに誤解を生じさせてしまったことについては謝罪する。…ごめんなさい」 「い、いえ…僕の方こそ……恥ずかしい誤解を…」 「あなたたちがふたりでいる時にいつも一緒にいたいとは言わない。ただ、時々でいいから、私も混ぜて」 控え目な長門の言葉に俺は笑みを深め、 「時々と言わず、いつでもいいぞ。ただし、こいつが嫉妬と独占欲の余り逆上しない範囲って条件がつくが」 と言ってやった。 こいつ、と俺に小突かれた古泉は、ぼんっと音がしたかと思うほど一気に赤くなり、 「ななな、何言い出すんですかあなたは!」 以前夜中に泣きついてきたことを忘れたとは言わせねえぞ。 「それはっ……、そうですけど……でも…」 小さくなった古泉の頭を、俺ではなく、長門が撫でる。 長門はかすかに厳しい色をした目で俺を見つめ、 「いじめては、だめ」 俺と古泉はふたり揃って目を瞬かせたが、その後信じられないと言わんばかりにまじまじと長門を見ている古泉とは違い、俺はすぐににやりと笑って、 「いじめてんじゃなくて、これも一種のコミュニケーションってやつだ」 と言っておいた。 その後の協議の結果、俺たちは、俺が長門の兄代わり、古泉が弟代わりとなるようなことを決め、他人がいない時には「お兄さん」だの「お姉さん」だのと呼ぶことになった。 要するに古泉との兄弟ごっこに長門が混ざったということだな。 長門が古泉の姉ポジションに落ち着くまで、古泉はその弁舌によっていささかの抵抗を試みたのだが、賛成二、反対一であえなく可決されたことも付け足しておく。 |