「世界の曖昧な境界線B」とリンクした作品です
部室にいる間、僕とお兄さんは大抵ゲームをする。 そうでなくても、狭い部室の中、お兄さんと一緒にいられるのは嬉しくて、落ち着くことだ。 僕が作り笑いでない笑みを浮かべているのは、決して、お兄さんが言うように僕がいきなり可愛くなったとかそういう訳ではなく、この部屋が僕にとって本当に居心地のいい場所になっているからだと思う。 それにしても、近づきすぎるなとかなんとか言うくせに、お兄さんが一向に僕のことを可愛いというのをやめないのはどういうことだろう。 こう言うのも難だけれど、お兄さんは僕より背も低いし、僕よりよっぽど可愛い顔立ちをしていると思うのに、何で僕のことを可愛いと言うのか、理解出来ない。 理解出来ないといえば、僕を甘やかしたり、あるいは突き放したりするお兄さんの考えも分からないもののひとつだ。 それはどこか恋愛の駆け引きに似ていて、僕を酷く動揺させるのだけれど、お兄さんは気がついてないんだろうな。 そんなことを考えながら、僕が黒のポーンを前進させた時だった。 「古泉、お前、初恋っていつだった?」 恋愛の駆け引きとか考えている時にそんなことを言われたものだから僕は狼狽を押し隠すのに必死にならざるを得なかった。 「いきなりなんです?」 「まさか、初恋の経験もないとは、言わないだろうな?」 心配そうな顔で言うお兄さんに、僕は苦笑した。 僕のことをどれだけ子供だと思っているのかと問いたい気持ちと、その程度のことで心配してくれることに感謝したいような気持ちがせめぎあうが、とりあえずは答えるべきだろう。 「初恋くらい、僕も経験してますけど…あなたはどうなんです?」 僕が問うと彼は何故か口ごもり、 「俺のことはいいんだ。たまにはお前の話を聞かせてくれたっていいだろ」 「…そうですね」 僕は珍しく聞きたがりになっている彼に笑みを強めながら、もう三年ばかりも前になる日のことを思い返した。 その頃の僕は、まだ中学生になって半年ばかりの本当に小さな子供だった。 背は今よりずっと低かったし、精神状態も落ち着かなかった。 自称未来人のお兄さん――つまりは彼に会って以来、多少マシにはなっていたものの、神人を倒すために閉鎖空間に赴けば、身の内を焼き尽くすような破壊衝動に駆られ、血に飢えた獣のように力を揮った。 そうすることで少しは、世界や機関への苛立ちを忘れられたから。 お兄さんに言われたように本を読んだがそのどれもが難解で難しく、もっぱら睡眠導入の役に立つばかりだったし、一人でするボードゲームくらい虚しいものもなかった。 だからその日、僕はひとりの部屋を抜け出して、ふらふらと夜の街を歩いていた。 目的など何もない。 ただ、何も考えていたくなくて、歩いていた。 そのうち雨が降り出したが、雨宿りをしようとも、部屋に戻ろうとも思うことが出来ず、そのまま歩き続けた。 通る車もほとんどなく、人影など更にない。 細い雨は確実に僕の体を濡らし、心と同じように冷やしていった。 誰もいない夜の公園に入り、ブランコに腰を下ろした。 そんな風に遊具で遊び、友達と話したりしていた日々は確かに存在していたはずなのに、それを信じられなくなっている僕がいた。 思い出が空虚なものに変貌してしまった恐怖は、新しい思い出を作ることを拒む原因になるは十分すぎるほど効力を発揮していた。 また、「神様」がこの世界を変えてしまって、せっかく作った思い出もなかったものにされたら。 あるいは、全く違う思い出に変えられてしまったら。 そんなことを思うだけでも怖いのに、更に怖いのは、閉鎖空間で戦い続けるうちに死んでしまうかもしれないことだった。 ――僕が死んだ時、悲しんでくれる人なんているんだろうか。 初めの頃は、そんなことを考えていたはずなのに、それはいつの間にか変化していた。 ――僕が死んでも誰も悲しまないようにしたい。 そんな風に思ったのは、自分のために悲しむ人がいない理由を自分から作りたかったからかも知れない。 期待など、したくなかったから。 だから僕は人と係わり合いになることを極端に避けた。 曖昧な笑顔で適当に話を合わせていれば、誰も僕を本当に惜しんだりはしないだろうと、そう思って。 それは上手くいった。 そうして僕は仮面を手に入れ、孤独を抱え込んだ。 それでいいと思いながら。 「そんなところで何やってるんだ?」 不意に声をかけられ、僕は驚いて顔を上げた。 視線の先には、女の子らしい薄水色に大人しい花模様の傘をさした女性だった。 高校生くらいだろうか。 暗い上に傘をさしているので顔はよく見えなかったが、何故か僕はその人をとても綺麗だと感じていた。 