水族館というのもまた、日常の中における非日常の象徴のひとつではないだろうか。 普段なかなか覗き見ることのない水の中の世界を、さながらその中へ迷い込んだかのように過ごせるんだから、そう言ってもいいだろう。 特に最近は、トンネル状になった水槽など、工夫を凝らした物も多く、普通の水槽よりも魚の世界へ入り込んでいるように感じられるようになっているから、なおさらだ。 そうして俺もまた、ハルヒほどではないにしろ、日常の中の非日常というやつが結構好きな方なので、水族館というのは好きな場所のひとつな訳だ。 ただし、今日のように家族全員で、つまりは妹を連れてやってくると、魚になったような気分をゆっくり味わうことなど出来やしない。 妹ときたら、綺麗な魚を見ては声をあげ、魚だかイソギンチャクだかに触れるというコーナーに言っては悲鳴染みた歓声をあげ、あの恥ずかしいあだ名で俺を呼ぶ始末だからな。 ゆったりするなど到底無理な話だ。 水族館の入館料など安いものではないんだからもっとゆっくり見ていったところで罰は当たらないだろうに、結果として早足で回る破目になる。 妹を見失ったら、大事になるのは目に見えてるからな。 やれやれだ。 本当なら、もう少しのんびりと、日々ハルヒによって巻き起こされる騒動やら、宇宙人的未来人的超能力者的諸問題、ないしは古泉との友人関係における事件事故その他によって、疲労困憊した身体及び精神を休ませたいのだが、それを妹に愚痴ったところでどうしようもないのだろうな。 のびのびと水の中を泳ぐ魚が羨ましいぜ。 そう思いながら見つめた水槽の向こうに広がる青い世界に、思い浮かべたのは古泉のあの寂しそうでどこか弱々しい笑みだった。 あいつもこんな所へ来る余裕くらいはあるんだろうか。 こうして、癒しを求めたりするんだろうか。 古泉も、どちらかというと不思議なことや奇妙なことを好む傾向にある人間だからな。 水族館が嫌いということはないだろう。 今度来る時は誘ってやろう。 今日誘わなかったのは、機関の呼び出しだかなんだかで、今日は会えないということを一昨日の金曜から聞いていたからだ。 日曜日だってのに、あいつも忙しくて大変だな。 土産くらい買って帰ってやるか。 そんなことを思いながら目を向けた先に、スーツを着た長身の男の姿があった。 見覚えがあるなんてもんじゃない。 それは紛れもなく古泉だった。 あの薄い色をした髪も、嬉しくはないが抱きしめ慣れちまった体つきも、俺が見間違えるはずがない。 だが、それが古泉だと認めることを躊躇ってしまうほど、古泉は俺の知らない顔をしていた。 長門のそれよりもずっと感情の起伏を感じさせない、冷たくて静か過ぎる、作り物めいた顔。 ぼんやりと開かれただけの目の中に映し出すのは、魚の群れでもなければ水でさえないのだろう。 ただ、目の前にある水槽にむかって目を開いているだけだ。 駆け寄って抱きしめて、大丈夫だと言ってやりたい。 だがそれ以上に、古泉が遠かった。 古泉だけが周りの空間とはどこかずれた場所に切り離され、隔離されているようにさえ思えた。 周りの誰も、古泉を見ない。 古泉は周りの何物もその目に捉えない。 音も聞かず、何にも触れず、ただそこに在るだけの無機物のように立ち尽くしていた。 俺は唇を軽く噛み締め、古泉に背を向けて歩きだした。 妹が俺を探しに来て古泉に気付かないようにと願いながら、静かに、そっとその場から離れた。 その後も一応水族館内を歩き回ったが、俺が終始上の空でせっかくの楽しみをふいにしたことは言うまでもない。 家に帰っても落ち着けないまま、ベッドに仰向けに横たわった。 一人でいる時の古泉は、いつもあんな調子なんだろうか。 人形のように無感動で、周囲に溶け込めずにいるんだろうか。 だとしたらそれは、寂しく、哀しいことだ。 古泉にあんな顔をさせたくないと思う。 そのために俺に、何が出来るんだろうか。 他の友人を作れるようになれば、自然によくなるようにも思えるが、古泉にはまだそれは早いらしい。 寂しいと感じさせないために、俺が一緒にいてやればそれでいいのか? それは違うだろう。 俺がいなくてもあんな顔をさせたくないと思うのに、それじゃあ逆効果だからな。 他に何か……と考えても思いつかない。 俺は自分や他人が思っている以上に古泉のことを知らないでいたようだ。 古泉は俺に懐いてくるくせに、それでもやっぱり自分のことはあまり口にしない。 敬語を崩すことも滅多になく、笑顔以外の表情を見せることも、最近は多くなってきたとはいえ、まだそんなに多くはない。 縮んできたように思えても、まだ古泉との距離は広いままなんだと、今日のことで悟った。 つまらない、と思う。 