お兄さんが来ないな、と僕は室内を見回した。 そろそろ来てもいいと思うのだが、一向にその気配がない。 この天気のよさからすると、どこかで昼寝でもしているのかもしれないな。 僕は椅子から立ち上がると、 「ちょっと彼を探しに行ってきますね」 と朝比奈さんに言い残して部室を出る。 朝比奈さんをひとりにしてしまうことになるが、問題はないだろう。 朝比奈さんも、ふわふわと頼り無さそうな外見にしては、しっかりした女性のはずだから。 「いってらっしゃい」 と手を振るのへ軽く会釈を返しておいた。 さて、お兄さんがいそうな場所というと――と僕は考える。 それだけでなんとなく分かるのも不思議だが、お互い様だからいいということにしておこう。 僕はグラウンド近くの草むらへ向かい、そこにお兄さんの姿を発見して驚いた。 いや、お兄さんを見つけたのは驚くべきことでもなんでもないだろう。 驚いたのは、その隣りで眠る長門さんの姿を見つけたからだ。 ふたりの距離は近すぎもせず、遠すぎもしない。 丁度、布団を二つ並べて敷き、それぞれに寝たのと同じような距離感、といえば分かるだろうか。 お兄さんは頭の後ろで腕を組み、仰向けに眠っていた。 長門さんは、お兄さんの方を向くように、横向きで。 胃の辺りがムカついてくる。 お兄さんの隣りは僕の場所なのに、と根拠もなく思ってしまう。 退いてください、と言ってやりたくなるのを、ぐっと唇を噛み、堪える。 そうしてそのまま、お兄さんの隣りにどかりと座った。 粗雑過ぎる動作が「古泉一樹」らしくないと思っても、どうしようもない。 怒鳴り出さないだけまだマシだ。 ムカムカしながら草をむしり取り、粉々に引き千切った。 すると、彼女が目を開き、体を起こした。 ガラス玉のように透き通り、何もかもを見透かすような目が、僕を捉える。 「今日は、コンピュータ研に行っていたんじゃなかったんですね」 何か言っていなければ余計なことを考えてしまいそうで、僕はそう言った。 彼女は一応会話をするつもりがあるのか、かすかに頭を上下に振った。 「彼を見つけたから」 行くのをやめたというのだろうか。 ここは彼女のクラスから部室棟に行くまでの間に通るような場所ではないのだが、彼女については物理的な距離など無意味だと思うのであえてつっこんで聞くことはしないでおく。 「長門さん、あなたは――」 躊躇ったのは、それを確かめるのが怖かったからだ。 それでも聞かずにいられないのは、聞きたいと思った理由がただの好奇心ではないからだろう。 「…彼が、好きなんですか」 返事は、小さな頷きだった。 ぐらりと視界が揺らぎそうになるほど、ショックだった。 しかし彼女は妙な言葉を付け足した。 「あなたと、同じ意味で」 僕と同じ意味で彼が好き、というのはつまり恋愛感情ではないということなんだろうか。 しかし、僕自身、この感情が本当に恋愛感情でないのか、掴みかねているのに、どうしてそう言えるんだろう。 迷いのない彼女の目を見ていられなくなって、僕は顔を背けた。 同じ意味で、という以上、彼女は僕のこの感情が何か分かっているんだろう。 だとしたら、これをどうするのかも分かるのかもしれない。 それでも、聞きたくない、と思った。 それは、自分で解決したいとか、自分で考えたいとかいう高尚な理由ではなく、ただひたすらに、彼女に教えを請いたくなかったのだ。 これまで彼女に対して、僕はそうはっきりとした感情なんて抱いていなかった。 同情、連帯感、それからお兄さんに構われることへの羨望――そんなところだ。 けれど今は違う。 単純に彼女が妬ましかった。 今は僕と同じように友人として彼を好きでも――これだって仮定でしかないのだけれど――、彼女が女性である以上、恋愛感情に発展する可能性は高い。 でも僕では、そんなことはありえないのだ。 だから僕がお兄さんを独占することなんて不可能で、それどころか、お兄さんがいつか誰かのものになるのは分かっていたはずなのに。 それでも、胸が苦しい。 体の中に巣食った闇が、僕の黒い感情を糧にして際限なく広がっていくような気さえした。 こういう時こそお兄さんにすがりたいのに、長門さんがいる手前、そしてここが屋外であり、人目があるから、それも出来なくて、僕はただ、自分の体を抱きしめた。 そんなことで落ち着けるとは思わなかったけれど。 僕は結局、お兄さんが目を覚ますまでじっとそのままで、長門さんも同様だった。 僕たちがいたことにお兄さんは驚いていたけれど、怒りもせず、ただ笑って、さりげなく僕の頭を撫でてくれた。 「どうかしたのか? 古泉」 僕は黙って首を振った。 長門さんの前で弱みは見せたくない。 それに――お兄さんの、さりげない優しさが、今は一番痛かった。 この頃、古泉と長門の様子がどうもおかしい。 長門が古泉を意識しているのは間違いではないだろう。 