傘と同じ色のレインシューズを履いた彼女は、短いスカートをはいているにもかかわらず、ブランコの周りにつけられた柵を軽く乗り越えると、僕の傍らに立った。 「風邪引くぞ」 服装の割にぶっきらぼうな喋り方をする人だと思いながら、僕は首を振った。 「大丈夫です。気にしないでください」 「気にしないでって言われてもな…」 と彼女は頭を掻き、口の中で何やら呟いていたが、 「とりあえず、傘をさし掛けるくらいは許してくれよ」 そう言いながらもう少し僕に近づくと、傘をぐっと突き出してきた。 僕としては放っておいてほしかったのだが、この状況下でそうは言えないだろう。 かといって、彼女から逃げるためだけにここを移動することも既に億劫で、僕は黙ってされるがままにしておいた。 彼女はしばらく黙っていたが、やがてそれに耐えかねたのか、 「あー……悩み事か? 少年」 問われてつい、頷いてしまったのは、彼女の雰囲気がどこかお兄さんに似ていたからだろう。 優しくて、それがために少しばかりお節介に思えるところも、その頃僕がお兄さんに抱いていたイメージによく似ていた。 「そっか。小さいのに大変だな。俺でよかったら話を聞くけど、どうする?」 その問いかけには流石に首を振った。 正直に話したところで気違いにしか思われないだろうし、そもそも人とそんな話をしたいと思わなかったのだ。 だから僕はあえて冷たく、 「あなたには関係ないでしょう?」 「そりゃそうなんだが、相談ごとってのは下手に事情を知ってる人間よりも、何も知らない第三者にした方がいい時もあるんだぞ。事情通だと話した内容が他に伝わったりすることもあるし、あるいはそいつの都合のいいように考えを曲げられることもあるかもしれない。それくらいなら、何も知らない相手の方がいいと思わないか? 信用出来ないって言うんなら、俺はお前の名前を聞かないし、俺もお前に名乗らない。それなら安心だろ?」 「…どうしてそんなことを言うんですか? あなたには関係ないのに」 そう無関係だと強調しても彼女は一向に気にしないらしい。 いっそ迷惑だと言わなければならないのだろうか、と思った僕に、彼女は照れたように笑い、 「いや…お前、ちょっと似てるんだよ。俺の……知り合いに」 そいつさ、と彼女はその知り合いとやらについて話し始めたが、僕はほとんど聞いてはいなかった。 ただ、その彼女の笑顔がとても綺麗で、それに見惚れていた。 綺麗と言うよりもむしろ、人を牽きつけるような笑み、とでも言えばいいんだろうか。 見ているだけで心が温かく満たされるような、そんな笑顔だった。 話しながら、表情はくるくるとまるで百面相をするように変わっていく。 困ったような顔。 はにかんだ表情。 少し怒っている顔。 嬉しそうな微笑み。 そして、愛おしくて堪らないとでも言うような顔。 結局僕は、 「お前、聞いてないだろ」 と彼女が拗ねたように言うまで、そのころころと変わる表情に見とれていた。 「あ、ごめんなさい」 反射的に謝ると彼女は笑いながら僕の頭をくしゃくしゃと撫でた。 「律儀に謝るなって。俺も途中で何話してるんだか分からなくなってきてたし、それに、俺の方が話を聞いてもらってどうするんだって話だよな」 僕がその時笑ったのは、別に彼女の言葉がおかしかったからでも、自分のことを滑稽だと思ったからでもない。 ただ、彼女に笑顔を向けられて、頭を撫でられて、嬉しかったのだ。 彼女は僕の笑みを見て、ニイッとでも表現したら丁度いいような、少し悪戯なものに笑みを変えると、 「そうやって笑ってろよ。その方が可愛いし、事態だって好転するんじゃないか?」 笑ってるだけで事態が好転したりするものだろうか、と首を傾げる僕に、彼女は太鼓判を押す。 「さっき話した俺の知り合いも、いつも笑ってるんだけどな、そのせいか、何やってもうまく行く奴なんだ。不可能なんてないんじゃないかと思うくらいにな。だから、笑ってたら大概何とかなるんじゃないか? あ、ただし、人に謝る時と不幸事があった時はのぞけよ。すみませんとか言いながら笑ってるの見るとぶん殴ってやりたくなるからな」 「気をつけます」 「ん、いい返事だ」 それで少年、と彼女は屈みこみ、僕と目線を合わせるようにして言った。 「悩み事はどうする? 一人で悩むか? それとも、俺に話すか?」 僕は笑みを消さないまま、答えた。 「おかしな話だと思うかもしれませんけど、聞いてくれますか?」 「ああ、いいぞ。言っておくが、おかしな話ってのにも俺は慣れてるからな」 そんな言い方もお兄さんを彷彿させて、僕はなんとなく嬉しくなりながら、口を開いた。 「お姉さんは、この世界がつい半年ばかりも前に始まったものだとしたら、どう思いますか?」 「……なあ、そういうの流行ってんのか?」 「え?」 