あれだけ馴れ馴れしくしてくるくせに、まだ多くを見せない古泉に、苛立ちさえ感じる。 同時に、他人行儀なままでいる必要がある古泉を、少しでも喜ばせたい、嬉しがらせたいとも思う。 会えばいつもの笑顔を向けられることが、また寂しく感じられる。 しかしそれを口に出せば古泉を困らせるだけなんだろう。 俺に出来るのは、いつも通りにしてやることだけだ。 そんなことを思いながら眠りについた翌日、俺は珍しく廊下で顔を合わせた古泉に、 「よう」 と声を掛けた。 「こんにちは」 と律儀に頭を下げてくる古泉に俺は言う。 「明日、祝日で休みだな」 「ええ、そうですね」 「…暇か?」 「今のところ予定はありませんが」 「なら、どこか行くぞ。どこがいいか決めておけよ」 それだけ言って行き過ぎようとした俺の手を、古泉が掴んだ。 痛いぞ。 「すみません。――あの、それって、明日会うってことですよね」 他にどう聞こえたって言うんだ。 「いえ、あなたの方から誘ってくださるというのが珍しいものですから…」 そうでもないと思うんだがな。 「僕の方から声を掛けることが多いのは事実でしょう。それで、驚いただけです」 「俺の方から会いたいって言ってるんだ。ありがたく受けろよ」 意図的にそんな言い回しをしてやると、古泉がぽかんとした顔をしたので、俺は笑いながらその後頭部を軽く小突いてその場を離れた。 放課後になっても古泉はどうにも落ち着かない様子で、ただでさえ酷いチェスの腕が更に散々なことになっていた。 俺はそれを笑いながら、恥ずかしそうにしている古泉を見て、その方がずっといいと思っていた。 家に帰ってから電話で打ち合わせ、待ち合わせるのではなく、俺の家に古泉が迎えにくるということにした。 待ち合わせにすると古泉がばかみたいに長く待とうとすることは俺も分かっているからな。 それなら、迎えに来させるようにした方がよっぽどマシだろう。 『明日、熱を出したりしないでくださいね? 楽しみにしているんですから』 電話の向こうからそんなことを言われ、俺は首を傾げた。 「なんでそんなことを言われにゃならんのだ」 『だって、どう考えても今日のお兄さんは少しおかしいですよ』 ……そんなに言うなら今すぐ明日の予定を取りやめてやったところで俺は構わないんだが? 『それは勘弁してください』 と古泉が笑う気配がし、 『本気でないと分かっていても、傷つきます』 電話越しでも見抜かれるとはね。 俺は呆れつつ、そのまま少し会話を続け、電話を切った。 その後はもう特にすることもないので、大人しく寝たのはよかったんだが、体に染み付いた習慣というか、生活のリズムとか呼ばれるやつはなかなか変え難いものであるらしい。 俺はいつものようにうっかりと二度寝に突入し、俺に予定があることを知らなかった妹とお袋も寝続ける俺を放置した。 よって、結論。 「起きてください。朝ですよ」 と古泉に起こされた。 不覚だ、と思うと共に額を突つかれ、 「おはようございます」 と言われた。 何故か既視感を感じたが、多分気のせいだろう。 「…もう時間か…?」 「ええ。朝食を食べたら出かけましょう。それとも、外で食べますか?」 古泉の問いに対して俺は眠い頭でとんちんかんなことを言った。 「…おはよう、一樹」 古泉は照れたように笑いながら、 「おはようございます、お兄さん。まだ頭は眠ってるみたいですけど」 それから古泉に助け起こされて台所へ向かい、お袋にぶつぶつ言われながら飯を食った。 その頃には大分頭も覚醒してきたので、急いで支度を整える。 「待たせたな」 と言った時、古泉は妹と何やら遊んでいたようだが、 「いえ、大した時間じゃありませんし、遅れてはいけないということもないんですから、気にしないでください」 と立ち上がった。 「キョンくん、いっちゃん、いってらっしゃーい」 玄関先でそう言いながら手を振る妹に苦笑しながら手を振り返す。 妹にとっては古泉もすっかり身内になっているらしい。 「それで、どこに行きたいんだ?」 少しずつ店の増えてきた通りを歩きながら俺が問うと、古泉は困ったように笑いながら、 「本当に僕の行きたいところでいいんですか?」 昨日何度もそう言っただろ。 これ以上繰り返させるな。 俺は壊れたレコードでもなければ着ボイスでもない。 「すみません。なんとなく不安になるもので」 「何で不安になるんだか分からんな。単純に喜んでりゃいいだろ」 と言いはしたものの、古泉が不安になる理由はなんとなく分かった。 人間、慣れない状況には戸惑い、不安になるものだからな。 しかし、この程度で戸惑うっていうのはどうしたことだろうな。 俺も大概こいつを甘やかしすぎると思ってたんだが、それでも足りないってことなのか。 