ふと気がつくと古泉を見ているし、読書傾向も変わってきている。 どうも――古泉が好みそうな系統の本に。 単純にSFに飽きたのかもしれないが、おそらく古泉のことを知りたいと長門が思って行動しているのに間違いはないだろう。 これが普通の男女であれば、長門が古泉を好きなのかもしれないと思うところなのだが、あいにく、どちらも普通じゃない。 それに、古泉が妙に長門に対して刺々しいからな。 刺々しいどころか、敵意に似たものさえ抱いているように見えるが、俺にはその理由が分からない。 明らかに情緒不安定になっているくせに、古泉が俺を頼って来ない訳も。 ついに自立心が目覚めたのかとも、はじめは思ったのだが、それにしてはどうもおかしいと気がついた。 俺が古泉を案じれば案じるほど、古泉は傷つくような顔をするのだ。 まるで、何もかもに絶望したかのように。 いくらなんでもこれはまずいと思う。 思うんだが――どうすりゃいいんだろうな。 ふぅ、といつになく重いため息を吐くと、 「どうかしたんですか? キョンくん」 と朝比奈さんに声を掛けられた。 ちなみに今部室にいるのは俺と朝比奈さんだけだ。 ハルヒはまだ来ないし、古泉はバイトだと言ってさっさと帰っていき、長門はコンピ研に行っている。 「あたしでよければ相談に乗りますけど」 天使のような微笑みに縋りたくなった俺は、いたって正常だろう。 「……聞いてもらえますか?」 「あたしでよければ」 「是非お願いします」 朝比奈さんは俺の隣りに椅子を持って来ると、俺の方へ向き、優しく微笑んだ。 「うふ、キョンくんがあたしを頼ってくれるなんて、なんだか不思議」 「俺の方こそ、これから情けないことを言うんで恐縮なんですけど」 「気にしないで。あたしはそうやって頼ってもらえて嬉しいから」 そう本当に嬉しそうに微笑む彼女につられるように、俺もぎこちないんがら笑みを浮かべた。 「相談したいこと、なんですけど」 「はい」 「……最近の長門と古泉を見てて、どう思います?」 「長門さんと古泉くんですか? えぇっと、なんだかちょっと変ですよね。長門さんは古泉くんを気にしてるみたいですし、古泉くんはなんだか長門さんに冷たいし。何かあったのかなって、あたしも思ってたんです」 朝比奈さんにも分かるほど、あからさまだったらしい。 俺はため息を吐き、 「こういうと語弊がありますけど、古泉があそこまで感情的になるってことは7割方、俺のせいだと思うんです」 「あたしも、キョンくんと何かあったのかなと思ってました」 意見の一致をみて喜ぶべきなのか、それともそれについて何の疑問も持たれていないことを嘆くべきなのかと複雑な心境になるが、今はそんなことを言っている場合じゃないだろう。 諦めて話を続ける。 「ただ、俺には心当たりが何もないんです。それに、長門の方は何がどうなってるんだか全然見当もつかなくて……」 「本当に心当たりがないんですか?」 言われて考え込む。 古泉については最近虐めすぎたような気もしていたが、それに対する反応にしては遅すぎるだろう。 「多分、長門さんが古泉くんを意識するのも、キョンくんが古泉くんと仲良くしてるからだと思いますよ。長門さん、キョンくんのことが好きだから」 「……好き、ですか」 長門が? 俺を? 「多分、そうだと思います。好きっていうより、慕ってるって言うべきかも知れないですけど」 それならまだ分からないでもないが。 「それでも、心当たり、ありませんか? 長門さんと古泉くんについて」 長門と古泉……。 「あ」 俺が声を上げると、朝比奈さんが身を乗り出し、 「やっぱりあったのね」 「長門と古泉が一緒にいるところを見たんです」 数日前、俺が昼寝から目を覚ますと、両サイドに長門と古泉がいたのだ。 思えば、古泉がおかしくなったのはあれ以来だった。 俺が寝ている間に、ふたりに何かあったのかも知れない。 「多分、そうなんでしょうね」 朝比奈さんはそう言って、まるで何もかもを見透かす運命の女神のように微笑んだ。 「ふたりとも、キョンくんのことが大好きなんですね」 「は?」 「あたしじゃうまく言えないけど……多分、古泉くんは長門さんのことをライバル視してるんだと思うの。キョンくんを長門さんに取られるんじゃないかって、不安になってるんじゃないかな。でも長門さんは古泉くんのことを嫌いじゃなくて、むしろ好きなんじゃないかしら。ほら、キョンくんが古泉くんを構うでしょう? それを見てて、長門さんも古泉くんに興味を持ったんだと思うんです。だから、ちょっかいを掛けてるんじゃないかな」 長門が俺を慕っているというのも既に驚きなのだが、その長門が古泉を好きというのも理解しがたい。 「長門さんはキョンくんが思ってるほど機械的じゃないのよ」 たしなめるように言った朝比奈さんは、いつにもまして年上の風格を滲ませていた。 