妹が何の脈絡もなくその言葉を口にした翌日、俺は古泉と顔を合わせるなり言った。 「二度とうちに来るな」 古泉は笑顔のまましばらく停止していたが、数秒をかけてやっと再起動出来たらしい。 「えぇと……僕が何かしましたか?」 「しただろ」 俺はぶっきらぼうに言いながら、どかりと椅子に腰を下ろした。 軽く体をずらしてドアの方を向けば、古泉も目の端に映るだけになる。 それにしたってムカムカする。 古泉の顔を見たから余計だ。 どうしてここまで顔の造作ってやつには個人差があるんだろうな。 もう少し平均化したところで個体判別の役には立つと思うんだが、たとえそうなったところでその中で美醜と言うものが決まるだけなんだろうか。 それにしたって、不公平だろう。 なんだってこいつは困惑しているだけでも絵になるくらい綺麗な顔立ちで、しかもなんか可愛いんだ。 「愛らしい小動物のよう」という言葉は朝比奈さんのためにあるのであって古泉のためにあるのではないので、古泉にも似合うと思ってしまった俺の頭を誰か大砲で吹き飛ばしてくれ。 この際、銃でもいい。 その時はきっちりと脳幹を撃ち抜いて、即死させてくれることを切に願う。 古泉は首を傾げながら考え込んでいたが、とうとう降参するように言った。 「すみません。思い当たる節がないのですが……」 それじゃあ聞くが、お前、うちの妹に何をした。 「は? 妹さんに……ですか?」 そうだ。 昨日の夜、いつものように俺の部屋に入ってきた妹は何を考えていたんだか知らないが、唐突に、 「あたし、いっちゃんのお嫁さんになるー」 と宣言していったんだぞ。 本当にそれだけ言いに来たらしく、言うだけ言ってさっさといなくなりやがったので、理由も聞けなかった。 だがしかし、あんなことを言うからにはそれなりの理由があるんだろうし、そうであれば責任は古泉にあるんだろう、と俺は判断したわけだ。 「そう言われましても…」 と古泉は困ったように笑った。 「僕は特に何かをしたという覚えはありませんよ。お邪魔させていただく際にお土産を持参したくらいでしょうか」 狙ったように妹の好物ばかりをな。 「それも偶然です。たまたま、僕の好みと妹さんの好みが似通っていただけでしょう」 子供味覚のロリコンめ。 「味覚については否定しませんが、ロリコンとまでは言われたくありませんね。確かに、あなたをお兄さんと呼べるのは嬉しいですし、妹さんはさぞかし魅力的な女性に成長されることでしょうが、現時点で将来の約束をする気にはならないんですが」 「うるさい」 と俺は吐き捨て、再び古泉から目を逸らした。 さて、こうしてぐだぐだと話をしているのがどこかと言えば、いつものSOS団のアジトこと、文芸部室に他ならない。 つまり、室内にはいつものように長門と朝比奈さんがおり、今日は珍しく俺よりも先に来ていたハルヒまで団長席に鎮座していた。 俺と古泉の遣り取りにしっかりと耳をそばだてていたらしいハルヒは呆れきった調子で言った。 「キョンのシスコン」 俺は別にシスコンじゃない。 ただ単に、妹の将来が心配なだけだ。 「それをシスコンっていうんじゃないの」 いーや、違うな。 そもそも女の子の成長というのは男のそれと比べて著しく、かつ、早いものなのだ。 思い返してみろ。 中学男子が男子高校生なってたところで余り変わらないし、小学生時代に遡ったところでそれは変わらないだろう。 また、三十や四十になったところで本質的には同じままと言っていいようなやつが大多数に違いない。 ところが女の子は違う。 まず、成長することによって、男よりもずっと体型に変化が現れる。 それによって羞恥が芽生えたり、身近な男まで異性と考えたりするようになったりする。 しまいにゃお父さんなんてお父さんなだけで嫌とか言い出すんだぞ。 それくらい成長に伴う変化が顕著なんだ。 