厄介なやつだな。 ため息を吐かないように気をつけながら、俺は古泉が行きたがっているのだろう店へ足を向けた。 当然、というかなんというか、それはボードゲームの置いてあるホビーショップなわけだが、古泉の健気さというか、素直さってのもなかなかのものだな。 たまたま出会い、話しただけの人間の発言をここまで忠実に行うようなやつが、他にいるだろうか。 「それだけではないでしょう」 と古泉は小さく笑った。 「命の恩人の言葉なら、誰だって忠実に守ると思いますよ」 恩人っつったって、大したことはしてないぞ。 「あなたにとってはそうでも、僕にとってはとても大事なことだったんですよ」 「…そうかい」 これ以上言ったところで無駄だろうと、俺は諦めながらそう呟き、ホビーショップのドアをくぐった。 プラモデルやなんかをおいてあるコーナーと比べて、ボードゲームのコーナーはいつ来ても閑古鳥が啼いているのは、ボードゲームがマイナーだからなんだろうか。 おかげで、野郎の二人連れでも人目を気にすることなく、思う存分物色できるからいいと言えばいいんだろうが。 「どんなのがいいですかね」 と呟きながら色々と箱を取り出して見ている古泉に、俺は適当に言った。 「二人だけで出来るやつがいいだろ」 「そうですか?」 「どうせ、ハルヒや長門や朝比奈さんが参加してくることなんか滅多にないんだ。三人以上でやるゲームを二人でやったところで盛り上がりに欠けるだろ」 というか、過去にモノポリーやTRPGで失敗してるんだから懲りろよ。 ダイヤモンドゲームだって、本来は三人用だぞ。 「僕は別に、あなたと出来るならそれだけで十分なんですけどね」 だからそういう発言をするなと言うに。 それに、お前が楽しくても俺は詰まらんぞ。 お前ときたら相変わらず弱すぎるからな。 そろそろ上達したらどうだ。 「すみません」 悪びれもせずに古泉は言い、持っていた箱と棚に並んでいた物を入れ替えた。 「これは二人用ですが、少しルールが煩雑なようですね。どうしましょうか」 別に多少難しくてもいいぞ。 最初のうちくらい、お前に勝たせてやりたいし、どうせ俺はルールブックも読まずにお前に教えてもらうことになるんだからな。 お前が出来そうならそれでいい。 「……本当に、」 と古泉は珍妙な顔をして俺を見ながら言った。 「昨日からどうされたんです? 僕を喜ばせるようなことばかり言って」 「そうか?」 意図的に口にしたのは最初に誘った時の「会いたい」という言葉だけだったんだが、さて、他にも俺は何か言ったのかね。 まあ、喜ばせたいと思っていたことに間違いはない。 その理由として、一昨日ひとりでいるお前を見たからだ、とは口には出来ないだろう。 そうすりゃ急転直下、古泉が落ち込むのは目に見えているからな。 だから、 「…この前の詫びってところだ」 と答えた。 「この前というのは……ああ、あれのことですね」 古泉は小さく笑い、 「先日は本当に僕をいじめてくれましたからね」 わが子を千尋の谷に突き落とす親獅子のような気持ちでやってやったというのに、人聞きの悪い言い回しをするんじゃない。 「でも、その分甘やかそうとしてくださっているんでしょう?」 「まあ…な」 だが、お前の希望通りにしてやりたいと思ったのは嘘じゃないし、諸々の発言も本心だ。 「ええ、分かってますよ」 と古泉は笑い、ただでさえ詰めていた距離を更に詰めてきた。 「あなたがそういう人だから、僕はあなたが大好きなんです」 恥ずかしい奴だ。 俺はため息を吐きつつ、古泉の頭を撫で回してやった。 そのまま、思ったことを呟く。 「もし、俺に何か遭ったら、お前はどうなるんだろうな」 古泉は少し考え込むと、 「涼宮さんに全てを明かすかもしれませんし、あるいは機関にとてつもなく大きな借りを作ることになるかもしれません。何にせよ、あなたを助けるためになら、僕はどんなことだってしますよ。たとえ自分がどうなろうとも、ね」 冗談めかした笑顔で言ったがその目はあくまでも真剣だ。 俺は呆れながら、 「…そりゃ、気をつけなきゃならんな」 「ええ、そうしてください。お願いします」 頷きながら思うのは、古泉が可愛くて仕方ないということだ。 同時に、このままじゃまずいと警鐘が頭の中に響く。 だが、本当に古泉のことを考えるならどうすべきなのか、俺には分からない。 自立させたいと思いながら、甘やかせたいと思う、このジレンマを、俺はどうすればいいんだろうな。 ……まあ、いつかはどこかで折り合いをつけてやらなきゃならんことは分かってるんだが、それをどこにするかってのが一番の問題だ。 俺がやれやれ、と息を吐くと、古泉は不思議そうに首を傾げていた。 |