「キョンくんは古泉くんだけでも大変かもしれないけど、長門さんのことも甘やかしてあげてください。これはあたしからのアドバイスで、同時にあたしからのお願いでもあります」 朝比奈さんのお願いなら聞かないわけにはいかないだろう。 納得しきれないままとはいえ、一応頷いた俺に朝比奈さんは悪戯っぽく微笑み、 「でも、古泉くんにも気をつけてあげてくださいね?」 と念を押した。 その日、坂道を下りながら俺は考え込んだ。 古泉に懐かれて以来、時々ひとりで帰るだけでも、大抵はその時間を持て余してしまっていたのだが、こうやって考える時間に使える分、今日はマシだ。 その懸案事項はひとつ。 長門と古泉をどうするべきか、ということだ。 朝比奈さんの言う通り、長門が俺を慕っているとする。 それなら古泉がああして情緒不安定になるのも納得出来る。 長門に俺を取られてしまうかもしれない、というより、それによって俺といる時間が減らされたり、いつでも俺を頼れなくなるのが怖いんだろう。 同時に、長門という具体的な競争相手が生まれたことで、古泉自身が持て余している嫉妬心がまたぞろ増大しているんだろう。 そうでなければ、いつまでも俺とべたべたしてはいられないという現実を知ったのかもしれない。 …あるいはその両方か。 面倒な奴だな、と思う。 思うが、……同時にそこまで好かれて嬉しくもある。 初めて古泉に会った頃の俺は、今のように古泉が自分に懐いてくることなど予想だにしなかっただろう。 それどころか、古泉があんなふうに笑ったり、泣いたり、怒ったりするところを見るなんてことも、思ってもみなかったに違いない。 今の俺は古泉の色んな顔を知っていて、古泉がどんなことを好むかも、どんな風に考えるかも分かっている。 分かっているどころか、気に入ってさえいる。 取り澄ました古泉より、頼りなく、情緒不安定な子供のような古泉が。 だから今更あんな風にして離れていかれるのは嬉しくないどころか、心配の種にしかならない。 このままで大丈夫なのかと問い詰めたくなるくらいだ。 だが、普通に問い詰めたところであいつは白状しないだろう。 変なところで強情だからな。 いよいよダメになるというギリギリまで追い詰められなければ俺をに隠し通そうとすることはまず間違いない。 それならその状況を作ってやるか、と俺はため息を吐いた。 長門には悪いんだが、長門を利用させてもらおう。 その分、詫びはすると決めれば、思ったほどの覚悟は要らない。 しかし……長門が俺に甘えたいってのは本当なんだろうか。 そしてその甘えたいというのは、古泉と同じようにしたんでいいのか? そもそも、俺が古泉にしてやったことは、男女間でも可能なんだろうか。 古泉には何をしてやったっけ? 簡単なところなら、一緒にテレビゲームをしたり、遊びに行ったりってところか。 それを長門とする、と想像しかけて脳が拒否反応を起こした。 テレビゲームをする長門も、遊ぶ長門も想像出来ない。 一緒に昼寝をしたり、泣きたい時に好きなだけ泣かせてやるというのは更に無理だ。 だがこれは、長門が女子だからというよりも、長門だからだろう。 じゃあ、古泉がもし女だったら、と考える。 思い描くのは、いつだったかハルヒのせいで女になった時の古泉の姿だ。 長い髪に大きな胸、穏やかな笑みを湛えた整った顔立ち。 朝比奈さんと張るような美人だったっけな。 最初っから古泉がそうだったとしたら多分、俺は朝比奈さんに対するのと同じように腰が引けていたに違いない。 それくらい、女のあいつは美人だった。 そうであれば今のように親しくなどなっていなかっただろう。 あいつが男で何よりだ。 ……って俺は何を考えてたんだった? 閑話休題、話を元に戻そう。 別に、長門が甘えてきたいというのなら、甘やかしてやるくらい、俺は別に構わない。 そうすることで古泉と同じように、色々な長門が見れるなら尚更だ。 しかし、長門を甘やかすってどうすればいいんだ? あいつが喜びそうなことをしてやればいいんだろうが、どうすれば長門が喜ぶかなど俺には分からない。 唯一思いついたのは図書館に連れて行ってやることくらいだが、それだって、一人で行っても変わらんだろう。 はじめてふたりで図書館に行った時も、あいつは一人で黙々と本を読み、俺は椅子に座って寝てたくらいだからな。 まさか長門が古泉と同じように、俺の胸で泣きたいと思っているとは考えられない。 そこまで考えたところで、ひらめいた。 古泉を刺激し、かつ、長門を甘えさせてやれる準備になることだ。 俺は我ながら底意地の悪い笑みを浮かべた。 正直に言おう。 俺は古泉の泣き顔が結構好きなんだ。 そして俺は、古泉が思っているほどお人好しでもない。 最終的に古泉のためになるなら、鬼にだってなってやったっていいくらいには思ってもいるからな。 大義名分というのは素晴らしいものだと思いながら、俺はある意味物騒な計画を巡らせるのだった。 |