僕の問いに対する返事としては余りにも妙なものに僕が首を傾げると、彼女は、 「いや、さっき言った俺の知り合いも、結構前にそんなことを言ってたから。…でもまあ、」 ちらりと僕を見て、 「……ないな。うん、ない。――ええと、半年前に世界が始まったんだとしたらどう思うか、だよな?」 「うん」 「…そうだな……。あんまり関係ないと思うんじゃないか?」 「どうしてです? だって、自分の覚えてるものが全部偽物の記憶ってことになっちゃうんですよ?」 「人間の記憶なんて曖昧なものだからな。たとえ世界が始まったのが半年前だろうが三年前だろうが137億年前だろうが、勝手に思い込んで記憶を作っちまうことはあるし、逆にあったことを忘れたりもするだろ。大事なのは、今、自分が何を覚えていて、それでどうしたいと考えたりするかってことだと思う」 大体、と彼女は続けた。 「未来人でもなければタイムマシンを持っているわけでもないわれわれ凡人にとって、過去がいつ始まったかなんて関係ないと思わないか? 自力では行けもしないんだぞ」 僕は驚きながら尋ねた。 「じゃあ、お姉さんは怖くないんですか? 自分のこれまでの人生が、全部作られたものだとしても、嫌じゃないんですか?」 「それが作られたものでも、そうじゃなくても、結果として俺が今ここにいることに変わりはないんだろ。だったら、同じじゃないか」 「同じ…」 「人間の知覚できる世界なんて狭いんだ。人間の知らないところで宇宙人が何かしてようが、異世界人が何かしてようが、知らなければない事と同じだろ」 強引ながらも反論しがたい理論に僕が唖然としていると、彼女は笑い、 「そんな哲学的なことで悩んでるくらいなら、いっそ女の子のことで悩めよ。好きな子とかいないのか?」 そんなものいるはずがない。 僕はそう答える代わりに、 「お姉さんはいるんですか? 好きな人」 と尋ねてみた。 胸の内に淡い期待を抱いていたことは一生口に出来ないだろう。 何故なら彼女が、あのはにかむような表情を浮かべて、 「あー…うん、いるな。いる。というか、恋人がいるんだ」 と答えたからだ。 どんな人か問う必要はなかった。 僕はくすっと笑い、 「さっき話してた人でしょう?」 「当たりだ。…俺、そんなに分かりやすいか?」 「どうでしょう」 と僕は誤魔化したが、彼女は結構分かりやすい人だった。 多分、あんなに表情を変えていたのも、好きな人の話だったからなんだろう。 そして、僕の話を聞いてくれたのも、僕がその人と似ていたからに違いない。 胸の中がきゅうっと締め付けられるような気持ちがして、僕はブランコから立ち上がった。 「ん? 家に戻るのか?」 「はい」 答えながら僕は彼女に向き直り、 「話を聞いてくれて、ありがとうございました」 と頭を下げた。 「いや、俺の方こそ聞いてもらったし。…家、近いのか? 送って行かなくて大丈夫か?」 「大丈夫ですよ。僕の方こそ、送りましょうか? 女性の一人歩きは危ないですし」 すると彼女は何故か微妙な表情をして、 「…ありがとな。でも、大丈夫だ。お前の方こそ、気をつけろよ」 と僕の頭をもう一度撫でてくれた。 僕はぺこりとお辞儀をして、その場を離れた。 部屋へ駆け戻りながら思ったのは、まだ雨が降っていてよかったということと、夜でよかったということだ。 零れてくる涙を雨で洗い流しながら、僕は逃げるようにして部屋に帰った。 「人に初めて恋をした日、僕は失恋の苦味まで知ってしまったんですよ」 そう苦笑すると、今まで黙って聞いていたお兄さんは嫌そうに唇を歪め、 「わざわざそういう表現をするな、気色悪い」 「酷いですね」 と答えながら、僕は彼女の姿と声を思い出す。 目の前のお兄さんに似ていたような気がして、聞いてみる。 「あなた、親戚によく似た女性とかいないんですか?」 「なんだ? お前の初恋の相手が俺の身内だとでも言いたいのか?」 意地悪く言いながらお兄さんは笑い、 「悪いが、お前の言った条件に合いそうな奴はいねえよ」 「そうですか」 残念、と思うのは彼女のことを未だに気にしているからではない。 単純に、 「あなたとそっくりの女性がいるなら、是非お近づきになりたいと思ったんですけどね」 冗談めかして言ったのに、本気の部分を勘付かれたらしい。 「アホか」 という言葉と共に、頭を軽く小突かれた。 苦笑しながら窓の外を見ると、細い雨が降り始めていた。 「雨か」 困ったように呟くお兄さんは、どうやら傘を忘れたらしい。 「僕の傘に入って帰られますか?」 「要らん。大体、お前の傘に入ろうとしたところで狭くて役に立たんだろう」 「あなたとなら濡れて帰っても構いませんよ」 「冗談はほどほどにしろ」 そう怒られることさえ楽しくて、僕は笑みを零した。 |