それならば、まだ懐いてくれている間の短い一時を守ろうとして何が悪い。 「あんたは父親じゃなくて兄でしょうが」 妹が兄である俺を慕ってくれる時間の短さに変わりはない。 現に「お兄ちゃん」と呼んでくれなくなってるんだからな。 俺がそう言うと、長門が本から顔を上げて言った。 「妹とは特別なもの?」 勿論。 兄として庇護しなくてはならない存在だからな。 「そう」 と呟いた長門は次の瞬間、 「…お兄ちゃん」 ――えぇと、それは俺に向かって言ったのか? そうだよな。 長門の目は俺を向いているし、何より視界の端で古泉が苛立っているのが分かる。 もしもハルヒでなく古泉が神であったのなら、閉鎖空間がとんでもない速度で広がっていたことだろう。 その神たるハルヒはと言えば、長門の意外すぎる発言に混乱しているのか、珍しくも呆然と突っ立っていた。 かく言う俺もかなり戸惑っている。 「な、長門?」 「……分かった」 何が分かったんだ。 長門は答えなかったが、なにやら納得したらしい。 しかし、古泉ばかりでなくハルヒまで不機嫌になりながら、 「有希、キョンはキョンで十分よ!」 と言い切るのは何なんだろうな。 ハルヒまでもが俺を兄呼ばわりしたいわけではなかろうに。 やれやれ、と俺はため息を吐き、ぶすったれた古泉へ目を向ける。 すると古泉は、ハルヒに聞こえないような小声で、 「あなたをお兄さんと呼ぶのは僕の特権だと思ってたんですけどね」 本来ならそれは妹だけの特権のはずだが、今更何を言ったところで無駄だろう。 「認めたのはあなたですよ」 他に人がいないところでという条件付でな。 間違ってもハルヒに聞かれるなよ。 かなり面倒なことになりそうだ。 「それは僕も重々承知の上ですよ。しかし、長門さんのあの行動は予想外でした」 全くだ。 あいつは何がしたかったんだ? 「おや、お分かりにならないんですか?」 さっぱり分からんな。 「長門さんも、あなたを慕っているということですよ。それくらい、ご存知だと思っていましたが」 長門が俺を、ねえ? ちょっと想像し辛いな。 確かに、いくらか馴れてくれたような気はするが、かといって、慕われると言えるほどには思えないんだが。 「……鈍い人ですよね」 俺のことか。 「他に誰がいるんです?」 と古泉は笑い、 「まあ、長門さんがあなたを慕っていると言っても、先ほどの言動からしておそらく、妹として兄を慕うような感覚なのでしょうね。あるいは、娘として父を、ということかもしれませんが」 父はやめてくれ。 そう呼ばれるには俺は歳も経験も足らないぞ。 兄ならまあ構わないが。 「妬けますね」 気色悪いことを抜かすな。 しかもお前、冗談でなく本気で言っているだろう。 目がマジだ。 「正直なところを述べたまでですよ? 長門さんがあなたを『お兄ちゃん』と呼ぶ日が来たら、僕も遠慮なくあなたを『お兄さん』と呼びますからね。それこそ涼宮さんの前でも、あなたの親御さんの前でも」 やめろ。 「ところで、」 と古泉は笑みを形作り、 「出入り禁止は冗談ですよね。本気に見えませんでしたが」 さあな。 「まあ、いざとなったらお母上か妹さんにお願いするだけですけど」 この野郎……。 ――まあ、こうやってふてぶてしく居直られる方が、静かに落ち込まれるよりはずっと安心だな。 そういうわけで俺は古泉に出入り禁止を言い渡すことも出来なかったばかりか、なし崩し的に古泉を連れて帰ることになったのだが、妹は昨日の発言を忘れたようにいつも通りであり、尚且つ夜になって古泉が帰ってから確かめると、 「キョンくんがどうするかと思って言ってみただけだよー」 と笑いながら言いやがった。 どうやら妹は兄をからかうくらいには精神的に成長しているらしい。 そう考えると何やら寂しく思えたが、完全無視よりはずっとマシだろうと己を慰める俺は、やはりシスコンの気があるのだろうか。 |